心を病んでいる人が多い世の中です。
私もそういう方と話す機会が最近特に多いのですが、そういう方と話していて共通しているな、と思うことは、
「この人は全部、わかっているな。」ということです。
全部というのは、「どうして自分がこういうことになったのか、という原因」「このままではいけない、と言う現状認識」「抜け出すためにはどうすればいいのか」
「将来はもっとこうなるべきだ論」「今の自分に対する周囲の見方」などなど、文字通りぜぇ~んぶ、です。
話を聞いていても「そんだけわかってんなら、その自分がわかっているとおりにすればいいじゃん。」てな感じです。
実際、そういう人に対してこちらは何かアドバイスらしきことを言わなきゃ、と気負って何かを言ったとしても、「あ~! なるほどねぇ。」という言葉は返ってきません。こちらの言葉が終わるのを待つやいなや、「うん、それでね・・・~」と引き続きまた何か思い出したかのように自分の話をはじめ、「あれ? まったく聞いてない・・」というくらいのスルーぶりです。
結局、自分のことに精一杯で、人の話を聞く余裕がない、ということなのでしょう。
「心を病んでいる」というとすぐにそれ、心療内科だ、心理カウンセリングだ、と言いますが、まず医者の話を聞く、こころに留め置く余裕のある状態になってから行かないとそれも意味のないことになってしまうのでは、と思う次第です。
「心を病んでいる人」は、自分が病んでいることを知っていますから、病んでいる自分が人に対してできることなんてない、とあきらめたり、自信を失ったりしています。
その状態とは言い方を変えれば、「自分が人から受け取るサイドに立つことばかりに躍起になっている人」ということもできます。
「してもらう」「してほしい」ばっかり状態なわけです。
それを察知した思いやり深い人は、あれこれと言葉をかけたり世話を焼いたりするわけですが、いかんせん、この状態の人が一番求める「してほしいこと」は「自分の話を聞いて欲しい」なわけですからかみ合うわけはありません。
心療内科や心理カウンセリングに行くと、そういうところの先生はまずほとんど自分からしゃべりません。相手の話を「うん、うん」と黙って聞くばかりです。
「これで治療?」なんて、健康な人が見ると思うわけですが、これでいいわけですね。
まずは「自分の話を聞いて欲しい」という欲求をクライアントは満たしたい、というのが一番なのですから。
昨日もたまたまTVを見ていたら、自殺志願者を教会で集団生活させることによって立ち直らせることに一助している牧師さんの話をやっていました。
その牧師さんが自殺志願者になんとか自殺を思いとどまらせて、その次に何を行うか、ということを3ステップで話していましたが、それは「1.まず、食べる習慣をつける。(自殺志願者は自殺という最後の手段を行う前にも自暴自棄になり、自分を健康に生かすためのことをしてきておらず、緩やかな自殺をすでにしてきているようなもの。それまでに何日も食べていない人がほとんどだからまずは食べることに一生懸命になってもらう。) 2.何もしない。(何もしなくてもいいのだよ、という時間をどっぷりと味わってもらう。) 3.それから目標をもつ。」でした。
これを自殺まではいかなかったにせよ、心を病んでいる人に当てはめるならば、やはり、「1.食を大切にする。(インスタントやレトルトなど、簡単なもので済まそうとせず、きちんと作ったものをきちんと時間をかけて味わう、ということをする。) 2.何もしない。(こうすべき、ああすべき、とか悶々と考えずに一歩踏み出せないなら、思い切って今は休養だ、と割り切る。) そしてその次に、3.人に自分が感じていることを吐露し、真摯に受け止めてもらう。」がくるのでしょう。
そしてその次にようやく「4.人のアドバイスを聞く。」という段階になるのでしょうね。
全部わかっちゃってる心を病んだ人は、全部わかっちゃってるがゆえに、「私は本当ならこうすべきだというのはわかってるんだけど~」とか、「いつも~というふうに考えちゃって、それじゃあいけないってわかってるんだけど。」とかいう発言が多く見受けられます。
ところがそれだけ自分のことをわかっている人が、ではどうして全く前に進めないのか、というと、逆に言えば、わかりすぎているがゆえに「~すべき」が多すぎて、自分をがんじがらめにしてしまっているのです。
だから、「先行きのことばかりを心配して、肝心の『今』を見ていない。」
「今」をみていないから、人の話も聞けない、ということなのでしょうけれど。
こういう人に出会うと、「私にできることなんて何もないのだな。」ということを本当に実感して、言葉をつむぎだすのが虚しくなります。
何を言っても堂々巡りだからです。
言葉は宙をさまよい、「それは言われなくても、もう自分でわかっているんですけど・・」と言ってまた同じことの繰り返しの自分の置かれた境遇とやらなければいけないことと、しかしどうしてそれができないのか、という理由の話になります。
そして反面、ヴィッキーの言う「偉大なる教師は自分の内側にいるのだ。」というこのオーラソーマのシステムの偉大さを改めて思います。
ヴィッキーが初めてイクイリブリアムボトルを創り上げた頃は、心の問題よりも肉体そのものに作用することが主眼点として置かれていました。
しかし、そういうつもりでボトルを使った人の感想を聞いているうちにヴィッキーはだんだん気づいていったのです。「どうもこのボトルは肉体よりも心の問題を解決しそうだぞ。」ということに。
ボトルが人の言葉より雄弁にその人のこころの奥の奥の細かいヒダにまでもぐりこんでくれるのです。
そしてついにはその人は他でもない、自分の心の奥の深いところから、もう声をあげたくて仕方がなくて、という自分の再生のための産声に気付くのでしょう。
プラクティショナーとして私にできることは、せめていかにその人がボトルを使う気になるまでをスムースに導いてあげるか、だけです。
最後にそれでも一言、言葉でアドバイスさせてほしいのですが、心を病んでいる人は、「どうして?」を自分に投げかけすぎです。
「どうしてこんなことになっちゃったの?」
「どうして私はここから抜け出せないんだろう?」
「どうしてこう思っちゃうんだろう?」
「どうしてあの人はそんなことを言うの?」
どうして?・・・ どうして? どうして?
「どうして?」というのは過去~現在を問い詰める質問です。
でもこの「どうして?」を「どうしたら?」という言葉に変えてみたらどうでしょう? すると、未来に対する質問に早変わりします。
「どうしたらここから抜け出せるだろう?」
「どうしたらこう思わないようになるだろう?」
「どうしたらあの人はああいうことを言わないようになるだろう?」
どうですか? 少なくとも無意味に自分を痛めつける質問はしなくても良くなりそうな気がしませんかねぇ。
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