映画的・絵画的・音楽的

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一枚のハガキ

2011年08月24日 | 邦画(11年)
 『一枚のハガキ』をテアトル新宿で見てきました。

(1)上映開始からそんなに日が経っていないときに映画館に行ってみたら、1時間前で立ち見とのことで、別の作品に切り替え他日を期したのですが、2週間経っても相変わらず満席に近い状況なのには驚きました。
 99歳になる新藤兼人監督の最後の作品とされていることもあり、また終戦記念日間際に公開が始まったという事情があるのでしょうが、中高年向きの映画の上映がそんなに多くはないという状況をも反映しているかもしれません。




 物語は、戦争末期、言づてを戦友・定造(六平直政)から頼まれた主人公・啓太(豊川悦司)が、終戦後暫くして、戦死した定造の家にまで尋ねていき、一人で貧しい百姓屋に住む戦友の妻・友子(大竹しのぶ)と会って、ついには一緒に生活するに至る、というものです。

 戦友が主人公に見せる妻からのハガキ(「今日はお祭ですが あなたがいらっしゃらないので 何の風情もありません」)のことや、主人公が100分の6の確率で生還していることなどは、すべて新藤監督の実体験に基づいていると後で分かり、驚きました。



 でも、映画は、実話に基づいている点を強調することはなく、むしろ、予想に反して、随分と簡素化・抽象化された作りであり、様式化された映像になっています。

 例えば、定造やその弟の出征風景です。



 いかにもこの映画のために新たに作られたセットだとわかる農家の前で、二回ともマッタク同じ光景が繰り返されるのです。むろん送られる兵士は、兄と弟というように異なりますが、その他の登場人物や式次第は同一なのです。
 これは、当時、日本の随所で見られた光景を抽象化したものと思われ、『キャタピラー』で見られる随分と侘びしい出征風景(昨年12月19日の記事の(2)を参照)と比べても、また残されている当時の写真(例えば、このサイトのもの)を見てみても、かなり様式化されている感じを受けます。
 大体、誰も見ている人などいるはずのない方向に向かって、皆が横一列に並んでいるのからしてそんな印象を受けますし、式を取り仕切る地区の警防団長〔大杉漣〕が行進する際の腕の振り方も実に滑稽だったりします。

 また、コメディ・タッチなところも随所に見受けられます。
 特に、戦争未亡人の友子に横恋慕している警防団長の仕草が、何かと笑いを誘います。
 例えば、手ぬぐい頬被り姿で、友子の家の雨戸の節穴から中の様子を覗いたり、友子と主人公が食事をしているときに突然入り込んできて主人公と交わす会話も、滑稽味に溢れています。

 それに、過去の新藤監督作品への言及もなされているようです。
 スグニ思い浮かぶのは、『裸の島』(1960年)の水を桶で運ぶシーンです。あるいは、『裸の島』の殿山泰司乙羽信子の夫婦と、この映画の六平直政(豊川悦司)と大竹しのぶの夫婦との類似でしょう。




 とはいえ、どうかなという点もないわけではありません。
a.監督・原作・脚本の新藤兼人氏が伝えたい事柄が、余りにもあからさまに描かれているのではないのか、と思いました。すなわち、劇場用パンフレットに掲載されているインタビューに拠りますが、「戦争反対」とか、「どんなことがあっても人間は立ち上がれる」といったメッセージを、新藤氏は、底辺に蠢いている個別的な人間の生き様を描き出すことを通して、観客に送りつけているものと思われます。
 むろん、そうしたメッセージを伝えるべく、様々な工夫はこらされてはいるものの、作品の幅とか奥行きが狭まってしまったきらいがあるのではないか、と思っています(元々、制作者の言いたいこととかメッセージや主題などを作品に探る作業だって、大学入試までの話ではないでしょうか?)。

b.時に、演劇を見ているような感じになることがあります。特に、大竹しのぶは、豊川悦司と対峙して自分の思いをぶちまけるときなどは、確かに真似の出来ない素晴らしい演技なものの、他方からすると大層誇張した動きであり、それをスクリーンの中で見る場合、いささかやり過ぎではないかと思えてきます。



c.ラストで、友子の家の焼け跡を二人で開拓して麦を植え、それがよく実った風景が描き出されます。ただ、啓太は漁師の業しか手に付けていないはずですから、いくら友子がいるとはいえ、そんな簡単なものなのでしょうか?
 それに、この場面は、啓太が「一粒の麦を撒こう」といったことに対応するのでしょうが、ただそれは何か農作物を育ててみようといったぐらいの意味合いでしょうから〔この点については、下記(2)をご覧下さい〕、実際に麦畑にするまでもないのでは、と思えてしまいます(自給自足的な生活を営んでいる二人の生活にとっては、まず米を作る方が先ではないでしょうか)。

d.つまらないことながら、友子の義理の母親(倍賞美津子)は自殺しますが、その直前に、友子に内緒で貯めた60円(今の20万円くらいでしょうか)の隠し場所を教えます。旦那(柄本明)が心臓麻痺で倒れて亡くなったときは、お金がないというので、すべて役所で面倒をみてもらったために、棺桶も僧侶も用意できませんでしたが、自分の時にはこのお金を使ってくれ、と言ってるようなものではないかな、と思ってしまいます(実際、友子はそのようにします)。

e.主人公の啓太は復員して、自分の家の戻ると、父親が自分の妻と出来てしまって、大阪に出奔してしまい、もぬけの殻。ふぬけになって4年経過後、啓太は叔父に、「市役所へ行って、ブラジルへ行く手続きをしてきた」と言います。仮にそれが1949年とされているとしたら、実際にブラジルへの移民が再開されたのが1953年のことですから、時期的には合わないことになります(第二次世界大戦の勃発に伴って、ブラジルは、1942年に枢軸国と国交断絶をしたために、移民は中断していました)。

 といっても、いずれもツマラナイことばかりです。
 むしろ、新藤監督の前作『石内尋常高等小学校 花は散れども』(2007年)に出演していた俳優が再び集められて、それぞれが気合いの入った演技しているのですから、実に見応えがあります。
 この映画で定造の父親を演じている柄本明は、前作の主役の校長を演じていましたし、豊川悦司は東京から帰ってきた脚本家、大竹しのぶは、豊川悦司を慕いながらも結婚の申し出は拒絶する田舎料亭の女将、六平直政も故郷の村の収入役、というように、前作でも皆主要な役に就いていました(大杉漣は、生徒の一人ながら、顔面に戦火による酷い火傷の跡が残る印象的な役柄を演じています)。

(2)それにしても、啓太が発する「ここを畑にして、一粒の麦をまこう」という台詞は、何か引っかかるものがあります。なにしろ、映画における種まきのシーンでは、啓太は、いうまでもなく一粒どころか、沢山の種を手づかみして撒いているのですから!

 そこで劇場用パンフレットを見ると、おそらく新藤監督の筆によるものと思われますが、「新約聖書ヨハネ伝第十二章 一粒の麦地に落ちて/死なずば多くの実を/結ぶべし」との添え書きを付けて、麦の穂の挿絵が掲載されています。



 また、同パンフレットの「新藤兼人、映画人生75年」と題するページには、「監督作品」のみならず「主な脚本作品」が掲げられていますが、その中の「1958年」のところに、「『一粒の麦』監督:吉村公三郎」との記載があります(注1)。
 となると、啓太のその台詞には、監督の重い思いが込められていると受けとめるべきかもしれません。

 とはいえ、実際の聖書では、「一粒の麦、地に落ちて死なずば、唯一つにて在らん、もし死なば、多くの果を結ぶべし」(第24節)となっています(注2)。
 これを新藤監督のように、真ん中部分を省略してしまうと(あるいは、後半の「死なば」を「死なずば」と言い換えてしまうと)、撒いた種が枯れなければ実る、というような至極当たり前のことを言っているに過ぎないのでは、と受け取られかねません。

 でも、おそらくそういうことではないでしょう。新藤監督が「一粒の麦」に込めている思いとは、たった一粒でも枯れずに頑張っていると、遂には多くの実が得られる、といったようなことではないでしょうか(注3)?
 そう捉えれば、友子は、戦争によって二人の夫を失い、何もかもをなくしてしまったように見えるにもかかわらず、ここまで一人で頑張ってきたからこそ、こうした豊かな実りに出会えたのだ、だからラストの友子の笑顔なのだ、ということになるのでしょう。

 ただ、聖書に述べられている意味合いは、一粒の麦でも地中に撒かれたら多くの実に結実するが、撒かれないのであれば一粒のままで終わってしまう、さらには、自分(キリスト)は十字架に掛けられて死ぬものの、そのことによってで多くの人々が救われるのだ、といったようなことになると思われます(注4)。
 仮にこうした方向からこの映画を見ることができるとしたら、友子の良人の定造やその弟(更には義理の父母までも)が死んでしまったからこそ、まさにそうした犠牲があるからこそ、ここにこんなに豊かな収穫が得られて自分たちが生きながらえていける、というようなことにも、もしかしたら繋がってくるのかもしれません
 要すれば、元の聖書からすれば、「死」とか「犠牲」が強調されることになるのではないか、と思われるところ、ただその場合には、映画の焦点は、友子ではなく定造やその弟の方に移動してしまう恐れがあるでしょう。

(3)渡まち子氏は、「監督自ら「最後の映画」と語るこの物語では、どれほど深い悲しみや怒りの中からでも、立ち上がることができるのが人間だとも教えてくれる。思いのたけを吐き出し、すべてをリセットした後、啓太と友子は桶で水をくみ作物を育てる。名作「裸の島」を思わせる、水を運ぶシーンの力強さこそ、生を肯定するメッセージなのだ」として70点をつけています。
 また、福本次郎氏も、「凡百の作品で描かれてきた、生を愛おしむ美しさと死なねばならなかった無念を通じて戦争の愚かさ批判する姿勢を、この映画はじっくりと構えたカメラに収めることで強烈に浮き彫りにする」として60点をつけています。


(注1)実際には、コンクールで入選した脚本(千葉茂樹氏による)を元にして、新藤兼人氏が補筆したとのこと。
 その映画は、福島から集団就職をした金の卵と言われた中学生たちの話で、菅原謙二や若尾文子らが出演しています。見ていませんから推測ですが、集団就職する中学生の一人一人を「一粒の麦」に譬えているのではないでしょうか?

(注2)ここに記載したのは文語訳です。新共同訳では次のようになっています。
 「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。

(注3)本文にも書きましたように、劇場用パンフレットに掲載されている新藤監督インタビューの末尾には、「『一枚のハガキ』もどんなことがあっても人間は立ち上がれる、という人間の力強さを描いています」とあります。

(注4)「デジタル大辞泉」では、「一粒の麦」の意味として、「人を幸福にするためにみずからを犠牲にする人。また、その行為」とあります。




★★★☆☆