映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

2011年08月17日 | 洋画(11年)
 『卵』を銀座テアトルシネマで見てきました。

(1)いよいよ『蜂蜜』→『ミルク』と見てきたユシフ3部作の最後の作品というわけですが、作品毎にユシフの年齢が上がってきて、『卵』では30代の後半辺りといった年格好でしょうか。

 冒頭、老女が、手提げを持って森の方から畑地を真っ直ぐに手前に向かって歩いてきて、そのまま別の方向にある林の方へ歩き去る場面が映し出されます。
 そして「Yumurta(卵)」というタイトルが現れ、男がベッドに腰を掛けて酒を飲んでいると、電話がかかってきます。どうやら男の田舎からのようで、むこうで何事かがあったようなのです。
 そして、画面は、男の営む古本屋の店先。かけられているレコードからピアノ曲が流れる中、若い女が店にやってきて「料理本はある」などと言いながら、手にしていた酒瓶と交換に本を持って店を出て行きます。

 どうもここまでが導入部ながら、前2作同様、初めのうちは状況が全然分からないままです。
 ですが、暫く時間が経過すると、冒頭で畑の中を歩いていた老女が主人公ユシフの母親で、彼女が亡くなったという知らせの電話が、イスタンブールで古本屋を開業しているユシフの元に、田舎のティレから届いたのだ、という事情が分かってきます。

 それで、ユシフは車でティレに向かうのですが、当初はイスタンブールからトルコ東部のティレに向かうという事情がわからないものですから、なんで夜に出発しながら、暫くすると朝になったり昼過ぎになったりするのだろうと、不思議な感じに囚われます。
 さらに、ユシフの母親が暮らしていた家での葬儀の後、皆が棺とともに墓地に向かいます。埋葬が終わって、独り取り残されたユシフが周囲を見回すと、森の木々が風に大きくそよいでおり、ユシフは木の根元に横になったりもします。

 大体こんな調子で映画は進んでいきます。
 さらに、ユシフが田舎町を歩いていると、昔なじみの友達に出会ったりします(注1)。そんなところでの話からすると、ユシフは、この街から大都市に出て、詩人として成功していることになっているようです(処女詩集『BAL(蜂蜜)』をいつも携行していますし、ティレの友人にも配ったようですし、その詩集で受賞したことを伝える新聞記事が家の冷蔵庫に貼ってあったりします)。
 他方、この街には良い思い出がなさそうで、ユシフは、家を出た後これまで一度も戻ってきていないようです。

 この映画における出来事といえば、二つあげられるでしょう。
 一つは、ある家の庭先で、男が滑車を回しながら綱のような物を編んでいる光景を見つめていたら、ユシフは、『ミルク』でも見られた「てんかん」の発作を起こしてしまうのです。滑車を回していた男が、事態に驚いて水をユシフに与えたりするうちに気がつきます。依然として持病は治っていないように思われます。

 もう一つは、ユシフの母親の面倒を見ていたアイラという若い女性との出会いです。親戚筋の娘ということで、ユシフが母の葬儀で戻ってくると、食事のことなどイロイロ世話を焼いてくれます(注2)。



 初めのうち彼女は、酷く遠慮していましたが、次第に打ち解けてくると、町の電気屋の彼氏がいるものの(注3)、自分としては大都市に出て大学に入りたいとのこと。それに、ユシフの母親から、ユシフのいい話を随分と耳にしているようで、彼に悪い気を持っていないような感じです(例えば、母親は、ユシフと一緒に3人で、思い出のある湖や山に行ってみたいと話していた、とアイラは言いますし、ユシフ用にと母親が編んでいた編み物を、アイラが引き続き編んでいたりします)。

 さらにアイラから、母親の願いを聞かされ、是非母親の言うとおりにすべきだと言われます。しかし、ユシフは、そんなことはしたくありません。というのも、羊の生贄を神に捧げてくれという願いでしたから。
 それでも、ユシフは故郷を去る直前になって、母の願いを受け入れ、アイラと一緒に羊の生贄の儀式をすることになります。
 ただ、羊を手に入れるために、思いがけずホテルに泊まらざるを得なくなり、たまたまそこで執り行われていた結婚式を一緒に見たりするうちに、ユシフとアイラは次第にお互いを意識するようになっていきます。
 それでも、儀式が終わると、見送るアイラをティレに残して、ユシフはイスタンブールに戻ろうとするものの、急に降り立ったティレ近くの草原で、実に不思議な経験(大型の牧羊犬に襲われて、一晩そこを動けませんでした)をすると、元の母親の家にUターンします。
 すると、そこにアイラが、手に鶏の卵を持って現れ、一緒に朝食を取り始めます。
 おそらくは、二人の間に愛が育まれることになるのではないでしょうか(でも、遠くで雷が鳴っていたりして、先行きのことは分かりませんが)。

 ユシフ3部作の制作順序は、劇場用パンフレットにあるDirector’s Commentによれば、『卵』→『蜂蜜』→『ミルク』 で、決して『卵』が最後につくられたわけではないにせよ、3部作全体として、幼いユシフが遂に愛する人を見出す物語と考えれば、『卵』はまさに完結編となり、それに相応しい出来栄えではないか、と思いました。
 『卵』でユシフを演ずる俳優も、『ミルク』で描かれた寡黙で本と詩を愛する青年がそのまま壮年になった雰囲気を誠に上手く醸しだしていて、また相手役のアイラを演ずる俳優も瑞々しく美しく、『卵』単独でも実に優れた作品になっていると思いました。

(2)3部作全体の流れを見てみましょう。
a.タイトルのこと
 『蜂蜜』→『ミルク』→『卵』というように、従来からすると意想外のタイトルといった感じを受けますが(原題も同じです)、「蜂蜜」はユシフと父親との関係、「ミルク」は母親との関係、そして「卵」は恋人(アイラ)との関係を象徴していると言えるのではないでしょうか。

b.主題的なこと
 そうであれば、主に描かれているのはいうまでもなくユシフの成長の軌跡であり、ただ、『蜂蜜』では、父親と濃密な関係を持っていながらも父親が失踪してしまい、『ミルク』では、母親とべったりの生活をしていながらも母親が男に走ってしまいます。最後の『卵』では、ユシフは、愛する人を見出すようですが、果たしてその先どうなるのか、と思わずにはいられません。

c.疾患のこと  
 というのも、一つには、ユシフは、幼い時分には吃音症があり、青年期にはてんかんの発作を起こしていて、それがどうも壮年期でも治ってはいないようだからでもありますが。

d.詩のこと
 また、ユシフは、青年期になると詩に打ち込み、雑誌にも詩が掲載され、その処女詩集は評判を呼んだようですが、壮年期になるとスランプに陥っていて、ほとんど詩を書いてはいないようです。古本屋というだけで、これからうまく生活していけるのでしょうか?

e.映画の冒頭のこと 
 『蜂蜜』の冒頭では、木を登っていた父親が落下するというシーンが置かれていましたが、『ミルク』の冒頭でも、女性を木の枝に逆さに吊るし、下で薪を焚いて悪霊を燻り出す儀式めいたシーンが描かれています。
 他方、『卵』の冒頭は、そういった特異な場面ではないものの、上で述べたように、老女が一人畑を歩くシーンが設けられています。
 それぞれ、これは一体何を意味するのだろうと見ている方を訝しい思いにさせますが、映画を見ているうちに大体こんなことなのかなと納得いくようにはなるので、一つの編集テクニックと考えればいいのでしょう。

f.森の樹木のそよぎ
 アジアの映画の一つの特色とも言えるのではないかと、クマネズミが密かに思っている木々のそよぎですが、森を舞台とする『蜂蜜』はもちろんのこと、小都市の周辺部の生活を描いている『ミルク』でも、何度か木々がそよぐシーンが見られます。
 『卵』になるとさすがに減ってしまうものの、それでも上で述べたように、母親を埋葬した墓地の周囲の木々がそよぐシーンが描き出されています。

g.ファンタジックなこと
 この点については、『ミルク』に関する記事の(2)のdでも触れましたが、『卵』でも、ないわけでもなさそうです。

 一つは、上記したように、何故か分からないままに、ユシフは、牧羊犬に襲われてその場から動けなくなってしまうのです。そして、牧羊犬と顔を見合わせた後、ユシフは突然泣き出してしまいます。
 あるいは、亡くなった母親が、ユシフをティレから立ち去らせないようにしたのかもしれません。20年近く母親から離れていて、最後も看取らなかったことに思い至り、ユシフは涙にくれたのでしょうか。
 ですが、その結果として、ユシフはアイラとすぐに再会できたのですから、あるいはアイラのことを母親は言いたかったのかもしれません(または、女性のこととなると、土壇場で逃げ出してきたこれまでの自分の不甲斐なさを思って、泣き出したのかもしれません)。

 もう一つは、ティレの女友達(注4)が、送ってもらった詩集の中で「井戸」の詩が良かったと言うのと前後して、ユシフが井戸に落ちて出るに出られずに、井戸の上に上着をかざすことで助けを呼ぶシーンが映し出されますが、これが詩の内容に対応しているとも思われるところです。

h.伝統的なこと
 『蜂蜜』では、アララット山で行われる祭りの光景が映し出されますし(ユシフと母親が、父親に関する情報が得られるのではないかと出かけます)、『ミルク』では、煙責めで体内から悪霊を追い払おうとする冒頭のシーンでしょうか、そして『卵』では、羊の生贄を捧げる場面でしょう(専用の祭場が設けられており、また10名くらいの女性が羊の肉を裁断したりしています)。

i.現代的なこと
 当然のことながら、3部作が進行する中で、設定される時点は次第に現在に近づいています。それで、例えば、『蜂蜜』では運搬手段としてロバが登場するものの、『ミルク』になるとサイドカーを着けたオートバイにユシフは乗っていますし、『卵』でもユシフは自家用車を使ってイスタンブールから故郷のティレまで戻ったりします。
 また、『ミルク』では、電話でミルクの配達注文を聞いたりしていたものが、『卵』になると、ユシフは、携帯電話を使ってイスタンブールに連絡したりしています。

 このユシフ3部作は、個々の作品を単独で取り出しても、それぞれ実に優れていますが、3部作全体としてみても、一人の男の精神的な成長の軌跡が、周囲の人達の関係(特に肉親との)やトルコの東部という独特の雰囲気の中で落ち着いて濃密に描き出されていて、大変感動的です。

(3)福本次郎氏は、「主人公の苦悩、死者の願い、周囲の人々の思い、それは懐かしさなのか後悔なのか。相変わらず映画はその答えを導くことに興味はなく、さまざまなメタファーで観客のイマジネーションによりかかる」、「さまざまな苦楽を体験した後にやっと至る心境。感情を抑制した寡黙な映像はユシフの歩んだ半生を反映しているようだった」として50点をつけています。



(注1)その内の一人で居酒屋を営む男は、「ティレに居残り組は2人しかいないよ」などと述べますが、雰囲気的には、この作品とは何の繋がりもないものの、『ソリタリー・マン』で、落ちぶれたマイケル・ダグラスが出会うクラスメート(ダニー・デヴィート)を思い出させます。

(注2)アイラがクラスメートと出会ったときに、そのクラスメートは既に大学に進学している話しぶりですから、アイラはおそらく20歳くらいの年齢では、と推測されます。

(注3)一緒に電気屋のオートバイで公園に行ったときに、アイラは、電気屋から「自分のことをどう思っているのか」と迫られますが、「いい人だと思っている」とだけ答え、電気屋をいたく失望させます。彼女がそう言うに至った事情として、電気屋はユシフの存在に思い至り、たまたま停電の修繕でユシフの家に入り込んだ時にアイラもその家にいるのを見て、酷く怒った顔つきになるのが見ものです。

(注4)彼女は、昔ユシフがティレにいた自分に付き合っていた女性で、話からすると、アンカラに出たものの、「ホームシック」でこの街に戻ってきて先生に就いているようです。彼女も、「この街はつまらない」と言いますが、既に結婚しているようで、ユシフとの関係も戻るわけではありません。




★★★★☆