映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

ツリー・オブ・ライフ

2011年08月28日 | 洋画(11年)
 『ツリー・オブ・ライフ』を吉祥寺のバウスシアターで見てきました。

(1)『イングロリアス・バスターズ』で快演を披露したブラッド・ピットや『ミルク』のショーン・ペンらが出演し、またカンヌ国際映画祭でパルムドールを受賞した作品でもあることから、随分と期待を込めて見に行ってきました。
 ですが、こちらが思っていた映画とは大違いの内容です。

 この映画は、ビッグバンから現在の人類に至る大きなマクロの流れと、その中でのブラピ一家という個別的なミクロの展開が、ミックスしています。
 前者についていえば、様々の実に美しい映像が映し出されますし、後者の方も、父親のオブライエン(ブラッド・ピット)を中心とする一家5人が生活する姿が、まさに中流の生きかたそのもののように描き出されていきます。

 とはいえ、しばらく見ているうちに、ミクロのブラピ一家の内実は、むしろどこにでもありそうなものではないか、その意味でかなり抽象的ではないか、またマクロの流れに関する映像は、普段NHKTVのドキュメンタリー番組などでよく見かけるものと大差ないのではないかと思えてきて、全体としてこの映画になかなか乗り切れないものを感じてしまいます。
 それに、例えば、冒頭にヨブ記からの引用(注1)が掲げられ、すぐその後で、人の生き方には二通りあるなどということがジェシカ・チャステインによって述べられ(注2)、ラストでもコラールが歌い続けられるといったように、各場面が宗教的なもの(特にキリスト教)に強く関連付けられているような感じがするものの(注3)、キリスト教のことなど普段あまり考えたこともないクマネズミには、どうしても違和感を拭い去ることはできません。

 下記の(3)で述べる要因(クマネズミの愛好するクラシック・ギター!)から★一つ追加はいたしますが、クマネズミとしては、全体としてそれほど優れた作品と言えないのではないかと思いました。


(2)でも、そう簡単に言い切ってしまえない何かが、本作品にはあるようにも思います。
 それが何だか結局はよくわからないものの、もう少し詳しく見ていきましょう(以下は、感想というよりも、むしろ作品内容をなぞっているだけの単なるメモ書きにすぎません)。

イ)まず、ブラピ一家についてです。
 この一家の出来事としては、最初に唐突に、19歳になった次男が亡くなったという知らせを、ジェシカ・チャステインが受け取って不安に駆られる場面が描かれます。



 さらに、その連絡が飛行場にいるブラピに入りますが、あまりのことに、彼はその場に座り込んでしまいます(注4)。


 次いで、大人になった長男ジャックショーン・ベン)が登場します〔以降のブラピ一家に関する映像は、おそらくはジャックの回想の中のものではないか、と考えられます(注5)〕。



 現在のジャックは、一方で、第一線の建築家として忙しく活躍しているものの(注6)、他方で、自分がいまそこに存在すること自体に懐疑を持っているようです。
 そして、そういう思いを彼に抱かせる根源的な原因が、どうやらジャックとその父親との関係にあるようなのです。というのも、回想しながらチェックするとでもいうように、ジャックの幼い時分の家族の様子が、何回となく画面に映し出されるからですが。

 まず、母親のジェシカ・チャステインが妊娠して、赤ん坊が生まれ、洗礼を受け、両親と子供たちは楽しげに戯れたり、というように、家族を巡っていろいろな物事が典型的に進行します。
 ただ、暫くしてジャックが少年になると、父親のブラピはジャックに対し、返事の際は「Yes,sir」と言え、というように、いろいろ口煩く注意をするようになります。
 果ては、今部屋に流れている曲の名前を訊ねたりもするのです(でも、そんな子供に、「ブラームスの交響曲第4番」を当てさせるのは、やり過ぎと言うものでしょう!)。

 ソウしたことが度重なって、ジャックは父親に対して酷い敵愾心を抱くようになります(その背景の一つには、音楽的才能のある次男R.L.が、自分より優しい扱いを父親から受けているとのヤッカミもあるようです。そういう気持ちの表れとして、上記の次男の死亡の知らせを聞くシーンが、最初に描き出されているのかもしれません)。

 他方で、ブラピの方にも理屈はあります。世の中で成功するには、強い意志が必要なのだ、音楽家になろうとしてなれなかった自分のようになるな、云々というわけです〔ここには、息子に何かを伝えたいとする父親の姿勢がうかがわれ、それは邦画でも見かけるところです―このブログのこの記事の(3)などをご覧下さい〕。



 しかしそうはいっても、自分に出来ないことを子供に強いるなんて、と思うのが普通でしょう。
 ジャックは、他の家に忍び込んで、その家の主婦の下着を盗んだりするなど、いろいろな悪さをするようになります。

 そうこうするうちに、ブラピは、27件もの特許申請しているにもかかわらず敗訴が続き、さらに悪いことには、勤務していた工場が閉鎖されて職を失ってしまいます。
 こうなると、ブラピは、無力感にとらわれるとともに、これまで自分が思いあがっていたことに気が付き、逆に、自分に誇れるものは子供たちだけだ、と言うようになります。

 ここで突如として、映画は現在のジャックに戻り、それも荒涼とした岩山をさ迷う姿なのです。



 さらには、そこに立てかけてある木の門をくぐり抜けます。すると、突然、いろいろな人々がジャックの周囲を歩きだし、なんとその中には、昔のブラピ一家も混じっているではありませんか(注7)。



 さらに画面は変わって、再び、現代建築のビルの中にいるジャックに戻ります。

 ジャックから見たように描き出されているブラピ一家の様子については、次のようにもいえるのでしょうか。すなわち、家族のためによかれと情熱をこめてブラピがしたことが、逆に裏目に出てしまい、家族から反目を買うことになってしまうものの、やはり結局は皆がそれぞれ許し合い、そして今の自分はそれでかまわないのだという思いに至る、というように。

ロ)こうした一家の背景となるものが、ビッグ・バンから現在にまで至る大自然の大きな変化といったものでしょう。
 まず、巨大な星雲が爆発し、火山から溶岩が流れ出て、水蒸気爆発しているようです。
 それから、ユタ州のキャニヨンのような荒涼たる地表が現れ夜明けを迎えたりする一方で、海の中では、海藻が大きく揺れる中、クラゲとかウミウシのようなものが蠢いていたり、恐竜が現れるかと思うと、サメとかエイが泳ぎ、血液が血管を流れるうちに、心臓も鼓動し出します。
 全体として、ビッグバンから生命の誕生、そして人類までの道のりが(途中、大隕石が地球に衝突しますが、これによって恐竜などが絶滅したのでしょう)、混沌としたたくさんのイメージの集合でもって、かなり抽象的に描き出されている、といえるのではないかと思います。

 ビッグバンからの進展が、地球科学で想定されているような一直線のものとして描き出されるのではなく、このように様々な変形を凝らし複雑に入り組んだものとして映し出されると、それはそれで随分と興味をひかれます(尤も、恐竜のCGは余計でしょうが←数少ない観客サービスでしょうか?)

ハ)こうしたマクロの大自然の動きと、先のミクロのブラピ一家の暮らしとを、ある意味でつなぎ合わせる接点となっているのが、何回も映し出される森の描写ではないでしょうか(それと、海中の藻も)?
 ただ、その際専ら焦点を当てられるのは、西欧的な垂直に天に伸びる樹木から形成される森であって、アジア的な風にそよぐ柔らかい森の光景ではありませんが(この映画で風にそよぐのは、大きな花が咲いている木の場合です)。

ニ)ということで、あと何回か本作品を見て、細部に今少し目を向けることができるようになれば、いろいろ議論できるようになるかもしれませんが、さりとて、わざわざそんなことをしようという気も今のところ起きてこないといった感じです。

 それでも、俳優達は頑張っているなと思いました。
 ブラッド・ピットは、口やかましく様々なことを言い募り、自分の思う方向に家族をもっていこうとする権威主義的な父親ながらも、実のところは家族のことを深く愛している人物という大層困難な役を巧みに演じていると思いましたし、ショーン・ベンが演じる長男ジャックも、映画の中では殆ど会話のシーンがなく、専らその醸し出す雰囲気で気持ちを表さなくてはならないという、これも難役ながら、説得力ある演技力でこなしています。さらには、クマネズミには初めてのジェシカ・チャスティンも、プラピに振り回されながらも、どこまでも優しく子供達に接する母親役としてうってつけだなと思いました(本作品を制作したテレンス・マリック監督による未公表の次回作にも、出演しているようです)。


(3) この作品では、音楽が欠かせない要素になっていると考えられます。
 マクロのシーンでは、スメタナの「モルダウ」やベルリオーズの「レクイエム」などが使われ、ミクロのシーンでは、元々音楽家の道を志していたことから、ブラピが、教会のオルガンでバッハの「トッカータとフーガ」を弾いたり、自宅のピアノでモーツアルトのソナタを弾いたりする場面があるだけでなく、驚いたことに次男はクラシック・ギターを練習してもいるのです!
 さらに次男が、テラスでレスピーギの「シチリアーナ」を爪弾いていると、それを聞きつけた父親のブラッド・ピットが、ピアノで低音部分を弾きだし、綺麗な二重奏となっています(注8)。
 また、エンドロールでは、最初のうち、F.ソル(このブログの昨年4月17日の記事をご覧ください)のギター曲の「月光」(Op.35-22)が流れたりします。

 おそらく、ブラピ一家の様子が描かれている1950年代は、今と違ってクラシック・ギターに対する一般の関心がズッと高かったころではないかと思われます(注9)。
 そして実際には、次のような事情もあるとのことです(注10)。
 すなわち、テレンス監督(注11)には、音楽的な才能を持った弟ラリー・マリックがいました。ただ、20代の前半でスペインのギタリスト、アンドレス・セゴビアに弟子入りしたものの(注12)、思ったほど上達しないことに落ち込んで、自殺してしまったようなのです(1968年)。

 むろん、そんな実話があろうとなかろうと映画を見る上で何の足しにはなりませんが、こうした人を寄せ付けなさそうに思える映画に対する突破口としては、興味が惹かれるエピソードではないでしょうか。


(4)福本次郎氏は、「カメラは彼らの姿を散文的にスケッチしていくが、隅々にまで精密な美しさと静謐な躍動感が行きとどいたしっとりとした映像は、ストーリーを頭で理解するのではなく、心で感じ取ることを観客に要求する。今まで見た記憶がない、ため息が漏れる圧倒的な映像体験だった」として90点もの高得点をつけています。
 また、渡まち子氏も、「キューブリックの「2001年宇宙の旅」にも似て、哲学的な物語とめくるめく映像美の間に、生きるとは何かという問いが封じ込められている。混迷する現代に生きる観客それぞれの心の中に浮かび上がってくるのは、その問いの答えではなく、より良い人間でありたいという祈りなのかもしれない」として70点をつけています。



(注1)「わたしが地の基をすえた時、どこにいたか。もしあなたが知っているなら言え」(第38章第4節)と、「かの時には明けの星は相共に歌い、神の子たちはみな喜び呼ばわった」(第38章第7節)。〔口語訳旧約聖書

(注2)冒頭で、母親が、“生きる道には二つある。世俗の道と神の恩寵の道。前者は、周りに愛があろうとも、利己的・威圧的で自分の意志に人を従わようとするが、後者は、不幸なこと、人に疎まれることをおそれない。自分は、後者を選んだ”といったような意味合い(大体ですが)のことを述べたりします。
 実際には、彼女は次のように述べているようです。
 There are two ways through life. The way of nature and the way of grace. You have to choose which one you will follow. …….
(例えば、このサイトの記事の初めの方を参照)

(注3)そもそも、タイトルの「The Tree of Life」からして、旧約聖書の創世記第2章からの引用のようです〔アメリカ標準訳 (1901年版)〕。
 And out of the ground made Jehovah God to grow every tree that is pleasant to the sight, and good for food; the tree of life also in the midst of the garden, and the tree of the knowledge of good and evil.

 さらに、様々のマクロの映像と一緒に、「主よ、なぜです。あなたはどこに。」とか、「あなたにとって、私たちとは?答えてください」、「あなたに縋ります」、「嘆きをきいて」などといった問いかけの言葉などが挿入されたりします。

 ただ、キリスト教とこの映画の各場面との関連性についていろいろと探り出したとしても、それは部外者による単なる解説に過ぎず、だから何なのかという思いに囚われてしまうので、これ以上の追求は控えることと致します。

(注4)次男が死んだのは、1970年代前半と推定され、当時はベトナム戦争の末期でもあることから(まだ18歳以上の男子に対する徴兵制が設けられていました)、その戦争で死んだとも考えられますが、映画では何も説明されません〔本文の(3)をも参照してください〕。
 なお、ブラピは、「あいつに謝る機会がなかった」、「みじめな思いをさせた、自分が憎い」などと自分を責めますが、なんとなく『オカンの嫁入り』で、桐谷健太が、自分のせいで祖母が亡くなってしまったとして、「何よりも悲しいのはもう会って謝れなくなってしまったことだ」、と言っていたのに通じるのかな、などと密かに思ったりしました。

(注5)といっても、例えば、上記の飛行場におけるブラピの映像が誰の視点によるものなのかは、判然としませんが。
 また、最後の方の場面で、ジャックの前に現れるたくさんの人の中にブラピ一家が混じっていて、かつその中に幼いころのジャック自身がいるとなると、これがジャックの回想なのかどうかよくわからなくなってきますが。

(注6)全面ガラスで覆われた超近代的なビルが立ち並ぶビルのオフィスで、ジャックは仕事をしていますが、そうした建築物をズッと小型化したものが、映画『クロエ』の舞台となっているキャサリンの自宅とはいえないでしょうか〔同映画に関する記事の(3)をご覧ください〕?

(注7)もしかしたら、天国への入口なのかもしれませんが、映画では、次男の死以外の死は明示的に描かれていませんし、なにより、なぜブラピ一家は何十年も前の姿なのか、そしてそこになぜ少年時代のジャック自身が入っているのか、よくわからないことだらけです。

(注8)このサイトの記事を参照。

(注9)1944年、51歳の時に、セゴヴィアはニューヨークに転居し(62歳でマドリッドに定住するようになるまで)、充実した演奏活動を行うようになりました。そういうことが、当時のラリーの背景にあるのではと推測されます。

(注10)たとえば、このサイトの記事を参照。
 ただ、こちらの記事によれば、元々の出典は、ジャーナリストのピーター・ビスキンド〔ドキュメンタリー映画『イージー・ライダー☆レイジング・ブル』の原作者(?〕)の書いたものによるようです。
 なお、同記事によれば、テレンス・マリックは3人兄弟で、テレンスが一番上で、2番目が自殺したラリー、3番目がクリスで、オクラホマ州で石油生産を行っていたときに自動車事故に遭遇したとのこと。

(注11)テレンス・マリック監督は、大変な寡作で、これまでに本作を除き4本しか制作していません。



 ちなみに、プロデュースも手掛けており、そのうちの1本が例の『アメイジング・グレイス』とのこと!

(注12)本文のすぐ前で触れたソルの「月光」は、沢山あるソルの練習曲の中からセゴヴィアが選んだ20曲(『セゴビア編による ソルの20の練習曲』)の中に入っています。




★★★☆☆



象のロケット:ツリー・オブ・ライフ