『大鹿村騒動記』を丸の内TOEIで見てきました。
(1)映画『奇跡』についての記事に書きましたように、期待を込めて待っていた『大鹿村騒動記』が16日に公開されるとわかり、でもまあそうすぐに行かなくともとグズグズしていたところ、19日に主演の原田芳雄の訃報。それで躊躇していたのですが、上映期間が限定されているとのことで、慌てて見に行ってきた次第です。
映画のストーリーはごく単純で、長野県の大鹿村で鹿の肉を出すレストランを経営している風祭善(原田芳雄)は、村で開催される歌舞伎の準備で大わらわ。そうしたところに、18年前に失踪した妻・貴子(大楠道代)が、一緒に連れ立って出て行った幼馴染の能村治(岸部一徳)ともども戻ってきてしまったのです。
出演するしないのすったもんだの挙句、原田芳雄は、村歌舞伎で『六千両後日文章 重忠館の段』の主役・景清を演じ、会場の大観衆から拍手大喝采を受ける、というものです。
この映画でメインとなるのが300年の伝統がある大鹿村歌舞伎のため、そのままでは映画全体が古色蒼然となってしまう恐れがあるからか、逆にとびきり現代的な話題が次から次へと飛び出します。
まず、村にリニア・モーターカーを引っ張ってきて駅を設置することに賛成するのか反対するのかが、村人の間で熱く議論されます。
特に、村歌舞伎で重忠役を演じることになっている土建業の石橋蓮司(推進派)と、これも村歌舞伎に出演する予定の農業に従事する小倉一郎(反対派)とが対立して、小倉一郎は村歌舞伎に出ないなどと言い出す始末。
次いで、村では、地上デジタル放送移行に関する準備が進められています。松たか子扮する役場の事務員が、「チューナーを無償で配布する」旨を村役場から放送で流したり、それぞれの家のTV受像機にテューナーを取り付ける作業が行われていたりします。
また、性同一性障害に悩む若者・雷音(冨浦智嗣)が原田芳雄のレストランに現れ、アルバイトとして雇われます(彼は、「小さいときから喉仏が嫌だった」などと原田芳雄に話します)。
なかでも大変なのが、貴子(大楠道代)。彼女は認知症を患っていて、断片的な記憶しか持っていないどころか、冷蔵庫の中に入っているものを片端から口に入れようとしたり、万引きをしたりするのです(注1)。
と言っても、現代的な要素ばかりでなく、伝統を守っていこうとする人たちもいます。
貴子の父親(三國連太郎)は、シベリア抑留帰りで、現在は高齢につき一線を退いて、一方で大鹿村歌舞伎保存会会長をしながら、他方で円空仏に似た木彫の仏像を刻んでいます(どうやら、原田芳雄の父親と同じ収容所にいたようなのです)。
また、瑛太は、歌舞伎の黒子役で、主に縁の下で回り舞台を回す役を引き受けていますが、将来は原田芳雄の後を襲って景清を演じることを夢見ているようです。
こうして、現代的要素と伝統的な要素が巧みに入り混じりながらストーリーは展開され、それがクライマックスの『六千両後日文章 重忠館の段』の上演に行きつくわけです(注2)。
特に、数百年の時を隔てて、この演目の台詞と映画のストーリーとが同調するのですから驚いてしまいます(だからこそ、原田芳雄らの俳優たちが、様々の役を村歌舞伎の舞台で実際に演じたのでしょう)。
例えば、貴子が、万引きをしたにもかかわらず、自分は何もしていないと言い張るために、原田芳雄はキレてしまって、「このままで、景清なんか、やれない」と村歌舞伎からの降板を言い出します。すると、突然貴子は、「ハテ合点の行かぬ、心有りげな夫の詞、謎が説けねば赤の他人、ハテ何をがなあ」云々と、『重忠館の段』の中で道柴が言う台詞を口にするのです。
また、『重忠館の段』の台詞ではありませんが、舞台の袖で貴子が、「私、許してもらわなくてもいいよ」と言うと、景清の台詞、「仇も恨みも是まで是まで、此の上頼むは六代君の、御先途を頼み入る」が続きます(注3)。
ここでは、景清と道柴との関係に、風祭善と貴子との関係が重なり合っているわけですが、さらに、『ツィゴイネルワイゼン』(1980年)における中砂と青地周子との関係も、原田芳雄と大楠道代との関係を経由して、重ね合わせたら面白いのではないでしょうか(注4)?
以上のように書いてくると、とても真面目な映画のように思われかねませんが、実は随所に笑いの要素が散りばめられていて(注5)、それらを出演者が皆見事に演じ切っていて、実に楽しい、そして見ごたえのある作品に仕上がっているのです。
(2)原田芳雄については、このところ映画などでよく見かけていて(注6)、こんなに突然亡くなってしまうとは思いもよりませんでした。
クマネズミは、追悼の意味で、彼の出演作で一番気に入っている『ツィゴイネルワイゼン』のDVDを見てみました。
この作品については、監督の鈴木清順氏が取り上げられることが多いのですが、そしてそれはある意味で当然とも言えますが、出演している原田芳雄(中砂役)、大谷直子(その妻の園と芸者小稲の2役)、藤田敏八(中砂の友人の青地役)、大楠道代(その妻の周子役)といった俳優陣が実にすばらしい演技を繰り広げているのです。
特に、目にゴミが入ってしまったと痛がる中砂の目の中に、青地周子が舌を差し入れてゴミを取り出そうとするシーン、青地周子が腐りかかった水蜜桃を美味しそうに食べるシーン、中砂が妻の二の腕の骨格を探るように撫で回すシーンなどは出色と言えるのではないでしょうか。
(3)渡まち子氏は、「この映画、ひと言でいえば、初老の男女3人の色恋騒動だ。作品の規模も物語のスケールもごく小さいのだが、妙に心地よいのは芸達者な俳優たちの存在が際立っているからである」が、それのみならず、「脚本がなかなかひねりが効いていて秀逸」であり、「にぎやかな群像劇は阪本順治にしては珍しいスタイルだが、本作は味わい深い人情喜劇に仕上がった」として65点をつけています。
また、福本次郎氏も、「冴えない風貌でパッとしない運命に愚痴を垂れながらも、一度舞台に上がると別人のごとき立派な見栄を切る善。その、ハッとする落差を原田芳雄が苦み走った顔で演じて見せ、酸いも甘いも噛み分けた男の奥行きを見事に表現する」などとして60点をつけています。
(注1)雑誌『シナリオ』8月号に掲載されている座談会「現代の“喜劇”『大鹿村騒動記』はどうやって生まれたか」において、脚本の荒井晴彦氏が、「僕のオフクロが認知症なんですよ。阪本のオフクロも、ちょっと違うんだけど、あそこに出てくるような病気なんですよ」と語り、また監督・脚本の阪本順治氏も、「うちのオフクロをきっかけに、記憶障害でない方の認知症っていうのがあることを知ったんですよ」と述べています。
なお、この座談会は、映画制作を巡るものとして近来出色の出来栄えではないかと思います。
(注2)映画の中で演じられる『六千両後日文章 重忠館の段』については、このサイトで、あらすじとその舞台の全部を見ることが出来ます(なお、上演に際して解説がなされているところ、つまらない話ばかりがなされ、肝心のこの演目の制作年とか作者名、それに他の「景清」物―近松門左衛門の『出世景清』など―との相違点といったところは、何も解説がなされないのには驚きました!)。
(注3)ここらあたりの台詞は、上記雑誌『シナリオ』8月号に掲載されている本作品のシナリオによります。
(注4)さらに、7月3日に放映されたフジテレビ「ボクらの時代」において、原田芳雄と大楠道代に岸部一徳が加わってトークが行われています(詳細については、たとえばこのサイトで)。
(注5)例えば、村役場の職員(加藤虎ノ介)が、戻ってきた岸部一徳に対して、18年分の住民税を支払えと迫ったり、旅館の主人(小野武彦)が、貴子を探しに雨の中を飛び出していく岸部一徳の姿を見て、「一度目は悲劇、二度目は喜劇」と、有名なマルクスの言葉(『ルイ・ボナパルトのブリューメール18日』)をつぶやいたりします。
(注6)最近では、映画では、『ウルトラミラクルラブストーリー』、『たみおのしあわせ』、『歩いても、歩いても』、『黄金花』、『ロストクライム』それに『奇跡』、TVドラマでは『火の魚』を見ました。
★★★★☆
象のロケット:大鹿村騒動記
(1)映画『奇跡』についての記事に書きましたように、期待を込めて待っていた『大鹿村騒動記』が16日に公開されるとわかり、でもまあそうすぐに行かなくともとグズグズしていたところ、19日に主演の原田芳雄の訃報。それで躊躇していたのですが、上映期間が限定されているとのことで、慌てて見に行ってきた次第です。
映画のストーリーはごく単純で、長野県の大鹿村で鹿の肉を出すレストランを経営している風祭善(原田芳雄)は、村で開催される歌舞伎の準備で大わらわ。そうしたところに、18年前に失踪した妻・貴子(大楠道代)が、一緒に連れ立って出て行った幼馴染の能村治(岸部一徳)ともども戻ってきてしまったのです。
出演するしないのすったもんだの挙句、原田芳雄は、村歌舞伎で『六千両後日文章 重忠館の段』の主役・景清を演じ、会場の大観衆から拍手大喝采を受ける、というものです。
この映画でメインとなるのが300年の伝統がある大鹿村歌舞伎のため、そのままでは映画全体が古色蒼然となってしまう恐れがあるからか、逆にとびきり現代的な話題が次から次へと飛び出します。
まず、村にリニア・モーターカーを引っ張ってきて駅を設置することに賛成するのか反対するのかが、村人の間で熱く議論されます。
特に、村歌舞伎で重忠役を演じることになっている土建業の石橋蓮司(推進派)と、これも村歌舞伎に出演する予定の農業に従事する小倉一郎(反対派)とが対立して、小倉一郎は村歌舞伎に出ないなどと言い出す始末。
次いで、村では、地上デジタル放送移行に関する準備が進められています。松たか子扮する役場の事務員が、「チューナーを無償で配布する」旨を村役場から放送で流したり、それぞれの家のTV受像機にテューナーを取り付ける作業が行われていたりします。
また、性同一性障害に悩む若者・雷音(冨浦智嗣)が原田芳雄のレストランに現れ、アルバイトとして雇われます(彼は、「小さいときから喉仏が嫌だった」などと原田芳雄に話します)。
なかでも大変なのが、貴子(大楠道代)。彼女は認知症を患っていて、断片的な記憶しか持っていないどころか、冷蔵庫の中に入っているものを片端から口に入れようとしたり、万引きをしたりするのです(注1)。
と言っても、現代的な要素ばかりでなく、伝統を守っていこうとする人たちもいます。
貴子の父親(三國連太郎)は、シベリア抑留帰りで、現在は高齢につき一線を退いて、一方で大鹿村歌舞伎保存会会長をしながら、他方で円空仏に似た木彫の仏像を刻んでいます(どうやら、原田芳雄の父親と同じ収容所にいたようなのです)。
また、瑛太は、歌舞伎の黒子役で、主に縁の下で回り舞台を回す役を引き受けていますが、将来は原田芳雄の後を襲って景清を演じることを夢見ているようです。
こうして、現代的要素と伝統的な要素が巧みに入り混じりながらストーリーは展開され、それがクライマックスの『六千両後日文章 重忠館の段』の上演に行きつくわけです(注2)。
特に、数百年の時を隔てて、この演目の台詞と映画のストーリーとが同調するのですから驚いてしまいます(だからこそ、原田芳雄らの俳優たちが、様々の役を村歌舞伎の舞台で実際に演じたのでしょう)。
例えば、貴子が、万引きをしたにもかかわらず、自分は何もしていないと言い張るために、原田芳雄はキレてしまって、「このままで、景清なんか、やれない」と村歌舞伎からの降板を言い出します。すると、突然貴子は、「ハテ合点の行かぬ、心有りげな夫の詞、謎が説けねば赤の他人、ハテ何をがなあ」云々と、『重忠館の段』の中で道柴が言う台詞を口にするのです。
また、『重忠館の段』の台詞ではありませんが、舞台の袖で貴子が、「私、許してもらわなくてもいいよ」と言うと、景清の台詞、「仇も恨みも是まで是まで、此の上頼むは六代君の、御先途を頼み入る」が続きます(注3)。
ここでは、景清と道柴との関係に、風祭善と貴子との関係が重なり合っているわけですが、さらに、『ツィゴイネルワイゼン』(1980年)における中砂と青地周子との関係も、原田芳雄と大楠道代との関係を経由して、重ね合わせたら面白いのではないでしょうか(注4)?
以上のように書いてくると、とても真面目な映画のように思われかねませんが、実は随所に笑いの要素が散りばめられていて(注5)、それらを出演者が皆見事に演じ切っていて、実に楽しい、そして見ごたえのある作品に仕上がっているのです。
(2)原田芳雄については、このところ映画などでよく見かけていて(注6)、こんなに突然亡くなってしまうとは思いもよりませんでした。
クマネズミは、追悼の意味で、彼の出演作で一番気に入っている『ツィゴイネルワイゼン』のDVDを見てみました。
この作品については、監督の鈴木清順氏が取り上げられることが多いのですが、そしてそれはある意味で当然とも言えますが、出演している原田芳雄(中砂役)、大谷直子(その妻の園と芸者小稲の2役)、藤田敏八(中砂の友人の青地役)、大楠道代(その妻の周子役)といった俳優陣が実にすばらしい演技を繰り広げているのです。
特に、目にゴミが入ってしまったと痛がる中砂の目の中に、青地周子が舌を差し入れてゴミを取り出そうとするシーン、青地周子が腐りかかった水蜜桃を美味しそうに食べるシーン、中砂が妻の二の腕の骨格を探るように撫で回すシーンなどは出色と言えるのではないでしょうか。
(3)渡まち子氏は、「この映画、ひと言でいえば、初老の男女3人の色恋騒動だ。作品の規模も物語のスケールもごく小さいのだが、妙に心地よいのは芸達者な俳優たちの存在が際立っているからである」が、それのみならず、「脚本がなかなかひねりが効いていて秀逸」であり、「にぎやかな群像劇は阪本順治にしては珍しいスタイルだが、本作は味わい深い人情喜劇に仕上がった」として65点をつけています。
また、福本次郎氏も、「冴えない風貌でパッとしない運命に愚痴を垂れながらも、一度舞台に上がると別人のごとき立派な見栄を切る善。その、ハッとする落差を原田芳雄が苦み走った顔で演じて見せ、酸いも甘いも噛み分けた男の奥行きを見事に表現する」などとして60点をつけています。
(注1)雑誌『シナリオ』8月号に掲載されている座談会「現代の“喜劇”『大鹿村騒動記』はどうやって生まれたか」において、脚本の荒井晴彦氏が、「僕のオフクロが認知症なんですよ。阪本のオフクロも、ちょっと違うんだけど、あそこに出てくるような病気なんですよ」と語り、また監督・脚本の阪本順治氏も、「うちのオフクロをきっかけに、記憶障害でない方の認知症っていうのがあることを知ったんですよ」と述べています。
なお、この座談会は、映画制作を巡るものとして近来出色の出来栄えではないかと思います。
(注2)映画の中で演じられる『六千両後日文章 重忠館の段』については、このサイトで、あらすじとその舞台の全部を見ることが出来ます(なお、上演に際して解説がなされているところ、つまらない話ばかりがなされ、肝心のこの演目の制作年とか作者名、それに他の「景清」物―近松門左衛門の『出世景清』など―との相違点といったところは、何も解説がなされないのには驚きました!)。
(注3)ここらあたりの台詞は、上記雑誌『シナリオ』8月号に掲載されている本作品のシナリオによります。
(注4)さらに、7月3日に放映されたフジテレビ「ボクらの時代」において、原田芳雄と大楠道代に岸部一徳が加わってトークが行われています(詳細については、たとえばこのサイトで)。
(注5)例えば、村役場の職員(加藤虎ノ介)が、戻ってきた岸部一徳に対して、18年分の住民税を支払えと迫ったり、旅館の主人(小野武彦)が、貴子を探しに雨の中を飛び出していく岸部一徳の姿を見て、「一度目は悲劇、二度目は喜劇」と、有名なマルクスの言葉(『ルイ・ボナパルトのブリューメール18日』)をつぶやいたりします。
(注6)最近では、映画では、『ウルトラミラクルラブストーリー』、『たみおのしあわせ』、『歩いても、歩いても』、『黄金花』、『ロストクライム』それに『奇跡』、TVドラマでは『火の魚』を見ました。
★★★★☆
象のロケット:大鹿村騒動記