
横浜トリエンナーレ アート・ビン [芸術のゴミ箱]にあなたの作品を捨ててみませんか? インスタレーション作品
オバラです。皆様横トリはご覧になりましたか?(11月3日に終了しています)
作品を理解するための概念が従来の枠に収まらない現代美術、特に「コンセプチュアルアート」と呼ばれる主要構成要素が作品の造形性にないものは、取っ付きにくい美術評論が極めて重要に感じられるほど難解であります。ですから一般の方が「訳の分からないもの=アート」「アートなら何でも許される(アート=免罪符)」「芸術家=変人」といった偏見を持たれるのも仕方が無いと諦めの気持ちもあります。
しかしあえて果敢に挑戦!凝り固まった「社会通念」を批判する現代アートの祭典が【横浜トリエンナーレ】でした。
その横トリの鑑賞だけでなく、上記イベントに参加された生徒さんがいらっしゃいましたので、授業中その時の感想を伺いました。賛否ではなく、まずは芸術についてそこまで考え抜いた真摯な姿勢に感服致しました。
「難解なもの=面倒なもの」ではなく、難しいからこそ時間を掛け考える価値のある面白いものだという結論を、私は話しの裏側に見い出し日々の生活を省みずにはいられません。感銘を受けましたお話しを、イベントに参加したレポートとして文章で残されたとのことで、お願いして送って頂きました。ご紹介します。
「創造的失敗のモニュメント」
実は、こんな話がある。(これは、なかなか絵仲間にも本意が伝わらず、あまり受けない話かも知れないない)
横浜美術館で「ヨコハマトリエンナーレ2014」が本年8月1日から11月3日まで開催された。
ここで、私にとって生涯最初にして、多分最後とも思われる、パフォーマンスを経験できたのである。
それは、絵を趣味とする者にとっては、結構、重大なイヴェントではなかったかと思っている。
「ヨコハマトリエンナーレ2014」は、テーマが「世界の中心には忘却の海がある」というキーワードで、横浜美術館と新港ピアと日の出町の階段広場にまたがる大企画で、入場料が2400円もする、横浜発の壮大な現代アートの国際展プロジェクトであった。
実はその冒頭の展示に、横浜美術館の正に入口の大広場のアーティスト・プロジェクトにマイケル・ランディという芸術家が主宰している、<アート・ビン>という名のパフォーマンスに近い参加型活動があり、一般参加も求められていた。
参加というのは、美術家たちが自分の描いた絵画や作品を持ち寄り、これを<アート・ビン>という強化ガラスで出来た大きなボックス空間に7Mの高さの階段から、捨て去る(廃棄)ということで成立するイヴェントで、このプロジェクトには「創造的失敗のモニュメント」と名付けられていた。
参加者には自ら夫々の意味と想いで「記憶を消さない忘却」を全身で感じろという話なのであった。(もちろん何も感じず能天気で廃棄するだけでも問題ない。すべてその人なりで決めれば良い話)
私は、これに参加する意志を固め、F40の人物画とF15~12の人物画6枚を投げ入れることで、参加する意志を固め、主宰者のマイケル・ランディから承認を得た。
要するに、邪魔な絵を処分することだけの話かも知れないが、折角の現代芸術の活動参加であり、ここで、その意味を考えて、自分を納得させようと悩んだのである。(勿論、今までも多くの作品を捨てて来たが、廃棄のポジティブな意味を考えて見るのは初めて)
以下は、私の真に拙い思いの経緯である。
1、まず、今残っている自分の古い絵画作品群の一部を思い出してみた。
東光会展や松涛美術館展の入選作は廃棄の対象外として、(これ等を捨ては審査委員に失礼に当たる)それ以外の色んな残存作品を持ち続けることは、自分の今にとって、本当に良いことなのだろうか。
絵画を描く趣味にとって相応しい行き方なのだろうか。(勿論、プロやセミプロの画家なら、キャリアマネジメントとして、どんな小さな作品でも売却済みは別として、備蓄しておくべきであろう。)
2、ふと思った。これからも体力と意欲がある限り、下手な絵を描き続けるとしても、昔の下手な絵は、今後にマイナスを与えるだけではないのか。
3、「いつか、この絵にも人に見て貰う時期が来るかも知れない」なんて幻想するのは、悪魔のささやきに過ぎないし、未練に過ぎないのではないか。古い賞味期限切れの作品を残しておくことは、無意味な過去への執着に違いない。過去の作品の愛玩なんて、精神の停滞と云うヘドロに包まっているだけのことではないか。過去の作品群の残照は、結局今の自分への儚い見栄ではないか。
4、そこで、取敢えず、10数枚の過去の作品を庭に並べてみた。うーん。今後絵を描き続けても、多分これらの作品を大きく超えて上手くなることなんて、まずあるまいとも思ったが。
5、しかし、大事なことは、こんな古い作品とは、今の自分と生きた関係にはない。もう過去の作品は自分にとって、もはや信頼はない。
6、さて、最も、重要なのは「自分軸」であり、時間軸は「今」である。そういう観点に立つと、古い作品は「捨てない損失」を生み出していないか。
・拙い構図、洗練されない色使い、拙い技法の作品を残して置くなんて下手な技術を引きずるだけなんだ。
・過去の作品は、自分の今にとって無意味どころか、害ある作品ではなかろうか。等々。
7、そこで、こういう思いを秘めて、過去の作品への執着を断ち切るために、美術学校で今尊敬する先生の所へ9枚持参して、意見を求めた。(結局、残念ながら、煩悩が立ちはだかってこの内2枚だけ残すことになった)
8、いよいよ、「アートビン」で、マイケル・ランディに指定された日時に、この7枚を持参して7Mの高い梯子の上から力強く投げ入れた。このリアリティには確かに手ごたえがあった。
偶々そこで、知人と偶然に遭遇したので、写真を撮って貰った。後で見ると、結構楽しそうな顔をしていた。それは過去の作品への哀惜より、これからの画業への期待に気持ちを委ねていたかもしれない。
9、これからは、ぜひとも過去の作品の廃却基準のバーをなるべく低くして、どんどん捨てようと心に決めた。
一方、これからの画業では、過去の作品を捨てようとする自分に負けないように、別の自分がぜひ残して置きたい作品を描くことに努力するべきだなとも思った。
10、後日、「アートビン」では7枚の絵とともに撮影された自分の写真が、展覧会終了後に「ヨコハマ・トリエンナーレ」として、SNSで世界に発信された。こんな経験も二度とあるまい。
余白 ふと、中国の名著「菜根譚」の一節に中高年頑張れという名句があったことを、思い出した。
「日既に暮れて、而もなお烟霞絢爛たり。歳将に晩れんとして、而も更に橙橘芳馨たり。
故に末路晩年は、君子更に宜しく精神百倍すべし」とある。
意味は「日が既に暮れても、なお夕映えは美しく輝いているし、歳の暮に当たっても、橙橘のたぐいは一段とよい香を放っているではないか。そこで、晩年に際しては、君子たるもの、一段と精神を振るい立たせて最後を飾るがよい」であるらしい。
ふと、青空を眺めた。秋の庭園の公孫樹が美しい静かな午後のことだった。以上。M N