駅前糸脈

町医者をしながら世の中最前線の動きを感知、駅前から所見を発信。

・・そうな人は当てにならないことも多い

2018年05月21日 | 世の中

  

 光陰矢の如し、学成り難しと親爺がよく言っていた。もう一年が経ってしまった。五月晴れの一日、女房が横山大観を見に行っている間、私は東京駅の国際フォーラムで恒例の内科学会教育講演を聞いてきた。今回の講演内容は八割方理解でき、なるほどと感心する内容だったが、いつものように自分も勉強しなきゃという意欲はあまり湧かず、自分には難しく遠い世界だなあと感じさせられた、ひょっとして、否やっぱり年を取った?せいか。

 脳が委縮したら前立腺が肥大して尿が我慢しにくくなった。帰り道、東京駅の構内をトイレめがけて小走りで走る羽目になった。ちょっと悲しい。

 世の中には相変わらず、狐と狸の騙し合いに仲間外れにされそうで慌てる人から、学童殺害、銃乱射、卑怯なタックル・・までおぞましいニュースが溢れている。

 あの真面目そう、やさしそう、 おとなしそうな人が、は当てにならないことが多い。逆の悪そう、怖そう、うるさそうは五分五分で、そうでもないことが結構ある。賢そう、駄目そう、だらしなさそうはかなり当たる。これは長年人間相手に仕事してきた私の観察結果だ。まあ当たらずとも遠からずだろう。人間には多少の差はあっても二面性三面性があるから、見た目やあいさつ程度では分からないことも多い。勿論、一瞥でピンときた感触が当たっていることもある。 

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昔聞く・・今上る

2018年05月18日 | 小考

  

 昔聞く洞庭の水  今上る岳陽楼  杜甫がどう感じたかは詩を読んでいただくよりないが、昔のことを今どう評価するかは極めて難しいことだ。

  自然景観の多くは数百年の時を経てもさほど変わらないようだが、中には高々数十年で見る影もない変化をきたした所もある。人間の価値判断も常識道徳から法律まで時代と共に変化する。男女同等への動き、セクハラの感覚、結婚感覚などには明らかな変化がある。五十年前は早く親に孫の顔を見せなさいと言うのは何の問題もなかったし、同性愛はタブー扱いだったし、できちゃった婚は眉を顰められた。どこから法律や法律家の登場が望ましいかは難しいが、昔のことを今の感覚で裁くのには問題があると思う。

 今の感覚で昔のことを間違っていたと言うのはよいとしても、けしからんとまでは言えないと思うし、だから補償をとかとなると線の引き方というか判定は難しくなる。例えば私の仕事上の経験では、私と同年代の医師は今の医療の常識からいえばお縄頂戴のようなミスをいくつかしているはずだ。穴を間違えて馬鹿者と怒られても、法的な問題になることはなかった。勿論、大いに反省し今に至りそれが現在の診療や後輩の指導に役立っている。

 何故、短慮即非難が横行する時代になったかは、学問の対象になる問題だと思うが、今は良識や熟慮が通用しにくくなっている。おそらくまだ表面的なもので根までそうなれば、荒んだ社会になってしまう。否、既にその気配はあるかもしれない。

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人間診療の難しさ

2018年05月16日 | 小験

     

 天候が不安定で五月半ばになっても暑くなったり涼しくなったりしている。そのせいか、日によって受診される患者数が大きく揺れ動く。待合室に待っている患者さんが居ないこともあり「今日は休み」と驚かれたり、混み合って座る場所がなく「何これ」と帰ってしまう患者さんが居たりする。

 診療する側も仕事がしにくい。何とか日による変動を減らそうと職員と話し合うのだが、中々名案が浮かばない。高齢者が多く予約は難しいし、連休前の投薬日数をばらけさせるのもさほど効果がないし、患者さんによっては嫌がる。午後は空いているので高齢者に午後受診を勧めているのだが、なかなか午後に回ってくれない。

 混んでいると後ろで待っている患者さんのことを考えてさっと帰ってくださる患者さんも多いのだが、ひとしきりあれこれ訴えないと気が済まない患者さんもおられる。癌や心筋梗塞そして肺炎など重大な病気疑われる時は混んでいても十分な時間を割くが、唯気に掛かるだけでいつもと同じ愁訴を繰り返される患者さんには、正直内心ではイライラしてしまう。ベテランの看護師が付いてくれていると上手く切り上げるきっかけを作ってくれるので助かる。

 先日は「いい加減にしてくれ」と怒鳴りたくなるような患者さんが混じっていた。四十半ばで言葉が少し不明瞭な初診の患者さん、動悸がすると訴える。明け方動悸がしたので救急車を呼び病院を受診したのだが、心電図採血検査で異常なく点滴をしてもらったら楽になったので帰された。家に帰ったらまた動悸がするのでここに来たと言う。血圧も正常で脈拍数も八十ほどで不整脈もない。動悸がするとは考えにくい、首を傾げながらカルテの住所を見ると当院の診療圏外の川向うなので、なんでここにと聞くと「病院の看護師がここに行け」と言ったからだ俺の知ったことかとえらい剣幕で言い返された。根ほり葉ほり聞いたり、重病のように対応しなかったのが気に障ったらしい?。聞けば三年ほど前からあちこちの医院病院を転々とし、どこでもよく分からないと言われたと言う。遂には職も失ない生活保護になったと私を睨む。初診なので状況がよく分からず、誰と住んでいるかと聞くと独り暮らしだと大声。ご両親はに、居ない独りだと言っただろうと怒鳴る。恵まれず鬱屈が溜まっているのは分からないでもないが、そうした態度で悪循環になっているのではないかと感じた。心臓などに心配な病気はないと思う不安が原因と思うから安定剤を少し飲んでください。医者を転々とするのは良くない。決まったところに続けて通院するとよいと、近くの医院を三軒ばかり教えた。遠いけどここ来たいなら診させてもらうので、来るのは構わないとお引き取りを願った。

 それにしても救急外来の看護師はなぜ当院の名を挙げたのだろう、思いつき?で名を挙げないで欲しい。

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道徳教育とは何か

2018年05月14日 | 小考

   

 道徳とは何だろう。文科省の提示している内容にはなるほどと思わせるものが多いが、それでもその内容にはいろいろな意見があろうし、型にはまった評価をすることには違和感を覚える人も多いだろう。

 道徳教育は必要だが、点数を付けて矯めすよりも範を示す方が良い方法と思われる。

 そうすると、第一に閣議のメンバーを見渡してどれだけ道徳点数の高い人が居るだろうかという疑問が浮かぶ。最近は行政の中にも高い道徳科目の得点を稼いでも、実行はできない人が増えているようだ。自分にできないこと自分が守っていないことを押し付けないでいただきたいと感じる。有体に言えば片腹痛い、あなた方に言われる筋合いはございませんと申し上げたくなる。

 道徳は時代と共に変わる側面もある。他者を理解し多様性を受け入れる寛容な心と世界と社会を理解思考する能力が道徳を育む源で、それを涵養するのが道徳教育ではないだろうかとお言葉を返したい。

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柏餅を味わう

2018年05月11日 | 旨い物

     

  今日は一昨日と打って変わり皐月空が広がり汗ばむ陽気だ。一昨日はまさか五月に暖房がいるとは思わなかったという冷え込みで一体いつまで三寒四温が続くのだろう、患者さんとおかしいですねえと顔を見合わせていた。

 和菓子が好きで月に二三度生菓子を買ってくる。家から車で十五分くらいの所に三十年前から馴染みの店があり、近くを通った時にはそこで五六個購入する。私が三分の二、家内が残りの一二個を食す。当地に来て五、六年安くて美味しい和菓子屋が見つからずがっかりしていたのだが、たまたまちょっと離れた商店街で見つけたのがこの店で、その頃は七十台と思われる腰の少し曲がったご主人が健在だった。販売は娘さんと嫁さんが主に担当していたのだが、時々はご主人も出てきて接客してくれた。ちょうど今頃柏餅の出回る季節だったのだが、ご主人が新趣向で漉し餡を緑のヨモギの皮、つぶし餡を白い皮に包むのを作ってみたのだがどうかねと、馴染みになっていた私に声をかけた。なるほど、それじゃあそれを三個づつと買って帰ったのを覚えている。

 まあ、面白い味とは思ったが、定番としてはどうかなというのが私の感想だった。それでも七十を過ぎて研究心を怠らないのは偉いと思った。残念ながらというかやはりというか、逆転の発想は定番とはならず、ヨモギの皮に漉し餡と白い皮につぶし餡は消えてしまった。それからほどなく、ご主人は亡くなったのか引退したのか店に顔を出さなくなり、中年の息子らしき人が菓子を作るようになった。

 今でも皮一枚他店より旨いとは思うが、先代が作っていた柏餅の皮の腰の強さは失われた。先代の柏餅は皮が滑々しておらずちょっと手にくっついて食べにくいところはあったが、もちもちして私には噛みごたえがあり美味しかった。娘さんは嫁に行ったのか、爺さんが居なくなる前に顔を見なくなった。店は十年ほど前に建て替えてきれいになり、もっぱら嫁さんが店に出るようになったのだが、彼女はちょいととがった年を取りにくい顔立ちで相変わらず愛想はなく三十年の月日を感じさせない。

 街中の自宅で作ってご近所に販売する和菓子屋、有名店の一個200円と違い、歯を食いしばって一個130円で一日にそれこそ四五十個を売る商いには厳しいものがあるだろう。しかし先代はその中で工夫を怠らなかった。そこに紙一重、私のような顧客を捉える味が生まれていたと思う。大量生産と量販店が席巻しシャッターが下りる商店街で消えてゆくのは街並みだけでなく肝心要の工夫精進の心意気とすれば、由々しき事態なのかもしれない。

 昨日夕方行ったら柏餅は売り切れ。

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