昔聞く洞庭の水 今上る岳陽楼 杜甫がどう感じたかは詩を読んでいただくよりないが、昔のことを今どう評価するかは極めて難しいことだ。
自然景観の多くは数百年の時を経てもさほど変わらないようだが、中には高々数十年で見る影もない変化をきたした所もある。人間の価値判断も常識道徳から法律まで時代と共に変化する。男女同等への動き、セクハラの感覚、結婚感覚などには明らかな変化がある。五十年前は早く親に孫の顔を見せなさいと言うのは何の問題もなかったし、同性愛はタブー扱いだったし、できちゃった婚は眉を顰められた。どこから法律や法律家の登場が望ましいかは難しいが、昔のことを今の感覚で裁くのには問題があると思う。
今の感覚で昔のことを間違っていたと言うのはよいとしても、けしからんとまでは言えないと思うし、だから補償をとかとなると線の引き方というか判定は難しくなる。例えば私の仕事上の経験では、私と同年代の医師は今の医療の常識からいえばお縄頂戴のようなミスをいくつかしているはずだ。穴を間違えて馬鹿者と怒られても、法的な問題になることはなかった。勿論、大いに反省し今に至りそれが現在の診療や後輩の指導に役立っている。
何故、短慮即非難が横行する時代になったかは、学問の対象になる問題だと思うが、今は良識や熟慮が通用しにくくなっている。おそらくまだ表面的なもので根までそうなれば、荒んだ社会になってしまう。否、既にその気配はあるかもしれない。