駅前糸脈

町医者をしながら世の中最前線の動きを感知、駅前から所見を発信。

独逸語

2010年05月30日 | 
 私は努力の甲斐あって英語の読みは殆ど不自由なくできる。書く話すもまずまずできる。勿論、それは専門書の話でNew England Journal of Medicineは読めてもTimeを読むには辞書が要るし苦労する。そして医学生の頃は辞書さえあれば難解な独逸語の本も読むことができたのに、今は残念ながら殆ど忘れて仕舞った。
 今回、ウイーン、ブダペストへ行って独逸語が話せればなあと痛感した。
 病気に関する独逸語は今でも憶えているので、私は頭が痛いとかは云うことができるが、相手の返事がわからなくて困るので使わない。
 私は外国語が話せるというのは相手の言うことがきちんとわかることだと定義している。フランスへ行った時、いくつかの文章を覚ておいたので、ホテルで使ったところ通じたのはいいが、相手の返事の内容が分からず往生した。相手はちゃんとおまえはフランス語をしゃべったのに、何でわからないんだと呆れた顔をしていた。
 今度行く機会があれば、古く硬くなった脳味噌にどれくらい詰め込めるか疑問ではあるが、ドイツ語の基本単語を覚えていって、文章でなく単語を連発して会話を試みてみたい。片言の単語であれば相手も手加減して、身振り手振りと工夫してくれるだろう。
 六十を過ぎて自分にはラテン志向があまりないのに気付いた。褒める人が褒め、雑誌の特集がしばしば組まれるイタリアがどうも合わない。ミラノ駅で掏摸にあったせいでもないと思うが波長が違うらしいのだ。家内はどう感じているか?あと何カ所行けるかわからぬヨーロッパ、今度も東ヨーロッパに行きたい。東ヨーロッパでは独逸語がかなり通じるのだ。以心伝心とは云うが、見知らぬ他人では言葉に遠く及ばない。
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