外に働きに出なくてもいい境遇になるとつぎのようなことも可能になる。「田辺聖子の小倉百人一首」という本を四日ぐらいで読み終えた。象牙の塔のどんな学者が書いた百人一首より面白いものだと直観した。この本(角川書店)の裏表紙の表につぎのような文句が印刷されていた。「百人の歌があれば百人の作者の人生があります。その運命に興味を寄せられたら、もう一歩深く、その作者の人生の周辺に踏みこんでみられるのもいいでしょう」 もちろん踏み込んでくれたのは田辺聖子その人である。その率直な踏みこみが読者にはとても面白かった。百人のうちの何人かは私の眼前に生き生きとよみがえったのである。
恋のいのちの無常を知りつつ恋に賭けねば生きられない淋しがりやだった和泉式部。少女時代に同性の友情に恵まれたことが内向的で粘液質な心を深く耕し、人生を男性の眼と女性の眼と複眼で見ることができた紫式部。愛すべきやんちゃでイキイキと弾力ある手応え十分な女の清少納言。生きることの慈味をうたわざるをえない人であった西行。京都歌壇にあこがれつつ体は鎌倉に縛られていた源実朝。ケタはずれの遊び人で、天皇親政を夢みて倒幕の志を抱き、あえなく敗退(承久の乱)して隠岐に流された後鳥羽院。
王朝は角張ったいい方をせずやわらかい発音を好むので「百人いっしゅ」が「ひゃくにんしゅ」になる。「舌つづみ」は「舌づつみ」となると、この本の中にあった。いつの頃からか私の本棚に高校生向けの副読本が4冊ある。新詳高等地図(帝国書院)、図説世界史(啓隆社)、新詳日本史(浜島書店)、新国語図説(京都書房)である。今回の読書では日本史と国語古文編がおおいに役立った。この参考書を実際に使っていると高校生時代に戻った気分になっていた。これらは深みや面白みに欠けるが知識の整理には便利である。
最近の私の関心事である「年をとる」ということに関して著者が述べていることを抜き出しておこう。「若い時というのは物事が杓子定規にきちんと進行しないと気になってならぬ。偏狭で依怙地なところがある。当人は純粋だと思っているが、ナニ、それはただ人間の幅がせまいだけである。トシを重ねるということはたぐいもなく嬉しいことだ。いままで見えなかったものが見え、こぼしつずけていたものを拾いもどすことができる」 なんのはずみかふらふらと百人一首の世界をのぞくことになったが、いろいろある中で田辺聖子の本に出会ったのは幸いだったと思う。(写真はキンラン)