玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

*台湾(五)

2015年04月30日 | 台湾のこと

 見学場所を訪れた順に示すと、台中市(1泊め)、海抜727mにある淡水湖の日月潭(にちげつたん)、北回帰線の標塔のある嘉義市、台南市、高雄市(2泊め)、台北市(3泊め)、最終日は映画「非情城市」の舞台になった山の斜面の集落の九份(きゅうふん)である。3日目の午後だけは台中駅から台北駅まで台湾新幹線での移動だった。1時間の乗車でバスなら2時間半かかるという。

 最初に訪れた台中市の宝覚寺には、李登輝元総統の揮毫による「霊安故郷」の慰霊碑が日台の協力で建てられていた。ここでは満面の笑みを浮かべて愛嬌のある金色に輝く大仏が迎えてくれた。また日月潭のほとりに建つ、孔子像などを祀った「文武廟」では台湾の東海岸で採れる大理石がふんだんに用いられていた。廟は1999年の大地震から完全に復旧していた。

  

 つぎの嘉義市では地域の守護神を祀る呉鳳廟、そしてつぎの台南市では占領したオランダ軍によって建てられた赤崁楼(せきかんろう)の城内には投降したオランダ人と鄭成功の和議の像があった。またつぎの高雄市郊外にある行楽地の蓮池潭には龍虎塔があり、塔につながるトンネルを龍から入って虎から出る。夕食後に高雄市最大の六合夜市を散策。ここは約300mにわたって屋台が並び夕方から明け方までにぎわうという。

 3日目は新幹線を降りて台北郊外の小高い場所にある故宮博物館に行く。大混雑の中を現地係員の葉さんがイヤホンを通して館内の展示品の解説をする。見学はあわただしく90分で打ち切られた。4日間のバスの中で葉さんは真珠湾攻撃開始の暗号である「ニイタカヤマノボレ」についても話した。富士山より高く日本名で新高山と呼ばれていた標高3952mの山は、現在では宝山と呼ばれている。最終日はホテル出発が10時半で疲れた身にはありがたかった。細い坂道に露店が並んでいる「九份」のレトロな雰囲気を楽しんで、すべての旅程が終了した。

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*台湾(四)

2015年04月27日 | 台湾のこと

 台湾に出発の15日の朝刊に「没後20年テレサさん記念切手」の記事があった。それによると台湾の郵便局は15日から4種類を385万枚を発売する。「アジアの歌姫」は香港で行われた天安門事件の抗議集会に参加して歌を披露し、熱望していた両親の故郷である中国でのコンサート開催の夢は途絶えたのだった。

 その記事の下には「14日に日本メディアと会見した馬英九総統」の記事がある。今年台湾は抗日戦争勝利70年を記念する大規模な軍事演習や国際シンポジウムなどを実施する予定だが、馬総統は対日関係には影響しないとの考えを示した。「歴史的な誤りは許せても歴史の真相を忘れることはできない。反省を通して新の教訓を得ることができるというのが私のスタンスだ」と強調した。

  

 成田空港14:30発のチャイナエアラインは機内食が出て、約3時間半で桃園空港に到着する。機体の尾翼には国花である梅の花びらが大きく描かれている。蒋介石を記念した中正空港は2006年に桃園空港と改称された。現地係員で61歳の男性の「葉(よう)」さんが出迎える。時差は1時間だったが私の時計の針は日本時間のままにしておいた。南下するバスの中で1万円を2500元に両替した。交換率は1元が4円であり、かなり円安になっている。

  台湾の国土はさつま芋の形をして面積は九州ほどの大きさだ。整備のゆきとどいた高速道路は台湾の中央山脈の西側を南北に直線的に貫いて走る。どこまで走っても料金所のゲートが見えてこない。道路料金は e-TAG を無線通信で読みとるというシステムだ。走行距離に応じた料金が e-TAG口座で清算されるという。旅行の初日は空港から150㎞のバス移動で台湾の中西部にある台中市に日が暮れてから到着した。

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*台湾(三)

2015年04月20日 | 台湾のこと

 台湾史の解釈や台湾と中国との関係については様々な意見がある。独立派あるいは本土派の主張の一つは「内戦で敗走した国民党政権は台湾に専制を敷いて居座った。中華民国の統治が不当なのであれば独立という言葉自体がおかしい。また中華人民共和国は台湾を統治したことがないので北京政府からの独立というのもおかしい。本来は独立ではなく台湾住民が自らの意志によって建国しなければならない」である。

 それに対して統一派の主張の一つは「中国とは一種の文化圏である。台湾に住む人々も、世界各地に住む華僑もすべて中国人である。中国人は一つの国家を造らなければならない。台湾は世界で認められた中国である中華人民共和国政権に吸収されるべき」である。若い世代の一般的な意識としては「台湾」は自国名、「中国」は中国大陸、「台湾人」は現在台湾に住んでいる全住民、「中国人」は中華人民共和国民のようだ。(写真は4月6日・小金井公園にて)

  

 台湾の総統選挙とアメリカの大統領選挙は毎回同じ年に実施されている。前回2012年の総統選挙は国民党の馬英九候補が得票率52%で、民進党の蔡英文候補の46%を上回り再選された。選挙のときの馬英九氏の主張は「中国と台湾は一つの中国であることを認め、統一せず、独立せず、武力行使せずの原則維持で中台交流を拡大」だった。蔡英文氏は「中国との関係は台湾人の総意で民主的に決める。対話を通じた平和で安定的な関係構築をめざす」だった。

 ところで昨年の統一地方選挙では国民党が歴史的敗北を喫した。蔡英文氏は党主席として台湾中部を精力的に回るなどして民進党を大勝に導いた。台湾の政治の関心は来年2016年1月の総統選挙だ。蔡英文氏が党の総統選候補に改めて選ばれる可能性が高く「台湾初の女性総統」への再挑戦が注目されている。中国と対立してきた民進党を引っ張る蔡氏には対中関係を安定させる政策の確立が課題となると言われている。

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*台湾(二)

2015年04月13日 | 台湾のこと

 台湾の中国語の名称は中華民國である。国連では リパブリク・オブ・チャイナ(略称R.O.C )と称するケースがなくなり、スポーツ大会ではチャイニーズタイペイという名称が使用されている。世界貿易機関(WTO)に関しては 台湾・ 澎湖・ 金門・馬祖 個別関税領域(略称TPKM)という名称で加盟している。APECでは「中華台北」を使っている。中華民國という国号を「台灣」という名称に変更しようという運動がある。政府は旅券に中華民國の正式名称と共にTAIWANを付記して発行するようになった。

 台湾は複合民族国家である。圧倒的多数を占める漢人系は台湾土着の本省人と、戦後になって中国大陸から渡ってきた外省人に二分される。 戦後蒋介石の国民党が逃げのびて台湾に中華民国が居座ることになる。こうした中、政治や経済、教育界などは外省人が実権を握る。台湾はあくまでも中華民国の一省であり反攻大陸の拠点という見解だった。そのため多数派である台湾人(本省人)が独立志向を抱くのは政府にとって都合が悪かった。蒋介石・蒋経国親子時代の白色テロが猛威をふるい、戒厳令が解除されたのは1987年のことである。台湾の人々が自らの意志で政権を選んだのはごく最近の1996年総統直接選挙からである。(写真は3月30日・国立駅あたり)

  

 本省人は福建地方からの移民の子孫であるホーロー人(台湾人)と客家(はっか)人に分れる。客家人は台湾の総人口の2割程度を占めるという調査結果がある。客家人として孫文、小平、シンガポールの李光耀(リクワンユー)などが知られている。台湾原住民は政府が認定しているだけで14の部族があり、これらがすべて独自の言語文化を持っている。昭和時代には原住民を総称して「高砂族」と呼んでいた。台湾の人々はそれぞれ固有の母語を堅持しながらもコミュニケーション言語として戦前は日本語、戦後は北京語を使用してきた。現在政府が公用語とするのは北京語である。

 歴史的に日本と接点を持たなかった外省人は別として、ホーロー人と客家人については生活言語の中に単語レベルの日本語が定着していることが多い。例えば、イチバン(一番)、センパイ(先輩。コウハイは少ない)、テンプラ(さつま揚げ)、プロペラ(ぺらぺら。彼は北京語がプロペラだ)、モッタイナイ(もったいない)、ワルイ(悪い。ヨイは少ない)などがある。日本語世代と呼ばれる戦前生まれの老人がよく口にするジョークがあるという。「アメリカは日本に原爆を二つ落とした。でもそれだけだった。台湾には蒋介石を一つ落とした。その後半世紀にわたって台湾人は苦しめられてきた」 現在中華民国を国家承認している国はパラオ、バチカン市国、パナマなど22カ国ある。

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*台湾(一)

2015年04月06日 | 台湾のこと

 来週3泊4日の台湾旅行に出かける。そこで図書館で資料をさがした。出会ったのは2009年に出版された片倉佳史著の『台湾に生きている「日本」』である。著者は1996年から台湾で暮らし、日本統治時代の遺構や歴史遺産の調査記録に心血を注いだ。本の中に「終戦から60年以上の歳月が過ぎ、小学生だった少女も齢80に手が届く老婆となった。しかし当時の出来事は今もしっかりと胸に残っているようだ」とある。世代交代してゆく中で、ぎりぎり間にあった貴重な証言も数多く記録されている。この本で知ることとなった事項をいくつか記すことにした。

 1895(明治28年)下関条約によって台湾は清国の統治を離れ日本に割譲された。そこから終戦の1945年までの50年間が日本の統治時代である。初代の台湾総督である樺山資紀は白州正子の祖父である。そのとき樺山と共に西郷隆盛と奄美の愛加那との子である西郷菊次郎も参事官心得として台湾に渡っている。菊次郎は1897年から5年間宜欄(ぎらん)支庁長を務めた。治水工事に尽力し、宜欄河の堤防は西郷堤防と呼ばれ、「西郷憲廳徳政碑」という石碑が郷土史跡に指定されて残っている。帰国後京都市長(6年半」などの任に就いた。(写真は3月30日の散歩にて)

  

 西郷堤防のことは今回初めて知ったが、台湾東北部の宜欄という地名を、私は亡き父から聞かされていた。沖縄作戦が始まった頃に、父が台湾軍下の飛行師団に属する飛行戦隊の隊長であったとき、部隊は師団の命令により特別攻撃隊に指定された。父の部隊の戦死者は15名だったという。その飛行場のあった場所が宜欄である。かつて北と南に東の海岸に向って伸びた二つの飛行場があった。いずれの飛行場も遺棄されて雑草の中だった。著者は水田の中に残る北飛行場の格納庫を撮影し、そこで特攻隊出撃の日を正確に覚えていた老人に出会う。南飛行場の敷地は工業団地を造営する計画が進行中だという。北が海軍、南が陸軍の飛行場だったのではないかと私は思う。

 今回の旅行では宜欄を訪れることも、つぎの関心事項である国立台湾博物館を訪れることもない。第四代総督の児玉源太郎は後藤新平を民生長官に任命し、全面的な信頼を寄せて統治を委任した。後藤は徹底した調査事業を行った上で経済改革とインフラ建設を強引に進めた。二人の統治により日本は台湾を掌握することに成功したと言われる。戦後の国民党政府による破壊をまぬがれて、二人の銅像がドームを抱いた西洋建築の国立台湾博物館の収蔵庫に保管されているという。後藤はその後満鉄総裁、拓殖大学学長、1920年から東京市長(3年)、1923年の関東大震災直後には帝都復興院総裁として震災復興計画を立案している。

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