玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

*2024年秋

2024年09月28日 | 捨て猫の独り言

 猛暑が過ぎて朝晩は肌寒さを感じるほどだ。ところが長期予報によるとこの秋は長続きせず、10月には暑さがぶり返すという。予報が的中しないことを願う。ゴーヤの緑のカーテンはすでに撤去した。紅要や椿の木を覆いつくしていた雲南百薬の蔓を引きはがした。同居人は庭の植え込みを思い切って刈り込んだ。

 今年はナスだけは畑に残り、まだ収穫が続いている。これほど大きな枝ぶり葉ぶりになるまで育ったのはこれまで経験したことがなかった。なるほど近くの市民農園を覗くと、どの区画にも背丈以上の高さにナスの実がぶら下がっていた。畑は土を掘り返し、1年経過した生ごみを混ぜ苦土石灰をまいて養生中だ。

 彼岸花が庭のあちこちにゲリラ的に姿を見せた。すこし小さいがムラサキシキブも淡い紫の実をつけている。まもなくしたら街中に金木犀の香りが漂うだろう。つい先日のこと、酒場でサンマを食した。昨年は一匹千円近くした記憶がある。そして稲作よりも古く日本に入ってきたという里芋も秋の味覚のひとつだ。

  

 政治の季節でもある。9月27日に、自民党の総裁に石破氏が決まった。まずは良識ある選択がなされたと思う。石破氏には、旧統一教会問題などを抱えていた安倍路線からの転換を期待したい。岸田政権にそれを期待していたのだが叶わなかった。今回の総裁選挙の最後の最後の場面で、岸田派が決断したと感じている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

*ベースボール

2024年09月23日 | 捨て猫の独り言

 花巻東高校出身の佐々木麟太郎(19)はスタンフォード大学に進学し、米大学リーグを経てメジャーリーガーを目指している。今年のドラフト有力候補の桐朋高校の森井翔太郎(17)は、9月上旬に家族で渡米して6日間の視察の後で直接のMLB挑戦に決めた。現在米4球団からオファーがあり、絞り込みを経てマイナー契約を結ぶ見通しだ。マイナーからはい上がるのは並大抵のことではないと覚悟を語る。

 大谷選手の破格の活躍で、日本におけるMLB中継の視聴者数が増大しつつあることは間違いないだろう。我が家でも、ベースボールに見向きもしなかった人が、今では長年のMLBファンである私よりも熱心に大谷選手のプレーを見守っている。日本のプロ野球には見向きもせず、ただただ「大谷くん」なのだ。大谷選手は計り知れないものをもたらしている。

 先日、ドジャースがアトランタに遠征してブレーブスとの4連戦があった。さっそく、アトランタに住む娘に「日本は猛暑続きだけど、大谷くんの活躍で暑さを忘れられている」と連絡。すると4連戦の3試合目に娘はトゥルイスト・パークに出かけたようだ。一塁ベースに近い内野スタンドから撮影した大谷の画像が送られてきた。ドジャース2連敗後のこの試合は、大谷の2打点のよる2対2の同点のまま9回を迎え、なんと2死から31セーブのイグレシアスを打ち込みドジャースが勝利している。

  

 日本時間9月20日、マイアミでのマーリンズ戦で大谷は6回に49号2ラン、7回に2ランと2打席連発で前人未到の「50-50」を決め、9回にも51号3ランを放ち、この日は6打数6安打10打点と大暴れ、初回と2回に2盗塁を決めて「51-51」に到達した。この日、ドジャースのベンチそばの観客席で、黒い帽子をかぶった米国人の少女が掲げるボードがネットで話題になった。それにはつぎのように書かれていた。「I SKIPPED MATH TO WATCH HISTORY ! OHTANI 50-50」

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

*ナショナルチーム

2024年09月16日 | 捨て猫の独り言

 日本囲碁界がビッグニュースに湧いた。囲碁の世界メジャー棋戦の応氏杯・決勝五番勝負の第3局が9月8日に中国の上海で打たれ、日本の一力遼棋聖(27)が中国の謝科九段(24)に3連勝して、みごと世界一となった。日本の棋士が国際戦で優勝するのは、2005年にLG杯の張栩九段以来、19年ぶりの悲願達成となった。

  

 中国の応昌期杯は1988年に始まり、4年に一度オリンピックの年に開催される。主催は応昌期教育基金会で優勝賞金は40万米ドル(5700万円)で、囲碁世界一を決める棋戦だ。他に囲碁の世界戦は2年に一度開催の中国の春蘭杯(2100万円)、韓国には毎年開催の農振杯(550万円)、三星杯(330万円)、LG杯(330万円)などがある。ちなみに日本国内の棋聖戦優勝賞金は4300万円である。

 これまで世界戦で日本は韓国や中国になかなか勝てずにいた。そこで日本棋院では2013年にナショナルチームを発足させる。「世界戦で勝つ」をスローガンに研究会や強化合宿が行われている。2024年のチーム編成は、監督とコーチ計5名、選手枠はタイトルホルダー並びに2023年ナショナルチーム研究会リーグ上位者、および監督コーチによる推薦の計16名、女子選手枠が5名、育成選手枠が7名(男5女2)となっている。

 このチームの監督は、私が日頃から注目している高尾紳路九段だ。そのブログ「たかお日記」でナショナルチームの活動の様子を詳しく知ることができる。今回の一力遼棋聖の快挙の翌日のブログには「一力棋聖は対局終了後のインタービューで《自分だけでなく日本勢が上位にこれるよう日本全体で盛り上げていきたい》とコメントしていました。彼はナショナルチームの研究会や合宿にも積極的に参加してくれています。研究会の方針なども、僕より考えてくれています。《自分だけでなく、みんなで強くなりたい》この姿勢には頭が下がります」とあった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

*「無思想の発見」

2024年09月12日 | 捨て猫の独り言

 岩波新書の吉田洋一の名著「零の発見」を意識した養老先生の著作に、ちくま新書の「無思想の発見」がある。日本人は無宗教・無思想・無哲学だと言われる。ならばと養老先生は、日本には「無思想という思想がある」と開き直った。

 ゼロには二つの意味がある。一つは数字としてのゼロである。他方ゼロは数量が空っぽ(何もない状態)ということも意味している。そこで養老先生は「無思想」とは「思想についてのゼロ」だと考えた。つまり、「無思想という思想」はそれ自体が一つの思想であるとともに「とりあえずそこには思想はない」ということを同時に意味している。

 かくして養老節が炸裂する。「俺は思想なんて持ってない」という思想は欠点が見えにくい思想である。そもそもそれを「思想だなどと夢にも思ってない」んだから、訂正する必要もないし、それについて他人の批判を聞き入れる必要もない。歴史的に日本の急速な近代化が可能だったについては、この省エネ思想が与って力があった。「思想なんかない」そう思っていれば臨機応変、必要なときには必要な手が打てる。昨日まで鬼畜米英、一億玉砕であっても、今日からは民主主義、反米なんか非国民、マッカーサー万歳という具合である。

  

 養老語録によく「相互に補完しあう」が出てくる。意識と無意識や概念世界(思想)と感覚世界(現実)などである。「言葉に表現されなければ思想ではない」それはもっともだが、それをいうのは欧米社会である。「思想なんかない」という原理は言葉による思想を抑圧する。それなら思想表現は、言語以外の他のさまざまな形をとるしかない。禅には不立文字(真の教えは言葉ではなく心で伝えられる)という教えがある。とりあえず思想がないと、それを補完するものとしての現実が発生する。思想と現実(世間)は補完しあう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

*群馬みなかみ町②

2024年09月09日 | 捨て猫の独り言

 宿泊した「松乃井」は敷地面積が一万坪を誇る。三つの高い客室ビル前の日本庭園に平屋の「湯めぐり回廊」があり、庭園を鑑賞しながら2つの露天風呂に行くことができる。大浴場はビルの中だ。とくに露天風呂はこれまでに経験したことがないほど快適だった。みごとな石組、名も知らぬ感じのいい草々が間近に生えて、すんだ空気の中で、 清らかな湯につかる。

 

 2日めは雨の心配は全くなかった。計画通り、水上温泉よりさらに利根川最上部にある「宝川温泉」に行くことにした。そこは映画撮影が行われたことがあり、巨石をふんだんに使った3つの混浴と、1つの女性専用の大露天風呂(摩耶の湯)があるというふれこみだ。ホテルのバスで近くの在来線の水上駅へ行き、そこから日に3本しかない路線バスに乗り換える。 バスは利根川の源流を目指して、藤原ダムを横切り30分かけてバス停「宝川入り口」に着いた。

 

 行きも帰りも同じ運転手で、乗客も同じく私たちだけだった。事前の電話連絡でバス停には迎えの車が待っていた。帰りのバスの時刻に合わせて入浴時間はおのずと2時間と決まる。宝川の急流をはさんで両岸に野趣あふれる露天風呂があった。男女それぞれ異なる浴衣を身につけて湯に入る。「虻に注意」の張り紙がある。この日出会った入浴客は5人だけだった。映画というのは漫画家ヤマザキマリ原作の「テルマエ・ロマエ」(ローマの浴場の意)で、10年ほど前の作品という。(了)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

*群馬みなかみ町①

2024年09月05日 | 捨て猫の独り言

 群馬県は450を超える源泉のある「温泉王国」と言われている。かなり昔に職場の一泊バス旅行で伊香保温泉、最近では2年前に2泊3日で草津温泉を経験した。このたび9月1日に群馬の温泉としては私にとって3番目となる水上温泉を訪ねた。台風10号は8月29日に薩摩川内市付近に上陸、その後ゆっくりと九州を縦断しながら瀬戸内海を抜け、四国を通過し太平洋へと進んだあと、9月1日に熱帯性低気圧と変わった。

 台風の影響で上越新幹線が運休し旅行が中止にならないかと直前までやきもきした。ところが奇跡的にも、重装備の雨具は一度の出番もなく旅行を終えることができた。初日のホテルでの夕食中に激しい雨に見舞われた。出発は自宅から駅まで傘なしで行き、しばらくすると乗った電車の車窓に雨が流れた。さらに3日目に帰宅してまもなく雨が落ちてくるという具合だった。

 群馬県早わかりMAPを見ると北部には「利根沼田エリア」と「吾妻エリア」がある。みなかみ町は2005年に月夜野町、水上町、新治村が対等合併し「みなかみ町」となった。群馬県の最北端に位置し、新潟県と県境を接し、水上温泉郷や猿ヶ京温泉などふくむ「みなかみ十八湯」と称される温泉群がある。山奥の大水上山(おおみなかみやま)が利根川の源流とされる。町では「奥利根」の看板を見かける。

 

 利根川は日本の河川の長男として「坂東太郎」の愛称がある。九州の筑後川が「筑紫次郎」で、四国の吉野川が「四国三郎」これらが日本三大暴れ川である。利根川と聞いて、私が思い浮べるのは、徳川家康による60年の長い歳月をかけた「利根川東遷事業」だ。その昔、利根川は江戸湾に流れ込んでいた。江戸を洪水から守り、銚子から江戸までの交通路を開き、関東平野の新田開発を行うという大工事だった。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

*歎異抄

2024年09月02日 | 捨て猫の独り言

 高橋源一郎著「一億三千万人のための歎異抄」を読んだ。新聞広告のキャッチコピーは「みずみずしいぼくたちのことばになった歎異抄」だった。噛み砕かれた文章が連なり、著者のサービス精神にくすぐったさを感じながらテンポよく読み終えた。ソクラテスのプラトンのように、親鸞の言葉を弟子の唯円が書き残した日本で一番有名な宗教の本だ。印象に残ったことの一部を記しておきたい。

 仏教界内部のつぎのような(正しそうな)批判が朝廷を動かし、浄土宗に対して過酷な宗教弾圧が行われた。「本当の意味の念仏は、人間の心の中に、念ずる心菩提心があって、それが言葉となって名号を称える。ところが法然とかその弟子たちは名号を称えさえすれば誰でもわけへだてなく浄土へゆけるみたいに言いふらしている。それは仏教として堕落以外のなにものでもない」と。

 それに対して著者の(?)反論はつぎの通りだ。「普通の人のこころの中に、菩提心とか慈悲はあるのだろうか。そんなものよりもっと単純でもっと根本的なもの、ただ〈つらい〉があるだけだ。まずはネンブツをとなえるのだ。まずことばがあるのだ。意味などわからなくてもかまわない。ただもう熱中してありがたいそのことばを口にするだけでいいのだ。ことばと〈こころ〉の関係では、いつでもどんなときでも常識とはちがってことばが先行する。こころが決めるのはきっかけだけなのだ」と。

 親鸞たちは同じ仏教界から攻撃され罪人となった。非僧非俗になった時親鸞は気づいたのだと思う。おれは僧侶だから信じていたのではない。それが信じるべきものだから、それだけの理由で信じていたのだ。ぼくは親鸞の宗教性は非僧非俗からやってきたと思っている。宗教というものを一度否定しない限り「信仰」の奥底には行き着くことができない。親鸞はそのことを明らかにしたのである。《追記》別の本で知ったが、西部邁氏は他力本願とは「自分を捨ててかかること」だと述べている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

*戦間期と現在③

2024年08月26日 | 捨て猫の独り言

 幣原喜重郎(1872∼1951)は、1931年関東軍の独走で起きた満州事変で内閣が倒れ外相を退く(終戦後に首相を務めた)。幣原は講演で「冷静なる態度をもって、双方に公平なる、意見を公表する者は、ややもすれば、その愛国心を疑われ悲憤慷慨の口調をもって相手国に対する反感を扇動する者は、かえって聴衆の喝采を受ける。この人心の傾向はしばしば国際関係の円滑を妨げるところの一大要因である」と述べていた。

 一方幣原の協調外交を「軟弱外交」と批判した松岡洋右は33年の国際連盟総会に主席全権として派遣され、満州事変での日本の行為が違法と認定されると会場を退出し、日本は連盟脱退を宣言。帰国すると市民から熱狂で迎えられた。40年に外相となった松岡は日独伊三国同盟を結び日米開戦の伏線となった。

 百年前はマスメディアの興隆期だった。ラジオ放送開始、婦人雑の普及。新聞は戦争ビジネス、好戦的な大衆が読みたいであろう記事を出していた。軍縮を掲げた朝日新聞も不買運動や軍部の圧力に押され姿勢を転じた。部数は伸びていく。世論を反映したメディアの言説は町内会や学校を通じて社会に浸透。そこで上がる声が世論の熱狂として再びメディア上にこだまする。

 戦後日本の世論は戦禍の記憶から「軍拡」への懸念を抱いてきた。ただ2022年のロシアのウクライナ侵攻開始以降変化がみられる。同年末に出た防衛費のGDP比2%への増額方針に世論の大きな反対はなかった。同年の世論調査によると「戦争が起きるかもしれない不安」を以前より感じるという人が約8割だった。情報環境も百年前と同様変革期にある。SNS上では刺激的な情報が閲覧されやすく極論が広がりやすい。既存のメディアに冷静な報道姿勢が求められている。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

*夏の夜の夢

2024年08月19日 | 捨て猫の独り言

 毎木曜の夕刊で三谷幸喜の「ありふれた生活」を読む。つぎは8月8日の記事からの抜粋です。《僕は2歳の頃から東京で暮らしているけど、夏がこんなに暑くなったのは、体感としてはここ数年である。子供のころ気温が30度を超えることはそうなかったような気がする。地球温暖化は進み、春夏秋冬はすでになくなってきている。今は「なんとなく春」「夏」「なんとなく秋」「これって冬?」みたいな感じか。「夏」「夏」「真夏」「夏」にならないように、それぞれが何をすれば良いか、真剣に考えるべきだろう》

 甲子園球場で高校野球が開催中である。これまでになかった暑さ対策がいろいろ行われるようになった。日中の暑い時間帯に試合をしない2部制が導入された(完全入れ替え制)。ただしこれは最初の3日間だけだ。そして毎試合5回終了後に10分間のクーリングタイムが設けられた。それらの対策にもかかわらず、熱中症で足をつった選手が担架に乗せられ、あるいは仲間に背負われたりして退場する場面がめずらしくない。すると試合は中断され選手の治療中にはグランドに両チームの選手の姿はない。

 そこで高校野球の今後を考えてみた。まず時期をずらすのはどうか。センバツと選手権はそれぞれ春休み、夏休みを利用しての開催なので、学校制度との関係で難しそうだ。ならば場所を変えてみたらどうか。春はこれまでと同じ甲子園球場、8月は北海道の日本ハムのドーム球場とする。これは全く不可能というわけではなさそうだ。そして、どちらも出来ないとなれば甲子園球場を開閉式のドーム球場に作り変えてはどうだろう。これは国家的事業と捉えて財源の大半は国費で賄う。辺野古新基地建設のため無駄に使われている税金をこちらに回せばよい。それにはアメリカに物が言える気骨のある政治家の出現が必要となる。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

*戦間期と現在②

2024年08月15日 | 捨て猫の独り言

 戦間期のワシントン海軍軍縮条約(1922年)で戦艦の保有制限の受諾を決めた加藤友三郎海相(後に首相)は「国防は軍人の専有物にあらず」「国防は国力に相応ずる武力を備うると同時に、国力を涵養し、一方外交手段により戦争を避くることが、目下の時勢において国防の本義なりと信ず」と本国に伝えた。だが日本は1933年の国際連盟の脱退に続き、翌年に海軍軍縮条約からも離脱した。

 欧州でナチスドイツと英仏が衝突した1939年9月には帝国陸軍内部に「戦争経済研究班」(秋丸機関)が設置され、「経済戦力の比は20対1程度と判断するが、開戦後2年間は貯備戦力によって抗戦可能、それ以後は我が経済戦力は下降をたどり持久戦には耐えがたい」との報告書をまとめている。40年9月には近衛内閣が「総力戦研究所」を設置した。だがこちらも41年8月対米戦争は「必敗」と報告した。 

 安全保障にDIMEという言葉がある。外交(D)、情報(I)、軍事(M)、経済(E)の頭文字を取ったものだ。軍事だけでは国の安全が担保できない。DIMEを統合して国の安保を確保するという考え方だ。日本政府もDIME をかかげてはいるが「軍事」に重きが置かれ、政府一体の「総合的な国力」の底上げを図ろうとする意識は薄いようだ。

 日本は人口減社会に突入して、持たざる国に逆戻りだ。戦前はほとんどなかった社会保険料を含めた国民の負担は大幅に高まっている。安全保障環境の変化に応じて、防衛費を増やす選択肢はあるだろう。しかし、戦間期~開戦前にも指摘されていたように、国力に照らして無理のない計画か否かが問われる。世界で類をみないほどの財政状況のなか、借金頼みの防衛費増額に持続性があるのか。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする