吉良まんじゅうの和菓子屋さんからすぐに吉良上野介の邸宅跡を発見!
現在は本所松坂町公園です。
よ、ようやく見つけた~。吉良邸は、木札だけじゃありません!有名な赤穂浪士討ち入り事件を彷彿出来るように整備してありました。コレ、『忠臣蔵』ファンが頑張ったんですかねえ。
トップ画像右手にある石碑をアップにしますと赤穂義士遺蹟 吉良邸跡と書かれてます。
立て札発見。忠臣蔵 吉良上屋敷跡
吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしなか)の屋敷は広大で、東西73間、南北35間で、面積は2550坪(約8400平方メートル)だったとされてます。
幕府は呉服橋門内にあった吉良家の屋敷を召し上げ(元禄14年8月19日(1701年9月21日)、代わりにこの本所二ツ目に屋敷を与えています。当時の本所は隅田川の東という立地で江戸の場末・発展途上の雑多な土地柄でした。
吉良上野介が隠居したのは元禄14年(1701)3月14日(現・4月21日)の刃傷事件の数ヶ月後の12月12日(1702年1月9日)です。
現在、吉良邸跡として残されている本所松坂町公園は、当時の86分の1の大きさに過ぎません。
吉良邸見取図発見。
さすがに広いなあ~。でもWIKIによると、召し上げられた呉服橋の屋敷は更に大きかったようです。んでもって、吉良上野介は本所の屋敷には常駐してない。だから、赤穂浪士達は確実に吉良上野介が本所の屋敷にいる日を確定させるのに時間がかかったんですね。討ち入りは1度きり。2度はないから確実な日を待ちました。
討ち入ったのが12月14日(1703年1月30日)。
吉良方の戦死者17名。
『忠臣蔵』で必ず出てくる吉良方の剣客、清水一学の名前も見えます。
3月15日未明、吉良上野介は遂に討ち取られます。
みしるし洗いの井戸(首洗い井戸)
そして赤穂浪士は泉岳寺へ。(当初、近所の回向院へ向かったが、受け入れられなかったため、浅野家の菩提寺へ変更した)
さて、『忠臣蔵』の作中では悪役の吉良上野介ですが、領地の三河では治水事業や新田開拓につとめ名君として地元では慕われて……ナイかもしれんが、かつての吉良の領地の人は吉良上野介が名君であって欲しいと願うのは納得出来る。
こんなんありました。
愛知県吉良町の人は切実のようで(合掌)
公園内には吉良上野介の像が設置してある。
画像の中の家紋が見えますか?
これは吉良上野介の家紋。五三の桐です。(正確には丸に二つ引・五三の桐)
公園内にあるお稲荷様
なぜにここにお稲荷様なのか??分からん…。
さて、次は回向院です。どこにあるのかな~?
ってまた迷った。イカンっ!!迷ってる場合ではないの。ここで迷ってたら、相撲博物館へ行けなくなるぅ~~
ん?またまた木札発見!吉良邸裏門跡
吉良邸の裏門は、赤穂浪士討ち入りの際、大石主税以下24名が門をたたき壊して侵入した所です。う~む。なぜにこの木札だけボロいのか?作り替えが必要な模様。
時刻を確認。15時39分!!!ままままま・まじでぇ~~~。ダメ~~っ!!時間よ止まれぇええええ~~っ!!!は、走れない…。つーか回向院はどこだっ!? 日本史 ブログランキングへ
3月5日に髪を切りました。当日は氷雨でして、寒かったんですけど、3月・7月・11月の第一月曜日の朝9時に髪を切ると決めてるので決行したのだ。確か、去年も3月の第一月曜は雪だった…。んが!翌3月6日、関東は気温がぐんぐん上昇して、汗ばむ陽気となりました。こうなると杉花粉様の出番到来です。や~も~、今年は寒くて梅もまだ見頃になってないのに、杉花粉様は待ちきれないのか威勢よく花粉をお飛ばしになりまして、鼻水が止まりません。ってな事で、今朝からアレルギーのお薬を飲んでます。もちろんアレルギー用の目薬もアレルギー用の点鼻薬も使い始めました。ま。今年は去年に比べすぎ花粉の量が少ないとのことですので、しばらくの辛抱だ。つーか、既にやたら眠いんですけど~。アレルギー薬の副作用だ~。忘れてたぜ。同病の皆様、今年も頑張りましょう~。
現在は本所松坂町公園です。
よ、ようやく見つけた~。吉良邸は、木札だけじゃありません!有名な赤穂浪士討ち入り事件を彷彿出来るように整備してありました。コレ、『忠臣蔵』ファンが頑張ったんですかねえ。
トップ画像右手にある石碑をアップにしますと赤穂義士遺蹟 吉良邸跡と書かれてます。
立て札発見。忠臣蔵 吉良上屋敷跡
吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしなか)の屋敷は広大で、東西73間、南北35間で、面積は2550坪(約8400平方メートル)だったとされてます。
幕府は呉服橋門内にあった吉良家の屋敷を召し上げ(元禄14年8月19日(1701年9月21日)、代わりにこの本所二ツ目に屋敷を与えています。当時の本所は隅田川の東という立地で江戸の場末・発展途上の雑多な土地柄でした。
吉良上野介が隠居したのは元禄14年(1701)3月14日(現・4月21日)の刃傷事件の数ヶ月後の12月12日(1702年1月9日)です。
現在、吉良邸跡として残されている本所松坂町公園は、当時の86分の1の大きさに過ぎません。
吉良邸見取図発見。
さすがに広いなあ~。でもWIKIによると、召し上げられた呉服橋の屋敷は更に大きかったようです。んでもって、吉良上野介は本所の屋敷には常駐してない。だから、赤穂浪士達は確実に吉良上野介が本所の屋敷にいる日を確定させるのに時間がかかったんですね。討ち入りは1度きり。2度はないから確実な日を待ちました。
討ち入ったのが12月14日(1703年1月30日)。
吉良方の戦死者17名。
『忠臣蔵』で必ず出てくる吉良方の剣客、清水一学の名前も見えます。
3月15日未明、吉良上野介は遂に討ち取られます。
みしるし洗いの井戸(首洗い井戸)
そして赤穂浪士は泉岳寺へ。(当初、近所の回向院へ向かったが、受け入れられなかったため、浅野家の菩提寺へ変更した)
さて、『忠臣蔵』の作中では悪役の吉良上野介ですが、領地の三河では治水事業や新田開拓につとめ名君として地元では慕われて……ナイかもしれんが、かつての吉良の領地の人は吉良上野介が名君であって欲しいと願うのは納得出来る。
こんなんありました。
愛知県吉良町の人は切実のようで(合掌)
公園内には吉良上野介の像が設置してある。
画像の中の家紋が見えますか?
これは吉良上野介の家紋。五三の桐です。(正確には丸に二つ引・五三の桐)
公園内にあるお稲荷様
なぜにここにお稲荷様なのか??分からん…。
さて、次は回向院です。どこにあるのかな~?
ってまた迷った。イカンっ!!迷ってる場合ではないの。ここで迷ってたら、相撲博物館へ行けなくなるぅ~~
ん?またまた木札発見!吉良邸裏門跡
吉良邸の裏門は、赤穂浪士討ち入りの際、大石主税以下24名が門をたたき壊して侵入した所です。う~む。なぜにこの木札だけボロいのか?作り替えが必要な模様。
時刻を確認。15時39分!!!ままままま・まじでぇ~~~。ダメ~~っ!!時間よ止まれぇええええ~~っ!!!は、走れない…。つーか回向院はどこだっ!? 日本史 ブログランキングへ
3月5日に髪を切りました。当日は氷雨でして、寒かったんですけど、3月・7月・11月の第一月曜日の朝9時に髪を切ると決めてるので決行したのだ。確か、去年も3月の第一月曜は雪だった…。んが!翌3月6日、関東は気温がぐんぐん上昇して、汗ばむ陽気となりました。こうなると杉花粉様の出番到来です。や~も~、今年は寒くて梅もまだ見頃になってないのに、杉花粉様は待ちきれないのか威勢よく花粉をお飛ばしになりまして、鼻水が止まりません。ってな事で、今朝からアレルギーのお薬を飲んでます。もちろんアレルギー用の目薬もアレルギー用の点鼻薬も使い始めました。ま。今年は去年に比べすぎ花粉の量が少ないとのことですので、しばらくの辛抱だ。つーか、既にやたら眠いんですけど~。アレルギー薬の副作用だ~。忘れてたぜ。同病の皆様、今年も頑張りましょう~。
浅野内匠頭は刃傷事件を起こした当日に、不浄門とされる平川口門から出て田村邸に移動させられているので、いつか皇居東御苑を訪問した際は、<松の廊下>跡を見てから平川門から出ましょうね。ま。何も残ってないんだけどね。
切腹最中も美味しかったし。
この日は忠臣蔵ツアーだったなあ・・・