高尾山などの「寅太の山野草」

中越地震で被災した小千谷市と長岡市にある戊辰史跡の復興を応援しています。
山野草を中心にしたブログです。

戊辰の戦場を歩く(その3・風雲告げる小千谷)

2009-06-18 01:32:19 | 歴史

慶応4年5月2日は、慈眼寺の会談の日である。同じ日に与板にいたはずの会津藩兵4百人が渋海川を渡り、小千谷の隣の片貝に入り、浄照寺に本営を置いた。
もちろん、目的は会談の妨害である。この日まで会津藩は、越後の各地の戦いでことごとく破れてきた。閏4月24日の三国峠の戦い、26日の芋坂・雪峠の戦い、27日鯨波の戦いと同日の小出島の戦いである。
長岡藩の助けを借りたい会津藩が、捨て身の妨害策に出た。交渉決裂、会津のシナリオ通りである。翌5月3日、ついに片貝の戦いが始まる。
会津藩が本営を置いた浄照寺には、チョウジソウ(丁字草)キエビネ(黄海老根)が咲いていた。


(会津藩が本営を置いた浄照寺に咲くチョウジソウ)

 
(キエビネと浄照寺入口)

会津藩は果敢に戦うも、圧倒的な数の差で片貝を退くが、長岡藩の旗印である五間梯子を、戦場に置くことは忘れなかった。
戦いの後に残された会津藩兵3人を地元民はかくまったが、やがて息切れた。
地区外れの元庄屋の敷地に1基の墓があり、かなり風化しているが、会津藩の文字ははっきりと読める。
激しい戦闘で、西軍の尾張藩にも被害があり、浄照寺には6人の墓が残されている。
浦柄神社の会津墓地に寄りながら、次の地の小出島を目指す。
途中にJR信濃川発電所がある。山手線などの首都圏の発電所として知られているが、地震からは復興したものの、取水量で違反が見つかり、首都圏に住む者としては心配である。
芋坂・雪峠の近くの、真人温泉で疲れを取り、翌日に備えることににする。
真人は「まっと」と読み、櫻井よしこさんのゆかりの地である。今週末の20日(土)、21日(日)に、第12回藩校サミットin長岡が開催され、櫻井よしこさんは鼎談(3人で話し合う)の部に登場する。すでに1500人の募集人員を超え、大会関係者は断わっていると嘆いていた。

 
(片貝の戦いで戦死した会津藩士の墓と西軍の分捕品)

 
(浄照寺の尾張藩の墓と浦柄神社の山本五十六海軍中将の碑)

 
(浦柄神社の会津藩墓地と朝日山の東軍兵士の墓)

 
(山本地区にある山手線の動力源JR信濃川発電所)

 
(敷地に展示してある羽根車と所内からの信濃川の流れ)

(小千谷市片貝、浦柄、山本)
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする