御主殿跡と御主殿の滝を見て、先ほどの管理棟に戻った。管理棟には学芸員が詰めており、説明を依頼すれば、曳橋、虎口の石垣、御主殿跡などの説明を、発掘時の写真などを見せながら、丁寧に説明してくれる。
今まで山城と思っていたのが、中国製の陶磁器、茶道具、ガラス器などの出土品を見ると、華やかな氏照の生活が偲ばれる。
北条氏照の墓の付近から管理棟までが、いわゆる根小屋と呼ばれる地区で、平時はここで農業などをやりながら、家臣が暮らしていた所である。
その途中に田圃があり、柿の木にモリアオガエルの卵が観察された。
新聞にも載ったようで、車で見物に来る人もいた。
いよいよ管理棟の横を通り、八王子城の本丸を目指すことにする。 道の隣に棚田状の平坦地が観察されるが、曲輪があった跡である。しばらく登るとさらに広い場所に出た。金子丸と書かれた標識が建っている。
金子の文字から、これは金蔵かと思って説明文を読むと、重臣の金子三郎右衛門家重が守備していたく曲輪跡で、ここを通り抜けないと本丸に進めない造りになっている。
金子丸の曲輪跡からは、八王子の街がよく見える。
そこから更に登るとふたたび曲輪跡に着くが、小宮曲輪である。八王子城攻防戦は、前田利家が虎口(大手口)、上杉景勝が搦め手から小宮曲輪付近を奇襲し、北条勢は奮戦するも、一日で城は落ちた。
さらに登るとかなり広い場所に出た。大きな八王子神社の建物と石碑が建っている。延喜13年(913年)に華厳菩薩妙行が、深沢山(現在の城山)山頂で修行中に、牛頭天王(ごづてんのう)が八人の王子を連れて現れた。その伝説から北条氏照は築城にあたり八王子権現を祀り、これが八王子の名前になったと言う。なるほど、吉祥寺は寺であるが、こちらは八王寺ではなく八王子である
山頂にベンチがあり、そこからの眺めは素晴らしい。本丸の標識を探すが見当たらないが、どうしたのであろう。
今まで山城と思っていたのが、中国製の陶磁器、茶道具、ガラス器などの出土品を見ると、華やかな氏照の生活が偲ばれる。
北条氏照の墓の付近から管理棟までが、いわゆる根小屋と呼ばれる地区で、平時はここで農業などをやりながら、家臣が暮らしていた所である。
その途中に田圃があり、柿の木にモリアオガエルの卵が観察された。
新聞にも載ったようで、車で見物に来る人もいた。
いよいよ管理棟の横を通り、八王子城の本丸を目指すことにする。 道の隣に棚田状の平坦地が観察されるが、曲輪があった跡である。しばらく登るとさらに広い場所に出た。金子丸と書かれた標識が建っている。
金子の文字から、これは金蔵かと思って説明文を読むと、重臣の金子三郎右衛門家重が守備していたく曲輪跡で、ここを通り抜けないと本丸に進めない造りになっている。
金子丸の曲輪跡からは、八王子の街がよく見える。
そこから更に登るとふたたび曲輪跡に着くが、小宮曲輪である。八王子城攻防戦は、前田利家が虎口(大手口)、上杉景勝が搦め手から小宮曲輪付近を奇襲し、北条勢は奮戦するも、一日で城は落ちた。
さらに登るとかなり広い場所に出た。大きな八王子神社の建物と石碑が建っている。延喜13年(913年)に華厳菩薩妙行が、深沢山(現在の城山)山頂で修行中に、牛頭天王(ごづてんのう)が八人の王子を連れて現れた。その伝説から北条氏照は築城にあたり八王子権現を祀り、これが八王子の名前になったと言う。なるほど、吉祥寺は寺であるが、こちらは八王寺ではなく八王子である
山頂にベンチがあり、そこからの眺めは素晴らしい。本丸の標識を探すが見当たらないが、どうしたのであろう。
(八王子市)
八王子は広いので、人口もかなり多いようですが、中心地がないと思います。
華やかさでは立川がかなりリードしています。
一時はたくさんの大学がありましたが、都心回帰が始まっているようです。
相模原には、相模大野、相模原、橋本の核があります。
規模では、八王子+長岡=相模原でしょうか。
でも以前から、八王子と相模原の人口はどちらが多いかと三多摩人に聞くと、98%は八王子の答えが返ってきます。
八王寺
猪や鹿、猿が街に進出したのと似ています。
バランスが崩れたのかなぁ~。
モリアオガエルが民家の近くに卵を産むのは、かなり珍しいのでしょうか。
でも、よく下に水があるのを知っています。
ケロケロ
この城は巨大で、発掘では華やかな遺物が出ています。贅沢三昧だったように感じます。
400年後に元の姿を現すのは、トロイの遺跡にも似ています。
そういえば、シュリーマンも八王子に来ているんですね。
アインリヒ、シュリーマン