新・徒然煙草の咄嗟日記

つれづれなるまゝに日くらしPCにむかひて心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく紫煙に託せばあやしうこそものぐるほしけれ

泊まりがけは17年ぶりの新潟遠征 #2-5 【完結編】

2024-03-12 19:07:25 | 旅行記/美術館・博物館・アート

「泊まりがけは17年ぶりの新潟遠征 #2-4」のつづきです。

「新潟市歴史博物館みなとぴあ」本館を見学する前に、河岸のベンチに座ってひと休み。

朱鷺メッセHPのトップ画像は、ここから眺めた景色なんですな
ここから朱鷺メッセは、それこそ「目と鼻の先」ですが(冬期休業中だったウォーターシャトルなら約4分)、歩いて行こうとすると、のあるところまでぐるっと遠回りしなければなりませんので、20分以上はかかりそうです。
でも、まだ13:30でしたから、ゆっくりと本館を見学できそうだ と、のんびりと河辺の景色を楽しみました。

   

さて、みなとぴあ本館を見学

立派な建物です。
なにやら由緒ありそうな建物ですが、どこにも説明が無い
ミュージアムショップで購入したみなとぴあ総合ガイドブックに書かれていました。

博物館本館は、1911(明治44)年に西堀通6番町(現在のNEXT21所在地)に建てられた2代目の新潟市役所庁舎デザインを用いています。2代目庁舎は、道路に面してL字型の2階建ての建物でした。博物館本館はL字の内側に展示・収蔵する3階建ての部分を付けています。

だそうです。
「L字の内側に展示・収蔵する3階建ての部分を付けています」とありますが、上手に背の高い部分を組み合わせているものだから、正面から見ると、なんの違和感もありません
別の角度から見るとこんな具合です。

みなとぴあ本館では、常設展に加えて、企画展「1964 -歓喜・悲嘆・奮励の366日ー」が開催中でした。

<span style="color: #0000ff;">1964年といえば、私にとっては「東京オリンピック」「阪神タイガースのリーグ優勝」の年のイメージでしたが、新潟にとっては、「国体と地震」の年だったんですねぇ。

企画展の展示は、「新潟国体」関係から始まります。

この年の国体(今年の冬季大会から名称が「国民体育大会(国体)」「国民スポーツ大会(国スポ)」と変更されたらしい) は、東京オリンピックとの兼ね合いから、秋季大会を春に前倒しして、6月6~11日に開催されたそうで、夏期大会(水泳)は地震のため中止とな。

展示されている当時の資料を見ると、国体開催を控えた地元は、今では想像できないほど盛り上がっていたことが察せられます。
そして、ほぼ新潟県内全域にわたって競技が行われ、全国から選手たちが参集するわけですから、当然ながらホテルや旅館ではまかないきれるはずはなく、民泊が当たり前だったようです。
そして、選手を受け入れた家庭には、推奨される食事のメニューやレシピが提供されていたなんて、まったく知らなかったし、考えにも及びませんでした

そして、春季大会がお開きになって、その余韻を味わう間もなく発生したのが「新潟地震」

新潟地震では、秋田でもかなり揺れたらしく(秋田市で当時基準の震度4)は、仕事で狭い路地をバイクで走っているときに新潟地震に遭遇して、「両側の家が倒れてくるんじゃないかと肝を冷やした」と語っていたことを思い出します。

地震の規模の割には亡くなった方26名だったものの、石油コンビナート数日間にわたって炎上する、約1か月前に開通したばかりの昭和大橋落橋する鉄筋コンクリートのアパートがゆっくりと横倒しになる、地面から水が吹き上がる、、とかなり衝撃的な映像・画像が残されています。

2017年7月に放送された「ブラタモリ」の新潟回のサブタイトルは「新潟は“砂”の町!?」でした。
新潟は信濃川阿賀野川の河口にできた町で、信濃川左岸の古くからの町は、信濃川の中州の上に作られたのだそうで、大きな地震が起これば「液状化」が起こっても不思議ではありません。
大震災のたびに発生する液状化現象、この現象が初めて脚光を浴びたのが新潟地震のときだったと聞いたことがあります。
こればかりは、住み始めたあとではどうしようもなく、液状化が起こりそうにない土地を選ぶしかなさそうです。

   

そんなことを考えながら企画展を見終えた私は、常設展示も観ました。

常設展示では、「水」と新潟の人々の営みとのかかわりを展示している。

とあるのですが、私にはどうもピンと来ませんでした
「ガイドブックをペラペラめくっても、「こんな展示があったっけ?」と、ほとんど頭に残っていないのです。

どうしてなんだろうな…

なお、写真・動画撮影は、「常設展示室内は、三脚・ストロボの使用がなければ可能です」らしいのですが、私は一枚も写真を撮っておりません。
これまた、どうしてなんだろうな…

このように、「う~む…という感じでみなとぴあ本館を出た私は、「旧新潟税関事務所」の真ん中の通路を抜けて、そして、みなとぴあの敷地から出ました。

「旧新潟税関事務所」1971年に復原工事を行ったあと、1972年から2003年3月まで「新潟市郷土資料館」として使われていたそうです。
その頃はもっと明るい照明が使われていたんでしょうね

で、みなとぴあ柵沿いに歩いていると、あれま ウメが咲いてる

そっかぁ~、新潟のウメのシーズンは今頃なのか…
秋田より1か月以上早い…

   

みなとぴあから朱鷺メッセへ行くには柳都大橋を渡ることになるのですが、クルマだとぐるっと大回りしないと柳都大橋を渡れませんし、朱鷺メッセへも大回りが必要です。
ですが、川岸から歩行者通路まで昇る歩行者用階段があることは遠征前に確認していましたので、まずは柳都大橋のたもとへ…。

そして、みなとぴあから徒歩約15分柳都大橋の歩道に到着しました。

一瞬、この橋の名前になっている「柳都」新潟の異名なのかな? と思いましたが、ここまでの「街巡り」を振り返れば、新潟の町にはかつてが巡らされていたことを実感して、川べりに植えられがちの木といえば、そう、「柳」 と思い至りました。
この記事を書くために調べたところ、こちらのページにこんな説明を見つけました。

新潟にはかつてはがはりめぐされ、その堀端の柳の下を座敷に向かう芸妓が通るという美しい風景がみられました。
今では堀は埋め立てられ柳が残るばかりですが、この風情ある町にふさわしい呼び名が残っています。それが「柳都」です。

やはり

こうして、ほぼ予定どおりの時刻に、朱鷺メッセに到着しました。

朱鷺メッセでの「MISIA星空のライヴXII Starry Night Fantasy」新潟公演 2日目のことは「#M」で書きましたので省略します

   

私が朱鷺メッセに到着したときには傘を差そうかどうか迷うほどの小雨でしたが、ライヴが終わったときには本降りになっていました。
でも、もう本宅に帰るだけですから、ぜんぜん問題はありません。
逆に、よくぞ保ってくれたと、空に感謝です

朱鷺メッセからは、新潟駅行きのシャトルバスに乗って新潟駅へ。
前日は座れた(のんびりと一服したりしたから?) のですが、2日目立ったまま 一日中たぁ~っぷりと歩いて、ライヴではしゃいだこともあって、けっこうしんどかった

指定席を取っていた新幹線には余裕で乗れるタイミングで新潟駅に到着した私は、まずは南口の外にある(勝手知ったる)喫煙所一服 したあと、駅弁とビールを買い、コインロッカーからバッグを取り出して、新幹線に乗車
と、ミー友さんと同じ車両でした たまにあるんですよ、こういうこと…

車内アナウンスでは、「指定席は完売」とのことでしたが、新幹線は乗車率15%程度のスカスカ状態で発車しました。
さっそく、前日の昼前に大宮駅で買ったものの食べそびれていた消費期限切れ「国技館やきとり」で一杯

そして弁当を食べたのち、デザートとして「さわ山」さんの大福桜餅をいただきました。かなり変形していたけれど、美味しかった

各駅停車の新幹線は、各駅で主にスキー場帰りの人たちを乗せ、やがて満席

そして定刻に大宮駅に到着し、私は埼京線に乗り換えて、無事に帰宅したのでした。
めでたしめでたし…。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 泊まりがけは17年ぶりの新潟... | トップ | 好天の下、皇居の乾通りを歩... »

コメントを投稿

旅行記/美術館・博物館・アート」カテゴリの最新記事