真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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岡田酉次主計将校 南京攻略の回想

2011年07月03日 | 国際・政治
 「日中戦争裏方記」(東洋経済新報社)の著者岡田酉次は、自らを「裏方」と位置づけ、主計将校としての仕事に徹したようである。下記の文からも、そのことが分かる。それだけに、彼が「…この時数名の敵兵が捕虜になったとのニュースが伝わると、特に下士官連中がおっとり刀でこれに殺到せんとする光景を見せつけられ、戦場ならではの思いを深くした。…」、と記している事実を見逃すことができない。南京大虐殺当時の日本軍の状況の一端を示していると思うのである。

 また、当時南京にあった彼が、「…あるいは世論を騒がせたあの日本武士道にもあるまじき南京虐殺につながって行ったのかもしれない。…」と記述した事実からも、比較的冷静に戦況をながめていた彼の無念の思いが伝わってくる。松井大将の乗馬姿の南京入城写真を見ながら、松井石根大将の心中に思いを馳せている部分は、まさに南京大虐殺に対する彼自身の思いなのであろうと思う。
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                 Ⅱ 日中開戦の初期

15 裏方さん南京攻略に参加


 ・・・
 しかるに、たまたま11月5日杭州湾に上陸した第10軍(柳川兵団)では、同19日朝全力を挙げて南京に向かって進撃するよう隷下各部隊に発令していた。そこで参謀本部でも、種々検討勘案のうえ、従来上海派遣軍に示されていた作戦地域の最前線蘇州・嘉興の線を改めて撤廃する旨の指令を出したのである。このことは政略的には従来の事件不拡大方針の変更であり、その放棄にも通じた。そこで中支那派遣軍でも、勇躍競って首都南京の攻略に向かって堂々進撃したのである。蘇州・嘉興の線を突破して兵を進めることは、きわめて重大な問題である。ちょっと考えてみても、この処置は明らかに事件の不拡大という基本方針から逸脱するが、一歩譲って考えたとしても、首都南京を攻略せんとする限りどうしてもこれを全面和平のチャンスとしてとらえなければなるまい。攻撃開始前からあらかじめ和平への見通しをつけておくか、少なくとも所要の政治工作が作戦に呼応して進められ、政戦両略の間で呼吸が合わなければ、無二の戦機を逸するだけでなく長期戦の泥沼に足を入れる懸念も大きいからである。これについては、松井石根派遣軍司令官が以前から、敗走する中国軍に追尾して南京城への追撃に移りたい旨の意見を具申しており、中央では陸軍省や参謀本部を中心に種々討議されていたのも当然である。

 討議の中枢参謀本部では不拡大方針の放棄を極度に重視し、多田参謀本部次長は強く消極論を主張したが、石原将軍の後任下村定作戦部長は追撃積極論を唱え、いわば2派に分かれて激論の末ついに積極論が採決されてしまったのである。私など派遣軍特務部にあっても、何とか作戦に応ずべく政治工作に手を打ったが、作戦は予想以上に迅速に進み、遂にタイミングが間に合わなかったのは千載の痛恨事であった。

 この首都南京攻略は単に和平へのチャンスとなり得なかったのみならず、不幸、一部に起こった一般住民に対する大虐殺のニュースが中国世論をかきたて、対日国際情勢を悪化せしめる結果となったのである。

 私は、この作戦には経済・金融担当のスタッフ原田運治(東洋経済出身)等を同道、朝香宮軍司令部に加わって南京に向かった。南京入城のうえはいち早く南京市内政府系金融諸機関を接収すること、新しく占領都市で放出される軍票の実状を調査する任務についた。すでに述べたごとく、柳川兵団が杭州に上陸した11月5日以来、中支派遣の全部隊は日銀券に代えて軍票を専用するよう決められていたのであるから、首都南京に多数の部隊が集中する際の軍票放出の適否は、今後の軍票対策に至大の影響を及ぼすと判断したからである。

 ちょうど南京陥落の前日の夕刻、私は朝香宮軍司令部とともに南京東方の温泉街湯山に宿営したが、以下その夜突発した戦況の思い出を一、二つづってみよう。

 当時華中方面に派遣されていた諸部隊の最高司令部として、従来のそれであった上海派遣軍司令部の上に新しく中支那派遣軍司令部が設置され、その司令官として松井石根大将が引き続きこれにあたり、上海派遣軍と第10軍(柳川兵団)とをあわせ指揮することとなり、空席となった上海派遣軍司令官には別に朝香宮鳩彦王中将が着任した。この夜同司令部は、かなりの戦災を受けている一温泉旅館の建物に陣取ったが、黄昏ともなる頃司令部の衛兵所に一騒動が持ち上がった。

 三方面からする日本軍の挟撃にあい、逃げ道を失い湯山に迷い込んできた敵の小部隊が司令部の西北方に現れ、たまたま陣地構築で右往左往する日本兵を認めて、司令部に機関銃撃を加えてきたのである。特に当軍司令官は新たに着任したばかりの朝香宮殿下とあって、副官のあわてようもまた格別である。もちろん司令部には騎馬衛兵が若干いるのであるが、進んでこれを撃退するだけの兵力ではない。副官は隷下砲兵隊の援助を求めようとしたが近傍にはいないらしく、結局近くで布陣していた高射砲を引張り出し、対空ならぬ水平の方向に発砲させてとにかく敵部隊を沈黙させた。この時数名の敵兵が捕虜になったとのニュースが伝わると、特に下士官連中がおっとり刀でこれに殺到せんとする光景を見せつけられ、戦場ならではの思いを深くした。おそらく伝来家宝の日本刀や高価を払って仕込んできた腰の軍刀がうづいていたのであろう。いずれにしても戦場の夢ははかなかった。

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 前進につれて通路の両側には死屍累々として目を覆わしめるものがあり、やっと城壁から逃れ出た中国兵士達──眼前で降伏する者あるいは捕虜となって後送される者あり、また小広場では数珠つなぎのまま互いに身を寄せ合って茫然自失している敗残兵があるなど──を至るところで見かけたが、その中には少数の女性さえまじっているのに気づいた。死に直面する人間の心理は格別で、かかる凄絶な情況における興奮は心理状態を一層激化させて、あるいは世論を騒がせたあの日本武士道にもあるまじき南京虐殺につながって行ったのかもしれない。

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 市内掃討の一段落とともに南京入城式が行われるというので、私も特務部員として乗馬姿で一世一代の入場式に参列できるものと心待ちにしたが、南京攻略前後における蒋政権側の動向など諸情勢報告のため急遽帰国することとなり、まことに心残りであった。後日松井大将の乗馬姿の入城写真を見、また将軍から戴いた入城詩の揮毫(口絵に掲出)を見るにつけ、この入城式こそは、同将軍にとっても一世一代の盛事となったに違いないと思うのである。アジアを憂え中国を愛していた彼ほどの将軍隷下部隊から、あのいまわしい南京虐殺事件が発生したとすると死んでも死にきれない心の痛みがあったろうと痛恨に堪えない。


 http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です。赤字は特に記憶したい部分です。「・・・」は段落全体の省略を「……」は、文の一部省略を示します。  

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2 コメント

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真実を知りたいというか、積極的に日本の悪行を探... (Unknown)
2011-07-05 10:50:26
真実を知りたいというか、積極的に日本の悪行を探してる様に見えるけどね・・あまり中立的とは言えないよ。それがあなたが見たい真実の探し方ですか。あの時代は一方的な加害者も被害者もいないよ。発端は列強だけど。どの国の歴史にもその多寡は別として、残酷なことはあるだろう。それは現代に生きる人間にとっては、当時の時代背景を考えること無しには語れない。 国家主義って疲れる生き方だと思わないか?もう解放されろよ・・俺は国家とは一定の文化背景と利害を共有する集団・・くらいでいいと思うけど。つまり何が言いたいかというと、いつまでも領土決定戦争時代の亡霊に取り憑かれててもしょうがないだろと
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 こんな作業はやりたくはないのだけれど、もっと... (syasya61)
2011-07-05 22:10:58
 こんな作業はやりたくはないのだけれど、もっともらしい顔をして平気で歴史を詐る人間があまりに多いので、子や孫や後々の世代が、アジアの人々と真に平和的な関係を深めて、「国益」などというようなレベルの対立を乗り越えてくれることを願ってのことです。こうしている間にも、たとえば、かの田母神俊雄とかいう人物が、どこかで講演会などを続けていると思うと、止めるわけにはいかないのです。
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