真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

HPは hide20.web.fc2.com
ツイッターは HAYASHISYUNREI

岡田酉次主計将校と阿片・麻薬問題

2011年06月20日 | 国際・政治
「日中戦争裏方記」岡田酉次著(東洋経済新報社)は、日中戦争当時、蒋介石と対立した中国国民党親日派の汪兆銘を支援し、汪政権を樹立させた立役者、影佐貞昭の「梅機関」(影佐機関)に配属され、様々な重要任務を遂行した主計将校の回想録である。彼は、汪兆銘南京国民政府の財政顧問兼軍事顧問でもあった。

 汪兆銘南京国民政府を支えた著者は、自序で「この敗戦により、まったく気の毒な立場に立たされたのが、戦争中わが国と行をともにした親日中国側同志達の身の上である。かれらの多くは、いずれも立派な愛国者であって、自国を愛し東亜の平和を望むゆえにこそ、勇敢に立ち上がって日本と手を握った人びとである。」と書いている。そして、「たまたま私は、日中戦争前より中国にあって、その風土や歴史、習慣等を身につけていたためか、その所為自ら郷に入りては郷に従うの掟にはまり、勢い中国要人らの信頼をうけ、その後長期の中国勤務となって行ったのであったが、この間私のかいまみた彼らの信念や言動を、一方的ではあろうがこれをここに書きとどめ、その後継者にもこれを伝えることができれば、すでに世を去った中国人同志達へのはなむけとなるかもしれない。─── これがまた、あえてここに禿筆を執ったゆえんでもある。」と書いていることから、戦後も、日中戦争当時の親日派中国人に対しては、深い思いを抱き続けていたことが分かる。また、淡々と書いている裏方としての任務遂行の記述からも、「自分は、日本と汪南京政府のために精一杯努力した」という思いが伝わってくる。それだけに、日本軍の戦争犯罪に関わるような部分については、あまり踏む込んで書いてはいないが戦史資料として貴重である思う。

 軍の判断で阿片をペルシャから輸入した事実や、国際法違反に問われることを避けるために、無国籍の船を仕立てたという関係者の証言、「里見機関」設立の経緯、また、汪南京政府を支えるために、当時、阿片配給やそれによって得られる収入を一手に握っていた盛文頤(セイブンイ)と接触していた事実などが確認できる。同書から阿片・麻薬問題と関わる部分を抜粋する。
---------------------------------
               Ⅴ 汪兆銘中央政府の頃

 30 税収源を握る2人の阿片淫者

 阿片の効用などについては、私の理解し得るところではないが、その吸烟による中毒患者ともなると、人生まことに悲惨の極みといった様相を示す。彼らはしばしばモヒ常習者に転落して行路病者の仲間入りをしたり、または支離滅裂の症状を呈して常人の生活から離れて行く者が多いようだ。私は戦前中国に勤務中、古い型の中国人富豪の家庭を訪れ、かかる淫者に際会した経験がある。彼ら吸烟常習者の話を聞くと、吸烟によって彼らは陶然となり、雲の中を浮遊する体の快感に浸るという。
 維新・中央両政府を通して最も大切な財政の収入源を握った2人までが、たまたまこの阿片常習者だった。統税局の
?式群局長と、祐華塩公司社長で宏済善堂を創設して阿片の配給と阿片収入とを一手に握っていた盛文頤とがこれである。統税局の?局長については、その誘い出しから局の育成まですでに述べたので、ここでは後者盛文頤の出馬の経緯から述べてみよう。

 盛文頤は盛宣懐の甥に当たり、その叔父盛宣懐は清朝末期大臣をも勤め、日本財界と提携して大冶鉄山を興し、八幡製鉄等に鉄鉱を供給したことで日本人にも親しまれている。この盛宣懐の直系の人物が終戦後、以前関係のあった会社の後援で東京芝公園に「留園」という中国料理の殿堂を経営していることは、戦後の日中間に生まれた一つのエピソードであろう。こんな系列で育ち知日派でもあった盛文頤は、里見甫の呼びかけに応じて出馬し、日本人にとってまことに厄介な阿片関係の仕事を引き受けたのである。現地で特務部が阿片に手を出しかけたとの情報が流れると、当時参謀本部で謀略関係を担当していた
影佐大佐は、特務部にこの仕事から手を引かせるため、東亜同文書院出身で中国人に友人の多い里見に命じて中国側の適格者を物色させ、その候補にあがったのが彼である。

 当時戦争の影響で占領地区内は阿片の欠乏がはなはだしく、その供給対策を求める要請が官民双方から特務部に殺到していた。時たまたま華北方面でも同様の事情が発生し、華北政務委員会を代表して王克敏からも公文書をもって一括購入の上これを配給するようにとの要請が特務部へきていた。そこで同部では、中央に連絡して合法的配給制度に必要な専門的要員の派遣を依頼するとともに、藤田某(さきに柳条溝爆破事件に所要の資金を供給した民間人。今井少将著『昭和の謀略』による)と在上海有力某商社にその輸入方策の検討を依頼することとなり、私はその折衝に当たった。そして間もなく日本郵船上海支店の倉庫に荷物が入ってきた。担当者の説明によると、国際条約上の問題もあって、無国籍の船を仕立ててペルシャに阿片を手配していたとの話であった。

 開戦の頃から陸軍武官府にあって諸工作に当たっていた
楠本大佐を訪れて、当時の思い出をともに話し合ってみたが、同氏は「阿片もまた自分の責任で手がけた工作の一つである。先輩からは幾度も前例を挙げてこれには手を付けぬよう注意されていたが、大同市政府蘇錫文市長からの、たび重なる懇望をことわり切れず、公明正大に処理すれば、疑惑の目で見られることもあるまいと考え、貴官(著者)の協力を願ったわけだ。市長の要請によると、開戦後間もなく上海の阿片ははなはだしく不足して価格も高騰し、黄浦江の沿岸には香港から来る阿片密売のジャンクが密集して治安面からも問題が多発し、混乱を招いた。市政府だけではこれに施す術もないというのである。そこで上海派遣軍高級参謀の長勇大佐と協議したところ、華北政務委員会からも同様の申し出がきていたので、その揚陸許可証を使うことにして輸入に踏み切った。その頃ちょうど里見甫が来訪して、阿片の仕事に軍が手を出すことは適当でないから里見に任せてくれと申し出た。話し合っ てみると、里見は陸軍本省とも関係のあることがわかったので、一銭一厘までを詳細に規定した書類を作って、里見とその関係する中国人に引き継がせて、その後私は一切関係しなかった」と述べた。里見はこの仕事を盛文頤に託したわけであるが、この両人とも今は世になく、両人合作の経過などを知るすべもないが、その後汪南京政府も成立し、私は経済顧問の立場でしばしば盛文頤との間に折衝をもった。

 阿片吸烟者の常として、盛の生活は昼夜の関係が転倒して面会時間が午前3、4時となり、ホトホト閉口させられた。そのうえ話しがときどき誇大妄想的となり、思惟にも混乱を伴うばいいが少なくなかった。この施行混乱の一例とみるべきか、汪政府成立後辻政信大佐(戦後参議院議員)に周仏海財政部長暗殺の計画ありとの情報が彼から出て、中国側要人達を騒がせるような場面が展開した。当時周部長からこの相談を受けた金雄白は、著作の中でこれを次のように紹介している。…

 ・・・(以下略)


 http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が、書名や抜粋部分です。「・・・」は段落全体の省略を「……」は、文の一部省略を示します。  

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 田中隆吉尋問調書と阿片・麻... | トップ | 日本軍の経済謀略 偽札工作 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

国際・政治」カテゴリの最新記事