真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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『昭和史への一証言』 記者・松本重治 南京占領を語る

2015年10月21日 | 国際・政治

 『昭和史への一証言』は、南京攻略戦当時、新聞聯合社(後の同盟通信社)の上海支局長であった松本重治氏の証言に基づくものである。聞き手・國弘正雄氏の質問に丁寧に答えている。
 聞き手・國弘正雄氏は「鼎談 松本重治氏を偲んで」という文章の中で、「公事における巨人としての松本先生が果たされた役割」の大きさについて書いているが、松本重治は、時の首相・近衛文麿に、ブレーンとして知られる後藤隆之助を通して、南京占領を止め、和平工作を進めるように働きかけたという人である。中国に知人・友人も多く、中国側の情報もいろいろ得ていたようである。近衛首相は「君や松本君の話はよくわかる。僕も同感だ。しかし、今となっては、どうにもならない」と残念そうに答えたということを明かしている。

 その松本重治が、南京の虐殺数について、「30万とか40万といった虐殺があったとは考えられない」と言っている一方で、「”南京虐殺はなかった”ということはない。あったことは事実です。犠牲者は大半は捕虜で、非戦闘員の中国市民男女も相当数あったと思われます」とも言っている。
 そして、当時の現地日本軍が聞く耳を持たず、また、国際情勢や中国人の抗日意識の実態を考慮することなく軍を進めた事実について語っている。 南京を占領しても、蒋介石が降伏することはない、ということは予想できたというわけである。

 (聞き手・國弘正雄氏の質問を罫線から○印変えた。また、松本という名前の前にも○印をつけた)
 下記は、『昭和史への一証言』松本重治:聞き手・國弘正雄(たちばな出版)から「日中全面戦争と南京占領」の一部を抜粋したものである。
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                          第3章 日中全面戦争と南京占領
 無意味だった南京占領
○戦いつつ和平交渉をつづけるという奇妙きてれつな日中戦争は、日本軍の南京占領という一つのヤマ場を迎えます。ドイツの駐中国大使トラウトマンによる和平工作がもう少しでゴールインというところで南京攻略が迫ってきました・・・。
○松本 上海戦では日中両軍の激戦がつづき、呉淞(ウースン)に上陸した日本の上海派遣軍主力に対して中国軍はトーチカやクリーク(水濠)を利用して三ヶ月の間、頑強に抵抗しました。蒋介石は中央軍の最精鋭部隊を上海戦に投入していました。しかし、1937年11月に入ると、上海の戦局は、日本軍の有利に大きく傾きます。

 10月末に、大場鎮が陥落して大場鎮・蘇州河の防衛線が突破されると、中国軍は急に浮き足立ちました。上海派遣軍は最初、二個師団の兵力だったのが、9月10日東京で出兵が決まった三個師団が加えられていましたが、11月5日、柳川平助兵団(第十軍)が杭州湾に上陸、13日には第十六師団が揚子江の白茆江に上陸し、日本軍は三方から中国軍を攻撃する形になると、中国軍は総崩れになったのです。総退却を始めてからの中国軍は紀律を失って逃げる一方となり、日本軍はその追撃にかかります。上海派遣軍主力部隊は13日に嘉興を占領、14日に太倉、15日に崑山、19日には常熟と蘇州を、それぞれ占領し、無人の野を進むごとく急進撃します。柳川兵団も19日嘉興を占領しました。

 上海派遣軍に示されていた作戦区域の最前線は、蘇州・嘉興の線だったのですが、東京の参謀本部はその蘇州・嘉興の線を撤廃するという指令を出しました。これは、従来の戦局不拡大の方針を放棄したことになります。また、華中方面で戦っていた日本軍の最高司令部は上海派遣軍司令部だったのですが、上海派遣軍の上に新しく中支那派遣軍司令部が設置され、その司令官に松井石根大将が任命されました。松井司令官は上海派遣軍と柳川兵団の両方を指揮することになったわけです。これで、現地の中支那派遣軍は南京というゴールに向かって勇躍、進撃することになったのです。やんぬるかな ─  私はくちびるを噛む思いでした。

○戦局不拡大を主張していた石原将軍が作戦部長のポストから満州に追われたあとの参謀本部では、積極拡大派に押し切られてしまう・・・。軍事作戦が予期しない急スピードで進むので、和平工作が後手後手に回るわけですね。この国際文化会館にもよく来る中国系米人のD・ルー教授のセリフではありませんが、日本はいよいよ「総国家的ハラキリ」への道を着実に進んでいった、という気がします。
○松本 華中の戦局が日本に好転した11月の半ば、後藤隆之助さんが上海にやってきました。後藤さんは近衛さんのブレーンで、私とも親しい間柄でした。日本軍が南京まで行かないうちに兵を止めなければ、日本はとりかえしのつかぬことになる、そのことを近衛さんにわかってもらい、停戦を実現してほしかった。私はじっとしていられず、後藤さんに懇談の機会をつくってもらい、何回か会いました。そのうち、後藤さんは、しかるべき中国人に会わせてほしい、自分なりに直接、中国側がどういうことを考えているかをたしかめたうえで、それを参考にして、近衛さんに話してみたい、といい出した。
 そこで、頭に浮かんだのが徐新六です。戦争が始まってからは親しかった中国人の友人とは連絡がとれなくなりましたが、彼とは定期的に会っていた。浙江財閥の首脳のひとりで、貴重な情報を持ち、日中関係の将来について真剣に考えているはずだ。さっそく、後藤さんと徐新六を引き合わせました。
 後藤さんに、徐のことをよく話し、徐にも電話で十分説明をして、11月19日だったと思いますが、私があいだに入って二人が会見しました。後藤さんは弁慶のようないかつい顔つき、態度も武骨そのもの、一方の徐は女性的なやさしい顔をして、物腰もやわらか、そういうところは全く対照的だったが、二人に共通しているのは誠実であるということでした。徐はあまり多くは語らなかったが、中国の官民が日本の侵攻でいよいよ抗日の決意を固めていることを静かに述べ、私が後藤さんにいいつづけてきたことを全面的に裏づける形になりました。

○南京という点の占領がどれだけ無意味であったか、というわけですね。果たせるかな、その時点で、蒋介石は首都の重慶移転を決めています。
○松本 実は、戦後、私が『上海時代』を書いているときに、後藤さんから、このときの思い出を綴った長文の手紙をいただきました。後藤さんはこのときの私の意見を近衛政府が採用すれば、こうした不孝な結果にならなかっただろう、いま思っても残念だ、と書いておられました。
 そう、私はこんな意見を後藤さんに述べたのです。前線の日本将兵は、南京を攻撃すれば、蒋介石は白旗をあげ、自分たちは故国に帰れると思っているから、南京に猛進撃している。しかし、「城下の盟(チカイ)」はありえない。蒋介石は、長期戦に持ちこみ、日本軍を中国のふところに誘いこむ戦略をたてているのだから、南京が占領されても、面子は多少つぶれようが蒋介石が責任をとって下野するようなことは考えられない。逆に、中国人士の抗日意識を高め、抗日に結集させる効果を生むだけだ、そういうことから、南京占領は全く無意味である。しかも、南京を占領すれば、日本に欲が出て、ドイツやイギリスなど第三国による和平の調停も難しくなる。

○南京を占領すれば欲が出て、というところが重大なポイントのように思えますが、そういう先生の懸念は近衛首相に伝わったのでしょうか。
○松本 後藤さんは事態の容易でないことをさとり、一大決心をして、すぐ日本にかえり近衛さんに直言します。後藤さんは11月26日に京都の都ホテルで近衛さんをつかまえ、南京占領をせず、和平工作をするように熱心に進言してくれたのです。これに対して近衛さんは”君や松本君の話はよくわかる。僕も同感だ。しかし、今となっては、どうにもならない”と残念そうに答えた、というのです。
 後藤さんは、先に話した私への手紙に、そういうことがあったことを明らかにされ、”私がもっと近衛さんを説得すべきだった。ぼくの至らなさを君(松本氏)に申しわけなく思っている”と述べておられます。
 とき、すでに遅かったのです。後藤さんはせっかく近衛さんに直談判してくれたのですが、それから数日もたたない12月1日付で、大本営は南京攻略の命令を出しています。

 南京虐殺はあった
○そこで、南京攻略ということになるのですが、先生は、たしか、陥落直後の南京に入っておられますね。
○松本 「南京が完全に陥落したのは、1937年12月13日夕刻ですが、その5日あとの18日朝、南京に入りました。私が入ったときは、城内はもう平静でした。

○陥落直後の南京の第一印象はいかがでしたか。町の様子はどうでしたか。
○松本 静かなものだった。敗残兵や南京市民などはうろついていなかった。ネコが町を歩いているくらいのものでした。

○通りに人影はまったくなし、日本の兵士だけが巡回している、ということだったわけですか。
○松本 そう。敗残兵はまだ隠れていたかもしれないが…。


○逃げ遅れた市民がかなり南京城内に残っていたのですか。
○松本 南京攻略の直前まで、南京では戦闘がない、などといわれていたので、逃げ遅れた市民は相当いました。財産のある者は早くから、船で揚子江上流に脱出していた。残っていたのは、そういうことができない貧しい人たちでした。

○そういう貧しい人たち、底辺層のおばあさんや少女が日本軍によって殺されたり、犯されたりしたのですね。日本軍による集団残虐行為は、数日前からすでに城外の近郊で始められていましたが、占領した12月13日から入城式が行われた17日の前夜までの日本軍の集団虐殺は最も大規模なものであったといわれます。日本軍が南京を占領して5日後に先生が南京に入られたとき、すでに南京は平静に戻っていたわけですね。占領直後の南京の様子をお話しください。
○松本 占領直後の南京には、同盟通信の深沢幹蔵、前田雄二、新井正義の三君が取材のために別々のルートで、私より早く14日と15日に入っているのです。私は、戦後あらためて、3人に会って、直接、そのときの模様を聞きました。深沢君は従軍日記をつけていましたから、それを読ませてもらいました。3人の話では、12月16日17日にかけて、下関から草鞋峡にかけての川岸で、2000人から3000人の焼死体を3人とも見ていました。捕虜たちがそこに連れて行かれ、機銃掃射され、ガソリンをかけられて焼け死んだらしいということでした。
 前田君は、中国の軍政部だったところで、中国人捕虜がつぎつぎに銃剣で突き刺されているのを見ていました。新兵訓練と称して、将校や下士官等が新兵らしい兵士に捕虜を銃剣で突かせ、死体を防空壕に投げ込ませていたというのです。前田君は12~13人ほど、そうやって銃剣で突き殺されているのを見ているうちに、気分が悪くなり、吐き気がしてきた。それ以上、見つづけることができず、そこから立ち去った、といっていました。軍官学校の構内でも、捕虜が拳銃で殺されていたということでした。前田君は社会ダネを追って走り回っていたのですが、12月20日ごろから、城内は平常に戻ったようだ、といっていました。

○日本軍による南京虐殺について、最近、新しい資料が出ておりますね。
○松本 最近、雑誌『歴史と人物』に南京攻略に参加した第十六師団の指揮官、中島今朝吾中将の『中島第十六師団長日記』」がのっていました。中島師団長が書き綴っていた陣中日誌のうち、南京陥落直前の12月11日から陥落直後の31日までの分が省略なしに全文のせられていて、当時のなまなましい様子がよくわかります。
 日記には、日本軍が攻めこみそうなところに中国軍はたくさん地雷を埋めていたから、天文台付近で捕虜にした工兵少佐に、地雷を敷設した場所を尋問しようとしたが、兵隊は、この将校をすでに斬り殺していた。兵隊にはかなわん、かなわんと書いてある。中島師団長自身の軍刀の切れ見るため、捕虜の試し斬りを日本からきた剣士にさせたことも書かれています。
 
○第十六師団師団が南京の下流の揚子江岸に敵前上陸したあとは、敗走する中国軍を追撃するだけですから、それから南京までは戦闘らしい戦闘もせず、無傷で、手持ちぶさた、といいますか、勇む心のやり場がないということになりますね。
○松本 なにしろ、上海戦線で防衛戦を突破されてからの中国軍は逃げる一方だった。第十六師団などは戦う相手がなかったのです。中国兵の逃げ足は速いのですが、それよりも日本軍の進撃のスピードが速く、中国軍の退路を先回りすることになる。中国兵捕虜はどんどんふえていきます。第十六師団に属する佐々木到一少将の旅団部隊は、1000人ほどの兵力なのに、捕虜を6000人もかかえてしまった、という話を聞きました。ところが、中島師団長の日記には、”捕虜はつくらない方針だ”と書かれています。それは、一時は捕虜として食物を与えておくが、一部を釈放し、他は遅かれ早かれ処分する、という意味しか考えられない。またそういう意味のことが文字通り日記に書いてあります。
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