真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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アメリカの支援、ゼレンスキー大統領と李承晩大統領

2022年10月19日 | 国際・政治

  最近、Yahooトップ画面のニュース下欄に、「ロシア通で知られる日本維新の会の鈴木宗男参院議員(74)が〇〇日、自身のブログを更新した。」として、鈴木宗男氏の主張を批判する記事が出ています。
 先日は、
<鈴木宗男氏 批判受けても貫く“ロシア擁護”…米英のロシア劣勢情報に「本当なのか」と疑念 10/18(火) 6:01配信>と題して、下記のような記事が出ていました。

”これを受けて鈴木氏は16日にブログを更新し、《ロシアが劣勢とか追い詰められているという情報が、アメリカ、イギリスの情報筋から流れ、日本のメディアはそのまま流しているが、その情報は本当に正しいのかとふと考える》と持論を展開した。
 さらに、《後2カ月もすれば、どこの情報が正しかったか、テレビに出ている軍事評論家、専門家と称する人たちの発言が正確であったかどうか、はっきりすることだろう》と続けた鈴木氏。
《ウクライナの国防省は『ロシアが持つミサイルの3分の2を使用し、ロシアはミサイル不足』と指摘している》とし、《ならばウクライナはアメリカからのミサイル供与を止めて停戦すべきではないか。自前で戦えないなら即刻止めるべきである》とも主張した。
 侵攻が始まった当初から国際法違反であると指摘されているロシアの一方的な軍事侵攻。しかし、鈴木氏はこれまでにも“ロシア擁護”ともとれる発言を繰り返してきた。
「7日にウクライナのゼレンスキー大統領が北方領土を日本領と認める大統領令に署名したことが明らかになりましたが、鈴木氏はブログで《単純に考えれば日本を支持する立場のように見えるが、有難迷惑な話である》と真っ向から批判しました。
 また、6月にも武器を供与してほしいと求めるゼレンスキーに対し、“自前で戦えないのならウクライナ側から第三国に停戦の仲立ちをしてもらうべき”とし、ウクライナの“名誉ある撤退”を呼びかけています。また、ウクライナが戦闘を続けることで世界的に物価が上昇しているとの私見を述べ、波紋を呼んでいました」(政治部記者)
 一貫してロシアに対し肯定的な発言を繰り返す鈴木氏に、インターネット上では厳しい声が寄せられている。
《米英の情報に疑いを持つのは勝手だが、ロシア発の情報には持たないのでしょうか。ここまでくると、ロシア教の強い信者のようだ。「停戦」、簡単に言うが、ウクライナ側から「どうぞ、ロシア様降参します」と言えと提案しているのかなあ。「2ヵ月すれば・・・」・今年中だよね。気にしていますので、2か月後に鈴木さん、必ず発信してください。》
《鈴木さん、言ってることが支離滅裂ですよ。米英の情報ではロシアの劣勢を伝えられているが、2か月後の戦況は間違っていることが証明されると言及しながら、ウクライナが自前の軍備で闘えないなら、降伏して速やかに戦争を終わらせとあるが、侵略戦争を始めたのはロシアで「降伏・戦争終結」を訴える相手国はロシアのプーチンである。これまでの経緯を正しく理解をすることを望みます。》
《鈴木氏のロシアによる侵略行為に対する見解は分かった。これに対して維新はどのような考えなのだろうか。次の選挙の参考にするから維新のロシアによる侵略行為に対する見解をはっきりさせてほしい。》

 私は、《 》内の文章が、ウクライナ戦争にかかわる客観的な事実や証拠に基づいていないので、あまり内容のない批判のように思いました。
 私は、日本は、日常的にアメリカのプロパガンダの下にあり、ウクライナ戦争に関しても、アメリカ・ウクライナ発の情報を軽信してはいけないと思っています。
 筆者は、鈴木宗男氏を
”ロシア教の強い信者のようだ”というのですが、私は逆に、自らが”強いアメリカ教の信者”だから、そう感じるのではないかと思います。
 まず、”
侵攻が始まった当初から国際法違反であると指摘されているロシアの一方的な軍事侵攻”というとらえ方も、アメリカ側の主張であり、ロシア側の主張を考慮したものではないと思います。
 国連憲章第2条の3に
すべての加盟国は、その国際紛争を平和的手段によって国際の平和及び安全並びに正義を危うくしないように解決しなければならない。
 とあります。4には、
すべての加盟国は、その国際関係において、武力による威嚇又は武力の行使を、いかなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも、また、国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎まなければならない。
 とあります。NATOの東方拡大やロシア付近での軍事演習、また、ウクライナへの武器の配備は、明らかなロシアに対する威嚇であり、国際法に反するものだっただろうと思います。また、バイデン大統領の次男が、ウクライナの
大量破壊兵器配備計画に関与しているというような情報も、ロシアを威嚇するものであったのではないでしょうか。 
 さらに、2014年以来、親露派の人びとが多く住むウクライナのドネツク州とルハンシク州に対するウクライナ軍の武力攻撃は、”
侵攻が始まった当初から国際法違反であると指摘されているロシアの一方的な軍事侵攻”というとらえ方には、問題があることを示しているのではないでしょうか。
 2022年2月24日にロシア軍がウクライナに一方的に侵攻したといわれていますが、
ドンバス戦争が、ロシアを巻き込んで、ウクライナ政権の領土内に拡大したというとらえ方もできるのではないでしょうか。2022年2月24日、プーチン大統領が、NATO諸国は、”レッドラインを越えた”と指摘した演説の内容は、なぜ考慮されず、無視されているのでしょうか。

 鈴木宗男氏の「
欧米も武器供与、資金援助も止め、話し合いの環境整備を作って行くことが必要だ。いつも言うことだが、紛争が長引くと子供、女性、お年寄りが一番の犠牲になる。それぞれ世界でたった一つの命であることに変わりない。一にも二にも停戦である」とか、「岸田総理が旧統一教会に対し大きな決断をしたように、ウクライナ紛争でもアメリカに武器を供与するな、ロシアもウクライナも銃を置けとイニシアチブを発揮してほしいと願ってやまない」という主張は、間違っていない、と私は思います。停戦・和解が、何により優先されるべきだと思います。

 ウクライナ戦争開始以来、私は、情報の少ないウクライナ戦争の正しい理解に役立てたいと思い、アメリカの対外施策や外交政策をふり返っています。アメリカがウクライナ戦争を主導していると思うからです。
 今回は、戦後の朝鮮において、アメリカが育て、支援した
李承晩大統領の独裁ぶりを、「韓国大統領列伝 権力者の栄華と転落」池東旭(中公新書1650)から、抜萃しました。
 私は、民主主義や自由主義を掲げるアメリカが、朝鮮においてやったことを見逃すことができないのです。そして、2014年以来、アメリカが、ウクライナでやってきたこともそれほど異なるものではないと思います。また、停戦・和解を求めず、ロシアを悪とし、プーチン大統領を悪魔とするような攻撃的なゼレンスキー大統領の日々の主張は、李承晩大統領が主張したことと、あまり変わらないように思うのです。
 
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                  第Ⅰ章 李承晩

                  (4) 独裁政治

 選挙への官憲介入
 李承晩政権は党争にかまけて、当面する国民生活安定対策をなおざりにした。インフレは昂進し、韓国人は李政権に失望した。
 第二回総選挙は50年5月の予定だった。李承晩は国内治安の悪化を口実に、11月に延期することを画策した。だがアメリカは「韓国政府は財政問題の重要性を理解せず、進行するインフレの抑制に必要な措置をとろうとしない。アメリカ政府は「韓国政府は財政問題の重要性を理解せず、進行するインフレの抑制に必要な措置をとろうとしない。アメリカ政府は援助を再検討せざるをえない。
もし、5月中に総選挙を実施しなければ援助を中止する」と警告した。
 朝鮮戦争直前の5月30日に実施された第二回総選挙で、李承晩は大敗した。中間派諸政党は2年前の第一回総選挙をボイコットした。だが第二回総選挙では参加、210議席のうち中間派が130議席を確保した。李承晩の与党は34議席に転落した。選挙前に辞任した李範奭(イブンスク)総理の後任も見つからず、空席のままだった。
 ピンチに立たされた李承晩にとって政局収拾は至難の業だった。それを救ったのが北朝鮮軍の南侵だ。権力者は戦争を口実にあらゆる批判を封じることができる。北朝鮮の南侵は反共一辺倒の李承晩の立場を強化した。緒戦の敗北やソウル失陥の責任などは国連軍の介入で帳消しにされた。戦時の殺気だった雰囲気のなかで大統領の失政追及はうやむやにされた。だが韓国人は戦時中の住民虐殺や国民防衛軍をめぐる不正腐敗など李政権下でおきたいろいろな忌まわしい事件について憤怒していた。  
 李承晩大統領の任期は52年7月までだ。しかし国会議員の選出による大統領再選は絶望視された。李承晩はそれまで超然政権をめざし支持政党をつくらなかった。だが再選をめざして与党自由党を創立した。自由党は、大統領直接選挙制を内容とする憲法改正案を国会に提出したが否決された。
 しかし李承晩は52年5月、臨時首都釜山一帯に戒厳令を布き、野党議員を憲兵隊のバスで連行、恫喝した。白骨団など御用団体の暴力団は釜山市内に野党を非難攻撃するビラをばらまいた。
 7月には、恐怖につつまれた雰囲気のなか、国会で与党は憲法を強引に改正し、8月に国民の直接選挙により李承晩大統領は再選された。
 この改憲工作に必要な政治資金調達のためタングステン(重石)輸出で稼いだドルを政商に横流ししたスキャンダル(重石ドル事件)もおきた。
 戦乱が続いている最中である。アメリカ政府は李承晩の独裁に不満だった。ワシントンは李承晩を退陣させ、穏健なカトリック信者の張勉(チャンミュン)総理に代えることを検討した。だが戦時中に同盟国の大統領をすげ替えるのは、リスクが大きすぎる。アメリカは李承晩除去計画をあきらめた。しかし、李承晩にたいする不信感は高まる一方だった。このおtき李承晩は韓国軍首脳に大統領支持声明を出すように命令した。だが李鍾賛(イジョンチャン)陸軍参謀長は米軍の意を受けて政治的中立を守り、支持声明を発表しなかった。激怒した李承晩は陸軍参謀長を更迭した。
 韓国軍首脳はほとんどが旧日本軍出身という負い目がある。反日独立運動のカリスマをもつ李承晩に頭が上らない。52年に李承晩は軍部を政治的に利用した。だがその報いは、後年、軍部クーデターとして現れることになる。
 李承晩の頑固な反共反日にアメリカも手を焼いた。李承晩は休戦に反対し、あくまでも北進統一に固執した。53年7月の休戦協定成立直前、李承晩政権は北朝鮮送還を望まない反共捕虜を捕虜収容所から独断で釈放釈放て交渉妥結を阻もうとした。休戦協定に韓国代表は署名しなかった。アメリカは戦後復興のための多額の経済支援を約束して李承晩を宥めた。アメリカは李承晩の独善、独断をもてあますようになった。
 54年5月、第三回総選挙が実施され、官憲を動員した与党自由党が圧勝した。李承晩政権は余勢を駆って9月、大統領の三選禁止の撤廃と副大統領の大統領継承権規定新設を内容とする改憲案を国会に提出した。11月27日に行われた国会(定員203人)での投票は135票対60票で、定数の三分の二に1票足りず否決と公告された。与党は国会定数の三分の二は四捨五入して、135人だと強弁、いったん否決を公告した改憲案を可決とみなし、憲法改正を交付憲法改正を公布した。悪名高い四捨五入改憲である。
 
 馬意、牛意まで動員
 56年5月の、第三回大統領選挙は国民の直接投票による本格的な選挙になった。前回52年選挙は戦時中の避難首都釜山で行われた、非常時のなかのお手盛り選挙だ。今回は違う。野党のスローガン「モッサルゲッタ、ガラボジャ」(ダメだ、代えよう)は全国にこだました。後々まで語り伝えられる選挙スローガンの傑作だ。与党は「ガラバッチャソヤヌッタ、グガニミョンガニダ」(代えても同じだ。古顔がましだ)と応酬した。これもまた韓国政治の実相を予言するものだ。
 野党民主党は大統領候補に臨時政府出身の申翼熙(シンイツヒ:国会議長)、副大統領に張勉(前総理)を立てた。与党は副大統領候補に次期大統領含みで李起鵬(イキボン)を指名した。前回の改憲は副大統領の継承権を明文化した。李大統領は81歳の高齢だ。もしものことがあれば副大統領が継承する。李起鵬は李承晩と同じ全州(ジュンジュ)李氏譲寧(ヤンニュン)大君派で、長男李康石(イガンスック)は後嗣がいない李承晩の養子になった間柄だ。これは李王朝の復活である。
 有権者は李承晩政権の碑性に秕政に愛想をつかしていた。野党候補の遊説に有権者が雲集し、候補が叫ぶ政府批判に拍手喝采を送った。これに対抗して政府与党も農民や中小企業団体などを動員、与党候補を応援させた。これらサクラたちは馬車、牛車の行列をつくって与党支持を訴えた。新聞は「馬意、牛意」まで選挙に動員したと皮肉混じりに報道した。与党候補の旗色は悪かった。
 投票10日前の5月5日、申翼熙候補は、遊説中急死した。野党は候補登録を変える時間的余裕もなかった。5月15日の投票で李承晩は504票で当選したが、無効となった申翼煕票は185票に達した。もう一人の野党候補曺奉岩(チョウアンボム)も216万票を獲得した。申翼煕の急死で野党支持票が流れたせいだ。副大統領には野党候補の張勉が当選した。大統領、副大統領の党籍がそれぞれ異なる、ねじれ現象がおきた。
 与党はパニック状態になった。9月に張勉副大統領狙撃事件がおきた。狙撃事件に警察が介在していたことも判明したが、捜査はウヤムヤにされた。
 58年1月、李承晩政権は政敵、進歩党党首曺奉岩をスパイ容疑で逮捕、59年7月に処刑した。解放以前共産党員で革新勢力の代表だった曺奉岩の処刑は革新勢力の急浮上に恐怖しを覚えた李承晩政権による司法殺人だ。
 59年4月に『京郷(キョンヒャン)新聞』が筆禍事件で廃刊になった。カトリック系『京郷新聞』はカトリック信者張勉副大統領を支持したため、弾圧の標的になった。李承晩の独裁政治はとどまるところを知らなかった。

 4・19事件
 60年3月に大統領選挙が予定された。与党正副大統領は今回も李承晩、李起鵬である。野党民主党の正副大統領候補は趙炳玉チョビョンオク)、張勉に決まった。政府与党は今度こそ万難を排して与党候補を当選させると意気込んだ。だが有権者は与党に愛想をつかしていた。アメリカも李承晩大統領の統治能力を見限っていた。
 野党大統領候補の趙炳玉は病気治療のため渡米したが、投票日を1ヶ月後に控えた2月15日に死去した。3月15日、予定通り選挙が実施され投票率97%、李承晩は有効投票963万票を100%獲得して当選、副大統領に李起鵬も当選したと発表された。
 与党は不正選挙の手口を総動員した。本人でない第三者による幽霊投票、軍隊内の公開投票、投票用紙のすり替え、野党候補票の無効化、集計過程のインチキなどあらゆる不正のテ口が乱舞した。一部地域では与党候補のでっちあげ得票が有権者の数を上回り、あわてて縮小修正する喜劇までおきた。
 野党は選挙無効を宣言した。新聞も一斉に不正選挙を非難した。馬山、釜山など野党が強い地方都市で不正選挙を糾弾するデモがはじまあった。4月18日、ソウルで大学生が不正選挙糾弾を訴えてデモ行進した。それを政府ご用の暴力団が襲撃して学生多数が負傷した。
 これがきっかけとなって4月19日、ソウルで学生と市民が合流したデモがおき、全国に拡散した。デモ群衆は警察と衝突、市民と学生186人が死亡、6200人を越すおびただしい負傷者がでた。興奮したデモ隊は政府系ソウル新聞社や反共会館を焼き打ちした。
政府は非常戒厳令を宣布、デモを鎮圧しようとした。だがアメリカは李承晩を見捨てた。マカナギー駐韓米国大使は李承晩大統領に「民衆の正当な不満に応えるべきである。一時しのぎは許されない」と最後通牒をつきつけた。軍部は厳正中立を表明した。李承晩大統領は4月24日、自由党総裁を辞任、李起鵬副大統領も当選辞退を表明した。4月26日、李承晩は下野を発表、27日、国会に辞表を提出、許政(フジョン)外務長官が大統領権限代行に就任、過渡内閣を組閣した。28日、李起鵬と夫人マアリア女子、李承晩の養子になった長男康石、次男など一家4人全員はピストルで自殺した。下野後、李承晩が移った私邸梨花荘の前には連日のように長年の独裁政治を糾弾するデモがつづいた。

(5) 落ちた偶像

 ハワイ亡命
 5月29日早朝、前夜から極秘のうちに金浦空港に待機していたノースウエスト航空チャーター便に李承晩(イスンマン)夫妻の二人だけが乗りこみ、ハワイに亡命した。見送ったのはたった一人、許政(フジョン)大統領権限代行だけだった。15年前、熱烈な歓迎のなか帰国し老革命家はいまや国民の憎悪の的となり、夜逃げ同然、こっそり故国を後にした。航空機に乗り込む李承晩の特ダネ写真をスクープしたのが李政権により廃刊され、下野後復刊した『京郷新聞』だったのもアイロニーだ。
 李承晩が出国した後、報復と懲罰の旋風が吹き荒れた。不正蓄財した実業家に対する追及がはじまり、不正選挙に関連した閣僚9人、自由党幹部13人が逮捕された。デモ群衆に発砲を命じた崔仁圭(チェインギュ)内務長官、郭永周(カクヨンジュ)大統領警護室長や暴力団幹部らは死刑になあった。
 許政大統領権限代行による過渡的政府は政権移譲をテキパキと進めた。6月に憲法を改正、内閣責任制と国会両院政、それに副大統領廃しを内容とする改正案を採択した。第二共和国の発足だ。
 7月に参議、民議両院の選挙が実施され、8月12日、国会は第二共和国大統領に尹潽善を選出した。
 ハワイに亡命した李承晩はその後、マウラナニ養老院で晩年を送った。養老院の窓から茫然と海を眺め、余生を送った老革命家の胸中に去来した想いがなんであったかは知るよしもない。祖国独立のため生涯を捧げ、一時は国父と崇められたが、最後は市民、学生から石もて追われ、異郷で孤独をかみいしめる日々だった。ハワイに亡命5年後65年7月19日、李承晩は享年90歳で永眠した。
 千里を走る虎も死ぬときは故郷に帰るという。李承晩は死後故国に埋められたいと熱望した。政府内では李承晩の葬儀をめぐり異見もあったが、しかし建国の功績を認め、国立墓地に埋葬することを決めた。李承晩の棺は米軍機で運ばれ、空港に到着したとき軍楽隊は「故郷の思い出」を吹奏して亡骸を迎えた。沿道には物見高い人々が霊柩車が通り過ぎるのを見守ったが、そこには哀悼の意も憎悪の色もなく、好奇心だけだった。
 革命家李承晩は私生活にも恵まれなかった。同い年の初婚の妻朴氏は長男鳳秀(ボンス:早死)を産
んだが、海外亡命で生き別れになった。李承晩は34年、ジュネーブで知り合ったオーストリア出身のフランチェスカ女史と再婚した。朴氏は孤閨を守ったが、解放後帰国した李承晩はフランチェスカ夫人に気兼ねして先妻と晴れて対面しなかった。朴氏は50年、ひっそりと死去した。
 李承晩とフランチェスカ夫人との間には子供がいなかった。祭祀を絶やしてはならない儒教のしきたりで、同族李起鵬(イキボン)の長男康石を養子にした。だが下野後、李起鵬一家が自殺する惨劇を目睹した。その後、同族の李仁秀が養子になりソウルに居住している。フランチェスカ夫人は李承晩没後、ソウルにもどり、養子のところに身を寄せ、92年まで生存した。

 


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