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真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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尼港事件と「ザイェズドク 」

2019年10月23日 | 国際・政治

 赤軍パルチザンによる住民虐殺事件発生後、現地に駆けつけた救援隊によって、その状況が日本に伝えらると、新聞各紙は、これを下記のような見出しで、大々的に報道したといいます。

凶悪言語に絶する尼港の過激派/邦人130名を鏖殺(オウサツ)す/5月25日我が臨時海軍派遣隊の接近を予知したる在尼港パルチザンの暴挙」(『大阪朝日』6・7)、「板壁に残る同胞の絶筆『5月24日を忘るな』」「死体続々発掘/悲惨悲壮を極めたる我が同胞の最期」「荒寥たる焼野原に千秋の怨みを遺す我が同胞/見る物聞く物悉く悲憤の種」(同紙6・14─17)…”

 問題に思うのは、日本における尼港事件のこうした受け止め方は、今もそれほど変わっていないと思われることです。でも、「シベリア出兵 革命と干渉1917─1922」原暉之(筑摩書房)には見逃すことのできない指摘があります。

 著者は、

ここで考えてみたいのは、日本軍が白衛派の加担者だったことに加えて、ほかにもアムール下流域住民の反日感情の根がなかったか、ということである。”

 として、

島田商店とリュリ兄弟商会は日露ブルジョアジーの代表格として周辺住民からとりわけ深い憎悪と怨恨を買っていたのである。島田の名は略奪的漁法「ザイェズドク」と結びついている。日本では忘れられているが、尼港事件を扱ったソビエト側文献で「ザイェズドク 」との関連性に言及するものは少なくない。

と指摘しているのです。
 「ザイェズドク」を含め、極東ロシアにおける当時の日本軍や日本人の様々な行いが反日感情をもたらした事実を、冷静にふり返らなければ、尼港事件を正しく理解することはできないように思います。

 私は、明治天皇の「億兆安撫国威宣揚の御宸翰」のような領土拡張的考え方を背景に、法や道義を軽視し、日本の国家的利害を優先させて、琉球、台湾、朝鮮、清国その他に対する武力的政策を次々に決定した明治政府の政治姿勢が、その後も続いて、極東ロシアも日本の配下に置こうとしたために引き起こされた悲劇が、尼港事件ではないかと思います。

 日本側の資料だけでは、尼港事件の真相はよくわからないということを、「シベリア出兵 革命と干渉1917─1922」原暉之(筑摩書房)は教えているように思います。長文ですが、同書から「20 岐路に立つ日本」の「尼港事件(2)焦土と化したニコラエフスク」を抜粋しました。

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                       20 岐路に立つ日本

 尼港事件(2)焦土と化したニコラエフスク
 4月4日・5日の事件は6日の閣議に田中陸相から報告された。この日の閣議では尼港救援隊出動の問題も審議された。日本軍尼港守備隊の全滅について情報はいまだ断片的であり、真相の究明はこれからという段階であるにもかかわらず事件に対する政府の認識と対応はすでに確定していた。原首相はこの日の日記に記した。

 ニコライウスク残殺の報に関し北海道より多少の兵を送らんとの議を出せしも目下氷結中にて途中にて止めるの外なきに付更に考慮する事と為したり。但我兵及び居留民領事迄殺害せられたりと云ふに於ては国家の為捨置き難き事は勿論なり。

 すでにみたように救援隊の編成はすでに終わっている。4月9日の閣議でその出動が正式に決定された。アムール河と韃靼海峡(間宮海峡)は依然として氷結していたが、待機中の尼港派遣隊(隊長大門二郎大佐)に対し、ひとまず北サハリンのアレクサンドロフスク(亜港と称した)に上陸したのち機をみて尼港に進発すべしとの指示が与えられた。2000人の部隊は18日と19日に軍艦見島、軍艦三笠の護衛のもとに小樽を出港、22日に亜港に上陸し、公式の占領宣言を発することなくここを占領した。五月半ばには後続部隊が小樽を出港して亜港に到着するが、これは北部沿海州派遣隊(司令官津野一輔少将)の主力で、先遣隊はその隷下に編入されて多門支隊となった。
 日本軍は日本に亡命していた帝政期のサハリン州知事グリゴーリエフを亜港に連れて行って傀儡政権の座につけようとしたが、不首尾におわった。後続部隊が到着した直後の5月17日、日本軍は尼港パルチザンの重要参考人としてサハリン島革命委員会議長のツァプコほか数名を艦上に連行した。彼らは以後消息不明となった。拷問を加えた上、海中に投棄したのだといわれている。
 多門支隊は5月13日より韃靼海峡対岸のデカストリに上陸し、陸路ソフィースク方面に進出、25日キジにおいてハバロフスクからアムール河を下航してきた第十四師団の増援隊と合流し、尼港を目指した。主力もこの日よりデカストリに逐次到着、偵察ののち河口をまわる径路をとって尼港を目指した。
 5月の解氷期を迎え、日本軍が尼港に接近してくると、市内には緊迫した空気がみなぎった。3月16日に開催されたサハリン州ソビエト大会以後、市は州ソビエト執行委員会の掌握下にあったが、日本軍の接近に伴って5月中旬からは軍事革命本部に全権が移された。構成はアナキストのトリャピーツイン(議長)、エスエル・マクシマリストのレベジェヴァ(書記)、「トリャピーツインのアナキスト・サークルの影響下にあった」農村教員の出身ジェレージェン、古参ボリシェヴィキ党員のアウッセム、地元農民のベレグートフ(委員)の五名である。
 トリャピーツインはヴラヂーミル県の職人の家庭に生まれ、金属工となり、革命の前年に義勇兵として入隊した近衛ケクスゴリム連隊で軍事技術を身につけた。1919年に極東にきてスーチャンのパルチザンに加わったが、小部隊が単一の指導下に統治されたとき服従を嫌ってスーチャンを去り、アナスタシェフカ協議会に参加したのち、尼港への行軍の過程で司令官として頭角を現した。
 トリャピーツイン司令官には、その「独裁者風の性癖を抑える力をもった」ボリシェヴィキのナウーモフ参謀長がついていたが、彼が3月13日に戦死したあとは「典型的なプチ・ブル革命家」ともいう女性闘士のレベヂェヴァが参謀長に就任した。レベヂェヴァはアナスタシェフカ協議会に参加する前、アムール州でアナキスト、マクシマリスト、ボリシェヴィキの三派連合形成の主唱者として活動した経験がある。尼港でも彼女の提案でこの三派からなる「ソビエト派左翼諸政党ビューロー」が結成された。サハリン州ソビエト大会で選出された執行委員会もまた三派の統一戦線とみることができ、それは軍事革命本部にも受け継がれた。ただし後者はアナキスト=マクシマリスト連合の色彩が濃い。権力はトリャピーツインとその取巻きに集中され、執行委員会は名目上のものになった。
 アウッセムはトリャピーツインが「怪しげな前歴の連中から成る特別の親衛隊」を自分のまわりに作り上げたとして、ラプタ、ビツェンコ、サソフ、オツェヴィリの名を挙げている。「怪しげな前歴」というのは、たとえばハバロフスクの荷役労働者出身のラプタがパルチザンに加わる前カルムイコフのもとで拷問係をつとめていた事実などを指す。このラプタに率いられた部隊は3月の戦闘の際、どさくさに紛れて監獄・民警署留置所に押し入り、釈放予定の50人と取調べ予定の数十人を殺害するなどの不法を働いた。執行委員会でもこの親衛隊の問題が持ち上がったが、トリャピーツインは頑として、「パルチザン戦争においては戦闘的資質が何より評価されねばならぬ」としてその解散を拒否した。
 アルタイ地方に進出した赤軍第五軍の一コミサールは、農家の収穫や家財に手をふれることのなかった同地方の農民パルチザンが都市ではすべてが他人のもの、ブルジョアのもの、コルチャクのものだから何をしても構わないという気分になっていると報告したが、「パルチザンシチナ」として否定的に語られるその無統制な側面は尼港のパルチザンに顕著であった。
 入市の際のトリャピーツインの演説はこういうものであった。

 われわれはニコラエフスクそ占領したが、われわれのソビエト権力樹立闘争は終わっていない。さらにハバロフスク、ウラジオストク占領が控えている。この両市では依然としてゼムストヴォ勢力が有産者・日本軍との協調という裏切りの政策をとっており、彼らを一掃しなければならない。さらに世界の強盗団、上海や東京その他各地の帝国主義者との闘争が控えている。

 この演説からも窺えるように、尼港のパルチザンは緩衝国構想に強く反対していた。沿海州でもそれは同じで「極東共和国反対論者がそのスローガンを取り下げたのはモスクワへの、党中央委への、レーニンへの無限の信頼があったればこそだった」という。まして尼港では共産党組織が沿海州よりはるかに弱体である。その共産党組織も含めて、尼港の三派連合は日本に対する「政治解決」を斥け、「徹底抗戦」を貫くという路線に立っていたのであった。
 クラスノシチョーコフの緩衝国構想に対して、「われわれ〔共産党組織〕はわがアナキスト本部と同様、ソビエトの大義への裏切りをみていた」と、のちにアウッセムは書いている。しかし、極東の共産党組織がしだいに緩衝国構想の方向へ整序されてゆくにつれて、尼港のボリシェヴィキ内部にもこれに同調する分子が勢力を増し、司令官の権威を脅かすようになる。トリャピーツインがこのグループに属するミージン民警隊長、ブードリン鉱山コミサールらを陰謀罪で逮捕すると統一戦線は内部分裂状態に陥った。軍事革命本部を事実上掌握するアナキスト・マクシマリスト連合はテロルを武器とする強権発動によって体制の維持を図った。
 日本軍の接近に対して軍事革命本部はソフィースク方面に兵力を派遣し、アムール河口方面では水路閉鎖を試みたが、その進入を阻止するのは不可能であった。日本軍による再占領が避けられなくなるとニコラエフスクのパルチザンは住民をアムグニ河谷のケルビ村に疎開させ、部隊もこの方面に退却した。アムグニを遡行すればケルビ村まで船が入り、そこからは深いタイガの山中を越えてアムール州のセレムジャ河畔まで道なき道が連なる。アムール州にはソビエト政権が樹立されている。ケルビ村は当面の退却先で、アムール州都のブラゴヴェシチェンスクが退却行の最終目標と考えられていた。尼港から1500キロ以上の行程である。トリャピーツインは武市(ブラゴヴェシチェンスク)まで行って同地のマクシマリストと合流を遂げ、反緩衝国、反日闘争の拠点とする考えだった。
 中国人居留民は砲艦とともに尼港から遠くないマゴに疎開した。
 5月下旬、トリャピーツインとその取巻きは狂気のテロルを展開した。その規模は大きく、犠牲者は3000人とも「サハリン州住民の約半数」ともいう。このテロルの一環として5月24─25日、約130人いたといわれる獄中の日本人俘虜も殺害された。うち居留民は12人、他は残兵である。一般にいわれているところによれば、獄舎からアムール湖畔に連れ出され、殺害されたという。ソ連の文献には、3月の戦闘の時点で日本人居留民の一部が略奪されたリ殺されたリしたのを、無政府状態に乗じた犯罪分子の仕業に帰している見解もあるが、5月下旬の俘虜殺害についてそのようにいうものはない。それはパルチザンによるものである。
 パルチザン軍は撤収を終えると、5月30日に市の一部、そして6月1日と2日には市の大部分に火を放った。30日偵察飛行を行った日本の海軍飛行機からは「黒竜江の沿岸は焰々として燃えつつあり、尼港付近には大爆発音を聞く」と報告された。3日に多門支隊が尼港に到着したとき、「尼港は白煙に包まれ、市街の各所に焼け残りの屋壁、煙突等が突兀(トツコツ)として敗残の家具、家財は参差狼藉足を踏み入る余地もなく住民は勿論全部四散して主を失へる犬猫の所在に彷徨するのみ」という状態であった。事件当時帰国していて津野司令官と同じ船で到着した島田商会主人の島田元太郎は「惨憺たる尼港の廃墟を背景に、悄然と」立ちつくしていた。
 余燼がくすぶる中で多数の死体が発見された。戻ってきた避難民からは事情聴取が行われた。これらの動かぬ証拠によって「尼港の惨劇」は裏づけをえた。
 救援隊によって現地の酸鼻な状況が伝えられると、新聞各紙はこれを大々的に報道した。「凶悪言語に絶する尼港の過激派/邦人130名を鏖殺(オウサツ)す/5月25日我が臨時海軍派遣隊の接近を予知したる在尼港パルチザンの暴挙」(『大阪朝日』6・7)といった四段抜きの見出しが読者の目を引いた。次いで従軍記者のいっそうセンセーショナルな記事が紙面を埋め尽くした。「板壁に残る同胞の絶筆『5月24日を忘るな』」「死体続々発掘/悲惨悲壮を極めたる我が同胞の最期」「荒寥たる焼野原に千秋の怨みを遺す我が同胞/見る物聞く物悉く悲憤の種」(同紙6・14─17)といった具合ある。報道キャンペーンに加えて、殉難者の慰霊祭と従軍記者の「真相報告会」が連日のように催された。石田副領事の遺児芳子が書いた「敵を討ってください」が全国に流布され、涙をさそった。
 このようにして掻き立てられた「過激派」に対する敵意と憎悪は、たちまちのうちに国民的世論となった。次のような指摘はその中にあってまったくの少数意見であった。

 尼港に於てパーチザンが為せる処は、世界の日本に対する感情を、小規模に、而して公式ならぬ方法で表せるものとも云へる。気の毒なる尼港在留者は、此根深き世界の感情の犠牲となったのである。(『東洋経済新報』第9・6・26)

 ここで考えてみたいのは、日本軍が白衛派の加担者だったことに加えて、ほかにもアムール下流域住民の反日感情の根がなかったか、ということである。  
パルチザンに包囲された時点の尼港からの通信の一つにこういうのがある。「彼等ハ『ニ』市ニ至り下田〔=島田〕商店及『リュリー』(漁業家ニシテ『ニ』市唯一ノ金満家)ヲ襲フヘキ旨揚言シツゝアリト」
 島田商店とリュリ兄弟商会は日露ブルジョアジーの代表格として周辺住民からとりわけ深い憎悪と怨恨を買っていたのである。島田の名は略奪的漁法「ザイェズドク」と結びついている。日本では忘れられているが、尼港事件を扱ったソビエト側文献で「ザイェズドク 」との関連性に言及するものは少なくない。

 沿海州とアムール州の住民はアームル上流とその支流でサケがほぼ完全に捕獲できなくなったことを自分の家計の上で感づいていたが、不満の原因まで思い及ばなかった。一方アムール下流の漁民には、年々増え続けたザイェズドクのせいで災難を蒙っていることがはっきり分かっていた。彼らはこの点で責めを負うべき賄賂をとったツァーリ政府の役人だけではない、日本人たち、誰よりまず日本人『ニコライ』に罪があるとみていた。

 また、別の論者はこう記している。

 いずれ後世の歴史家は、1904年の日露戦争から1920年までの北部極東の生活の全期間をザイェズドクをめぐる闘争の期間と名づけ、この闘争が和解せる露日の資本とロシア勤労者とのあいだで戦われたことに注目するであろう。1918年においても1920年においても「全権力をソビエトへ」と書かれたが、この言葉は「ザイェズドク粉砕」と読まれたのである。

 革命で「ザイェズドク」は打破された。1918年3月15日─21日にハバロフスクで開催された漁民大会は「ザイェズドク」によるサケ漁の禁止を決議し、これをうけて同年4月2日の極東ソビエト自治体委員会命令第55号はゴリド・ギリャーク式定置網を例外とするほかは河口・海湾における定置網を完全に不許可とした。「日本人漁業家をふくむ大漁業家にたいして小漁業家を保護し、また魚類の濫獲を防ぐため」の措置がとられた結果、「リュリ商会、島田元太郎たちは大きな打撃を受けた」。革命で鮭が戻ってきたのを喜ぶ沿岸住民にとって、暴利を貪る漁業資本家は不倶戴天の敵以外ではない。
 右の引用文中の「日本人『ニコライ』」とは「ピョートル・ニコラエヴィチ・シマダ」こと島田元太郎を指す。彼は1919年当時、自分の肖像とサインの入った島田紙幣を市内に流通させたことから、この別名で呼ばれていた。もっとも当時の尼港で私紙幣を発行していたのは島田商会だけではない。国立銀行券とりわけ小額紙幣の不足を補うため、クンスト・イ・アリベルス商会、ゲイトン・フリート商会、それに地元の協同組合もそれぞれ紙幣を発行していた。しかしその中では島田紙幣が「とくに普及していた」といわれる。
 日露戦争後の鮭鱒の乱獲から内戦期の経済的支配に至る歴史的経過をみれば、住民の反日感情は自然ではなかろうか。
 この点について、もう一つ問題がある。尼港周辺の鉱山地区や村々には旧サハリン島住民が多かった。彼らもまた歴史的に反日感情をもっていたと考えざるをえないのである。次のような主張にも耳を傾ける必要がある。
 
 日本軍は1905年にサハリン島南部を占領したとき、立ち退かない全住民を女子供まで容赦せずに皆殺しにした。日本軍の残虐ぶりは革命のはるか前から、過去においてサハリン島南部と何らかのつながりをもつすべての者に反日感情を抱かせた。私は沿海州の農民からこの話を度々耳にした。アムール河下流地方では、1905年の南サハリンのロシア人迫害に対する日本人への復讐欲が当然もっと強烈だった。南サハリンから引き揚げた住民の大部分はまさにこの地方に流れてきたからだ。この対日憎悪の感情をつねに掻き立てたのがロシア人漁業労働者に対する日本資本の血も涙もない搾取なのだった。
 日露戦争でロシア領において唯一戦場となったサハリン島の戦史と軍政史は詳しい検討が必要である。右の引用には「立ち退かない全住民を……皆殺しにした」という点などに誇張があって、すべてをそのまま認めることはできない。しかし、北部も含む全島で日本軍が徹底的に略奪をほしいままにしたこと、日本兵から家族と財産を守ろうとしたために殺された住民がいたこと、大部分の移住囚と農民が無一文になって対岸デカストリ地区に放逐されたことは疑う余地のない事実である。
 1920年5月下旬の日本人残兵・居留民殺害に「客観的条件」があったとすれば、それは、すでに日露戦争とそれに続く時代に深い根をもち、干渉戦争の中で加重された尼港と周辺住民の反日意識であったということができる。
 さて、トリャピーツインに指導されたテロルの体制は尼港撤収からほぼ一ヶ月後、避難先のケルビで下からの反乱によって崩壊した。6月初頭につくられた反トリャピーツイン派の秘密組織が工作を進めた結果、6月末までにアムグニ=トゥイル戦線のパルチザンはほぼ全員が彼の逮捕を支持するに至った。7月2日にボルシェヴィキのアンドレーエフを長とする臨時軍事革命本部が結成され、逮捕を実行するための特殊チームが編成された。
 この臨時軍事革命本部メンバーの一人にワシリー朴の名がみえる。彼は朝鮮名を朴炳吉といい、ロシアの士官学校出身で尼港の韓民会書記をつとめていた青年である。彼は自由団という約100人の朝鮮人青年組織を結成していたが、この組織は市外からきた韓人中隊(第一中隊)とは別に、彼ら自身を武装組織とすることを決め、トリャピーツインと交渉して武器の提供をうけ、韓人第二中隊を編成した。先任下士をつとめた李智澤の回想によれば、第二中隊編成の動機は、軍人として配給を受けられるという利点、第一中隊は信頼がおけないという判断、避難を有利に進める必要性の三つだった。第一中隊は横暴で士気は低かった。
 グートマン著『ニコラエフスク=ナ=アムーレの惨禍』は、尼港の朝鮮人部隊が「赤軍の最も信頼しうる部隊」で隊内の規律は厳格であり、「徴発や没収にも略奪や暴行にも加わらなかった」点を高く評価したが、それは第二中隊について該当する。
 7月3日から4日にかけての夜、トリャピーツインらは逮捕された。6日に行われた兵士総会は本部の活動を承認し、トリャピーツインらを公開人民裁判にかけることを決議した。ケルビには尼港から引き揚げた5000人がいたが、全住民から代表が選出され、8日に「103人の法廷」が開かれた。トリャピーツイン、レベヂェヴァ、ジェレージンら7名は銃殺刑を宣告され、刑は翌日執行された。
 刑執行の2日後、ウラジオストクの共産党沿海州協議会は決議し、トリャピーツイン、レベヂェヴァが尼港における正式のソビエト政権代表者ではなく、ソビエト政権中央組織の指令には意図的にたえず反対してきたこと、彼らが党とは無縁の冒険主義者であることを内外にアピールした。
 こうしてアムール河下流域におけるトリャピーツインの支配体制は清算された。しかしそれが日本に与えた衝撃は大きかった。尼港パルチザンの所業は反「過激派」世論を増幅させ干渉政策をを継続するための格好の材料として徹底的に利用されることになるのである。

 
 


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2 コメント

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Unknown (森 和正)
2020-04-16 14:06:02
初めまして
多少文章に引っかかるものは有りますが
事件があるので読んでいます
返信する
Unknown (syasya61)
2020-04-16 21:53:28
森 和正様

お気づきのこと、ご指摘いただければ幸いです。
返信する

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