真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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アメリカの介入がなければ、台湾有事はない

2022年09月04日 | 国際・政治

 下記は、台湾の二二八事件の経緯に関する部分を「台湾の悲劇 世界の行方を左右する台湾」正木義也(総合法令)から抜萃したのですが、そのタイトル通り、台湾はくり返し強国・強権に翻弄されてきた「悲劇の島」であり、再び悲劇をむかえようとしているように思います。


 台湾が、日清戦争の結果、下関条約によって清朝から大日本帝国に割譲されたのは1895(明治28)年でした。日本の植民地支配の一端は、「霧社事件」などで、その実態を知ることができるように思います。
 アジア太平洋戦争における日本の敗戦で、台湾は、およそ50年間にわたる日本の植民地支配から解放されますが、1949年以降、国共内戦に敗れて逃げ込んで来た蒋介石国民党政権の圧政下におかれました。蒋介石国民党政権は、軍事力に物を言わせ、その中枢を、国民党関係者すなわち大陸人(外省人)で固めたばかりでなく、地方公職選挙で台頭する台湾人(本省人)を排除するシステムを構築し、非民主的な独裁政治を続けたのです。それは、史上最も長いといわれる38年間にもわたる戒厳令続行に象徴されていると思います。
 また、見逃せないのは、民主主義や自由主義を掲げるアメリカが、台湾を、対共産主義勢力の最前線として位置付け、蒋介石国民党政権の戒厳令に依拠する圧政に目をつぶって、軍事援助や経済援助を続けたことです。
 そしてその姿勢は、国連総会で(1971年)、中華人民共和国の中国代表権を認め、中華民国政府(台湾=国民政府)を追放する決議が採択された後も、基本的に変わることがなかったということです。
 アメリカのニクソン大統領は、1972年、「中国は一つであり、台湾は中国の一部である」した共同宣言(上海コミュニケ)を発表し、米中国交正常化を実現させました。でも、その宣言内容を変更したことがないにもかかわらず、アメリカが、再び台湾に大量の最新兵器を売却している事実は、看過できないと思います。
中国は一つ」ということであれば、それは、内政干渉であり、中国に対する挑発であるといってもいいと思います。

 1945年9月、中華民国南京国民政府は、日本の現地軍の岡村寧次総司令官から降伏文書を受領しましたが、翌月、台湾省行政長官に任命された陳儀は、日本領台湾の安藤利吉総督・台湾軍司令官兼第10方面軍総司令官から降伏文書を受領しています。だから、国民政府は台湾・澎湖諸島に対する領土の主権が回復されたことを宣布ました。
 でも、蒋介石国民党政権は、地元民台湾人(本省人)の政治参加を事実上拒否し、非民主的で差別的な独裁政治を続けたので、それに不満を持った台湾人(本省人)が立ち上がり、下記のような、二・二八事件となるのです。一人の煙草売りの女性に対する官権の差別的で暴力的な扱いが、台湾全島を巻き込む大事件に発展したことが、台湾における国民党政権の政治がいかなるものであったかを示しているのではないかと思います。

 また、国連総会の中国代表権問題にかかわって、蒋介石が主張した「漢族不両立」というのも、台湾人(本省人)の存在や思いを無視したものであったと思います。「漢族不両立」というのは、国共内戦で戦った中華民国(国民党)の側が「正義」であり、大陸の中華人民共和国の側が「賊」すなわち「不正義」であるという考え方ですが、中華民国の国連追放が決定したのは、蒋介石がこの言葉を使って、自ら国連を飛び出す姿勢を示したからであると言われています。アメリカや日本は、中華民国が「台湾」の名で国連にとどまるよう説得したようですが、蒋介石は、自らの正統性を主張し、国連に「正義」と「不正義」が両立することは受け入れられないということで、アメリカや日本の提案を拒否し、脱退したというのです。
 蒋介石の思いは理解できなくはありませんが、国共内戦に敗れて、自らが暮らしていたわけではない島に逃げ込み、その島の住民の意向を無視して、独裁政治を続けたり、国連脱退を決めるなどということは、どう考えても「正義」として通用するものではないと思います。

 したがって、台湾有事が心配される現在、自由や民主主義を掲げる国は、台湾の人たちの存在や思いを大事にし、台湾行政院の大陸委員会が昨年9月に行った世論調査で、85.4%を占めるという「現状維持」を尊重すべきだと思います。
 台湾の一部の政治家が、アメリカと結んで、大量の兵器を買い込み、中国と武力で対峙しようとしているようですが、危機感を煽ったり、中国を挑発するようなことは、謹むべきであると思います。

 また中国が急成長して、アメリカの覇権や利益を脅かしつつあるために、焦るアメリカが台湾の独立派に近づいていることも見逃してはならないと思います。
 アメリカが、民主主義や自由主義を尊重する対外政策や外交政策を続ければ、急速に没落し、ロシアや中国が力を得ることは避けられないのではないでしょうか。だから、ウクライナ戦争があり、台湾問題があると、私は思います。
 言い換えれば、アメリカの介入がなければ、台湾有事はないということです。
 だから、誰が台湾を第二のウクライナにしようとするのか、という視点を持たないと、プロパガンダに引きずられて、酷い目に遭うことになる、と私は思うのです。  
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                     第五章 二二八事件 元凶は誰か

 義理は禁物
 政治権力の中枢台北市の、李登輝総統の執務する総督府の赤レンガの斜め向かいに、こんもり木々の茂る公園がある。台湾民族の悲劇、二二八事件の資料が展示された「台北二二八記念館」が、その隅に建っている。
 日本が第二次世界大戦に敗れ、中華民国政府(国民党)に台湾と澎湖島などを返すまで、日本統治下の台北放送局庁舎であった。
 1930年に落成した建物はこげ茶色のかわらの屋根、ベージュの外壁、二階建てのバルコニーをもつ瀟洒な南ヨーロッパ風の建物である。周りに南洋の樹木が植えられ、高雄や台中などの鉄道駅と共に、日本統治下の歴史ある文化遺産として貴重な建物である。
 訪問者は、一階の通路で、第二次大戦前の日本統治下の台湾の過去に引き戻され、激しいカルチャーショックを受ける。入口の左手に「台湾人的訴求」のコーナーがある。
 1935年台湾で行われた直接選挙の写真が展示されている。
 選挙管理人が、腕章を巻いて白いクロスに覆われた壇上にいる。その目前に投票箱が並んでいる。
 正面壁の日の丸の両側に、
──小さな一票大きな使命
──義理は禁物 人物本位
などと記された垂れ幕が下がっている。投票箱の左右と、入口の受付に背広ネクタイに正装した日本の男たちが真剣な面もちでこちらを見つめている。

 日本皇軍の未亡人
 1947年2月27日の木曜日。この日、昼間は晴天だった。しかし夕方から小雨になりはじめた。台北から北東へ約20キロの淡水港へ煙草の密輸捜査に行った福建人の伝学通らは夜6時、警察隊数人と合流して、台北市内のパトロールに入った。
 淡水河沿いの繁華街、延平北路を南に下り、南京西路に曲がった天馬茶房付近で、一人の中年女の煙草売りを発見した。
 林江邁(リンコウマイ)であった。彼女の夫は、日本皇軍の兵士として南方に派遣され、帰らぬ人となっていた。
 未亡人は、わずかの資本を元手に外国煙草を仕入れ、日本軍の出征兵士として戦地で没した夫に代わって、糧を稼いでいたのである。
 本国からやって来た大陸人にとって、日本化された台湾女性は、侮蔑の対象でしかなかったのであろう。
 捜査員はパラパラと飛び降りた。抵抗する林江邁を殴り、屋台をぶちこわした。そうして煙草と売上金の押収にかかった。
 夫を戦争にとられ、生活苦にあえいでいた台湾夫人は、捜査員に向って土下座した。額を地べたに何度もすりつけ「救命」「救命」と嘆願した。
 この時すでに、多くの群衆が遠巻きに繁華街の成り行きを見つめていた。ほとんどの台湾人は、専売局捜査員によって女子供の零細な煙草売りをいじめられるのは国民党政府が、自分たちの巨大な利益や裏金を独り占めにするためのカムフラージュであることを知っていた。
 延平北路から南京西路の円環の辺りは、屋台が並ぶ雑踏であり、群衆の数は急に増えてきた。

 大事件の導火線
 外国煙草を大量に密輸入し、巨額の利益を得ている一部の商売人の背後に軍隊や税関がついている。これら捜査員は、彼らの犯罪をおおい隠すために、零細な屋台を狙ってスケープゴートを次々と捕まえて見せしめにしていたのである。このようにして取り上げられた煙草やお金はどこに行くのか。彼らのポケットに入るのはいうまでもない。群衆は、歯がみし、身体を震わせ、舌を打ちならした。
 散乱した屋台と哀れな台湾夫人の周りに、群衆の輪がせばまった。
 この時、福建省籍の捜査員・葉得根がもっていた拳銃の台で林江邁の頭を殴った。執拗にすがりつ林江邁は、頭から血を流して転倒した。
 十重二十重と現場を取り巻いて、かたずをのんで成り行きを見ていた群衆がこれを見て、我慢の限界を超えて、捜査員にどっと詰め寄った。
「ブタ警察」
「泥棒」
「阿山(大陸から押しかけて来た中国人)め」
 などと、ののしり、
「煙草を返してやれ」
「金を返せ」
 と押寄せた。
 威張り散らしていた捜査員は、ふくれあがった群衆の勢いに押され、あわてて退却しはじめた。群衆は怒声と力でどんどん追っかける。
 捜査員は銃を抜き、発砲して群衆を威嚇しながら、乗ってきたジープも捨てて、走って逃げはじめた。そのとき、一人の警官が発砲した銃弾が陳文渓という台湾人に命中した。彼は即死した。
 これが、全島を揺るがす大事件の発端であり導火線となった。

 専売局を襲う 
 南京西路に置き去りにされたジープは群衆によりその場で焼き打ちにされた。陳文渓が、警官によって銃殺されたニュースはまたたく間に台北市内を駆けめぐり、市民が続々と現場に集まってきた。
 群衆は犯人銃殺を求めて警察官や憲兵隊に押しかけた。
 しかし、警察局も憲兵隊も、事態を偶発的、一時的なものと楽観していた。台湾人の底に根強く広がっている大陸人への反感を軽視していたのである。
 翌2月28日は早朝から不穏な空気が漂いはじめた。学生は授業を放棄し、商人は店を閉じた。大勢が事件の現場の円環近くなどに集まってきた。市内でそれぞれ集会を開いた後、台北専売局に押しかけた。彼らは建物に押し入り、局内の中国人職員を殴りつけた。そして煙草、酒、マッチなどを道路にほうり出して放火した。
 急激にふくれ上がったデモ隊は、事件の元凶である南門の専売総局に向った。
 ドラや太鼓をたたきながら、
「専売局長を出せ」
「犯人を銃殺せよ」
 と叫んだ。
 この時、警察隊が威嚇射撃を行ったので、群衆の怒りはさらに増大した。彼らは身の危険も顧みず、専売総局の構内に乱入したので、局長を始め専売局職員はわれ先に逃げ出した。
 群衆は建物の中の物を片っ端から破壊し、前方の広場に持ち出し焼いた。

 長官出て来い
 午後には、市政府や警察局へ行った群衆も合流し、長官公署前に集まって来た。一万人を超える大集団になあった。
「陳儀(長官)出てこい」
「犯人を引き渡せ」
などと群衆は叫び、武装警官と憲兵隊が何重にも警備陣で取り巻いている長官公署を包囲した。長官公署には、日本が台湾から撤退して、入れ違いに大陸からやって来た行政長官・陳儀がいる。彼が、中国国民党の権力をカサに着て、台湾人を悲惨な状況においていることを群衆は知っていた。
 長官公署前で、抗議を繰り返している群衆へ、バルコニーの憲兵隊が突然一斉掃射を始めた。
 デモ隊の戦闘にいた数十人に命中し、死傷した。群衆は隊列を崩し、一斉にくもの子を散らすように退却した。しかし、陳儀のこの弾圧策は、一般民衆の怒りの火に油を注ぐ結果となった。
 このようにして、台湾史上最大の悲劇、二二八事件は台北だけでなく、全島を巻き込む大暴動となっていく。

 天に代わりて不義を討つ
 大陸人、国民党の陳儀長官による同胞への機銃掃射の弾圧は、台北市内の隅々まで津波のように伝えられた。街という街は人々の熱いるつぼとなった。
 市民のなかには、元日本兵もいる。軍歌を高らかに歌いながら、
「豚(中国人)を殺せ」
「阿山を台湾から追い出せ」
と叫んでいた。交番は軒並み襲われ、破壊された。 
青年グループは、
「日本語話せるか」
と質し、日本語で返答できない通行人は阿山と決めつけて、殴りつけた。
 街の電柱には
「打倒陳儀」
「打倒阿山」のスローガンがはり出された。このスローガンは国民党と大陸支配人に対しての台湾人反逆と抵抗が政治的暴動に発展することを予見させた。

 戒厳令
 夕刻、台北市全域に戒厳令が発表された。街のすみずみまで国民党軍隊が動員された。軍隊はデモ隊と衝突すると素手の群衆に機銃掃射を浴びせた。怒った群衆と武装した軍隊や警官隊が衝突し、街は内戦の様相となった。
 一部の群衆は、中山公園で決起大会を開いた。二二八記念館となっている公園内の台北放送局を占拠し、全島に事件の発端となった内容を放送した。
 前日の延平北路から南京西路での煙草売り婦人への血の弾圧と、群衆が長官公署前で機銃掃射されたことなどが全島に知らされた。このラジオ放送に呼応して、中部の台中市などでも群衆が動き始めた。
 戒厳令のしかれた台北市の街角では国民党の軍隊や警察、憲兵が横行していた。
 台湾人の中から多くの死傷者や逮捕者が出ていたが、一方、大陸人が街のあちこちで群衆によって袋叩きにされていた。
 国民参政院と省参議員などによって、事態の収拾をはかるために選出された代表が、陳儀行政長官に「闇煙草取り締まり流血事件調査委員会」を設けることを建議した。
 委員会は、黄朝琴、周延壽、林忠、王添燈を代表として長官公署に派遣した。これらの人々のうちには一週間後、国民党軍の増援部隊が進駐して来ると殺され、いまだにその行方さえ判明しない人もいる。
 代表の要求は次のとおりであった。
戒厳令の即時解除
逮捕者の即時釈放
軍隊、憲兵、警察の発砲禁止
官民合同の処理委員会の組織化
陳儀長官のラジオ放送

 陳儀の時間稼ぎ
 陳儀長官は、あたかも台湾人の要求を受け入れるかのようなポーズを示した。この日の夜、事件発生後はじめてラジオ放送を行い、「深夜12時から戒厳令を解く」「官民共同の事件処理委員会に、長官公署秘書など、当局側の代表を参加させる」ことなどを約束した。
 陳儀はさらに被害を受けたものは、台湾人、大陸人を問わず、負傷者は治療し、死者には弔慰金を支給すると述べた。
 市民はこれによって、さらなる流血の惨事が避けられると安堵したが、これは陳儀の狡猾な時間稼ぎであった。
 一方で陳儀は本土にいる蒋介石の軍隊派遣を打電していた。南京にいる蒋介石もまた武力によって台湾民衆を鎮圧することを決意した。
 陳儀が約束した戒厳令の解除は実際行われず、逆に武装部隊は増強された。台北市内は戒厳令体制が続き、ひっきりなしに銃声が聞えて逮捕者が相次いでいた。
 一方、官民共同の「二二八事件処理委員会」は、日曜日の3月2日から官庁街の中山堂で善後策を論議した。民衆が傍聴しようと押しよせ会議場は人であふれた。会議はそのあと三日間にわたり延々と続いた。組織論議に時間が費やされ、各県市に分会を設立することなどが決まるのに3日を費やした。陳儀はこの間、処理委員会の中に特務スパイを潜入させ、時間稼ぎを行っていた。
 すでに南京の蒋介石から軍隊派遣の返電を受け取っていたので、陳儀は時間さえたてば武力弾圧できる確信を持っていた。処理委員会のメンバーは、うかつにもその腹黒い企みに気付いていなかった。
 陳儀のカムフラージュが功を奏し、処理委員会が組織論議にあけくれている台北での膠着状態とは異なり、地方各地で暴動がわき起こっていた。

 暴動全土に
 現在世界的なハイテク生産地になっている新竹では、この頃台北に向って走る軍事列車がストップされ、民衆と軍隊とが交戦していた。
 中南部嘉義の市民は市庁舎を占拠し、政府職員は追い出された。斗六では警察署が占拠された。台南でも警察や市の出張所が次々と焼き打ちされた。
 こうして、事件はまたたく間に全島に拡大している。しかし、なかでも強硬な武装闘争を展開したのは、中部の主要都市・台中であった。
 二二八事件の軌跡をたどってみると、台中は他の都市に比して、きわだった特徴を示している。
 台湾放送局ラジオの突然の惨劇ニュースが台中や嘉義など中南部の家庭や職場に流れたのは2月28日の午後だった。
 台北からの交通が遮断されるなど、すでに異変は中南部におよんでいたが、電波による影響は大きかった。
 ラジオから突然、呼びかけがはじまった。
「あなた方も我々、台北市民の正義の決起に応えて立ち上がってください。いまこそ、台湾人のための国にしよう。汚職の官人を打ち倒そう」
 この放送は、中南部の台湾人を一気に興奮状態に巻き込んだ。


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