インドネシアのブル島は、パンダ海に浮かぶ東西約145キロ、南北約81キロ、面積およそ9600平方キロ(山形県よりやや広い面積)の島で、政治犯の流刑地として知られている。そこに日本軍の「慰安婦」にさせられ、日本軍に棄てられたジャワの少女たちがいた。偶然その事実を知り、聞き取り調査をもとに実態を調べ上げたのは、9・30クーデター未遂事件に連座したとしてブル島に流刑されていたプラムディヤ・アナンタ・トゥールを中心とするスハルト政権下の政治犯の人たちである。彼らは、1969年8月16日、第15アドゥリ号でインド洋に浮かぶ監獄島ヌサ・カンバンガンのソドン港からブル島に送られ、インドネシア政府が政治犯の定住区と定めた土地で生活を始めたのであるが、流刑地でジャワ人女性に出会い、『驚いたことに、ブル島に棄てられていたのは、私たち政治犯だけではありません。流刑にされた私たちより以前から、「棄てられた少女たち」がこの島に住んでいたのです』というわけである。
日本軍に棄てられただけではなく、インドネシア政府からも何の支援も得られなかった彼女たちは、もし、プラムディヤとその仲間の聞き取り調査がなかったら、まさに歴史の闇に葬り去られる存在であった。下記は、「日本軍に棄てられた少女たち インドネシアの慰安婦悲話」プラムディヤ・アナンタ・トゥール著・山田道隆訳(コモンズ)から、少女たちを連行すために語られた「留学話」を中心とした第1章 と第2章の一部、そして、第5章の「日本軍に棄てられた少女」の一人”スラストリ”の証言の抜粋である。著者は、若者たちに対する手紙の形で、この「日本軍に棄てられた少女たち」の記述を進めているが、第11回福岡アジア文化賞を受けたノーベル賞候補作家であるという。
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はじめに
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1942年 ドイツ軍の戦術にならい、日本軍は東南アジア地域に電撃攻撃をかける。この結果、西欧諸国が支配していた同地域内の全植民地が大日本帝国軍の手中に落ちた。3月には、ジャワ島が日本軍に占領される。インドネシア諸島は日本陸・海軍の軍政下に置かれ、このうちジャワ、スマトラの両島は陸軍の管轄となった。
1943年 連合国側が東南アジア地域で大規模な反攻を開始したのに伴い、攻勢を続けていた日本軍は守勢にまわる。日本軍の対インドネシア民族主義運動への姿勢にも変化が生じ、その結果、民族主義者たちはジャワ、スマトラ両島で自らの宣伝活動を積極化させる機会を得た。東南アジアを占領していた日本軍と日本本土を結ぶ海路および空路の双方とも寸断されるなど、日本軍は困難に直面する。インドネシア国民はこの間、祖国防衛義勇軍(PETA)を通じて日本軍から軍事訓練を受けていた。PETAの兵士は連合国軍の攻撃から祖国を守るのが任務とされ、〔日本からの〕日本軍部隊が最前線へと送られていく。
海・空の交通網が断たれたため、日本軍は日本本土および中国、朝鮮半島から「慰安婦」を連れて来ることが困難となる。代わってインドネシアの少女たちが「性の奴隷」として最前線へ送られた。
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第1章 甘い約束』
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1942年3月から45年8月におよんだ日本の軍事占領時代に思春期を迎えたインドネシアの少女たちも、みなさんとちょうど同じでした。もし違いがあるとすれば、それは日常生活を取り巻く環境です。当時、生活は困難をきわめ、常に付きまとった頭痛の種は、着る物や食べ物をどうやって手に入れるかでした。わずか一皿分のご飯を得るために、一日中さまよい歩かねばなりませんでした。毎日、飢えで死んだ者が道端に、市場に、そして橋の下に放置されました。村々では農民が収穫期を迎えても農作業を許されず、村から離れた土地で強制労働に就かされます。こうした者のうち、75万人以上が二度と家族の元に戻りませんでした。故郷から遠く離れた地で、あるいは東南アジアの国や島々で、命を落としたからです。
都会では、生徒たちが学校で勉強できなくなり、その代わりに「タイソー(体操)」「キョーレン(教練)」「キンローホーシ(勤労奉仕)」を強制されました。しかも、食べる物もなく、空腹状態でやらねばなりません。体力を失って失神し、倒れる生徒が出ましたが、日本人の教官や団長たちは繰り返しピンタを加え、意識を取り戻させようとしました。
当時、薬局には薬はまったくなく、だれもが着のみ着のままの生活を送っていたことを忘れないでください。すべての階層の人たちが、物不足、空腹、貧困にあえぎ、手元にある物はすべて商人に売り尽くされました。貧困と飢餓のなかでは、商人だけがいい目をみたのです。そんなときに生まれた新しい言葉が「闇商売」。闇の商売で利益をむさぼった商人たちは、「闇商人」と呼ばれました。
こうした困難の状況のなかで、当時ジャワ島を占領して最高権力機構、つまり日本軍政監部からの「ささやき声」が聞こえてきます。それは、軍政監部がインドネシアの若い男女生徒たちを東京や昭南島(現在のシンガポール)への「留学」機会を与える、というものでした。ささやき声と表現したのは、それが明瞭な形では伝えられなかったからです。
私がこの留学話を最初に耳にしたのは、1943年、18歳のとき。ジャカルタのポス・ウタラ通りにあった同盟通信社でタイピストとして働き始めて、まだ1年も経たないころです。当時、私は午前中、ガルーダ通りにある成人学校で勉強しており、留学話は学校の友たちのあいだでも話題になりましたが、噂話にすぎないとして真剣に耳を傾ける者はいませんでした。しかし、日本軍政下にあっては、新聞などが活字の形で報じるニュースよりも、噂話のほうが真実味があったのです。
留学に関する話を活字の形で読んだことはありませんでした。私は、同盟通信社の編集部からまわってくるニュースをタイプで打っていましたが、この件をタイプで打った記憶はありません。タイピストはほかにも男女合わせて8人いましたが、誰一人として留学話をタイプで打った者はいません。
午前中は学校へ行き、夕方から仕事に就き、ときには夜遅くまで働いていたため、月刊誌さえ読む時間もなく、留学に関する噂話に関心を寄せる暇もありませんでした。実は、オランダ領東インド総督府が倒れたとき、私には日本で勉強してみたいという思いがありましたが、日本軍がインドネシアを軍事占領したことで、その思いは消え去ります。その後の占領下、日本軍の行為や態度を見るにつけ同調する気持ちは反抗心へと変わりました。このため、留学話には私だけでなく、学校の仲間たちも何の関心も示さないようになります。
この手紙を書いているのは、1979年の半ばで、私が噂話を聞いた43年といえば、もう35年以上もむかしです。当時、日本軍政監部の約束や政策が新聞などで公表されることはありませんでした。それゆえ、多くの人たちの記憶に助けられながら、みなさんに向けたこの手紙を書いています。留学の約束が、1943年にあったのは本当だったのでしょうか。
国営アンタラ通信スラバヤ支社の元責任者だったスリヨノ・ハディ氏(1929年生まれ)は、78年8月に行われた聞き取りに際して次のように話しています。
「兄が1943年に話してくれたところでは、日本軍政監部は娘をもつ両親に対して、娘の名前を、すみやかに登録するように命じました。娘たちを学校に入学させるため、というのが登録の理由だったそうです」
「(私が1943年から45年まで居住した中ジャワ州の)ウンガランでは、15歳から17歳までの少女5人が登録を終え、このうちの一人は兄の親友の娘さんでした。登録した5人はその後の手続きを進めるため、スマラン(中ジャワ州の中心都市)に連れていかれました」
「同盟通信社にほど近いジャカルタのパッサール・バルー地区にある女子実業学校では、「S・S・(シティ・スミナル)」という女子生徒が1943年に軍政監部に名前を登録し、同じ年にどこかへ連れて行かれたという話もあります。
スラバヤ(東ジャワ州都)のタンジュン・ペラック港の元造船工イマム氏(1931年生まれ)によると、少年や少女たちを乗せた船での輸送が43年に始まったといいます(証言=78年8月7日、ブル島)。
「私の実兄ユスフは当時18歳で、溶接工をしていたときに日本軍政監部の留学話を受け、シンガポールへ船で連れて行かれました。兄によると、船には多くの少女たちも乗っていましたが、船名や少女たちの人数は覚えていません。シンガポールに近づいたころ、魚雷が命中し、船は大破したそうです。兄は漁船に助けられて無事でしたが、『少女たちは全員死亡しただろう』と話していました。兄は恐怖心もあってシンガポールにそのままとどまり、帰国したのはインドネシア独立後でした」
日本軍の占領時代には、そうした事件が公表されることはありません。日本軍政監部は自らに都合の悪いニュースや失敗例などを知られるのを恐れていたからです。同盟通信社から150メートル離れたところにあった日本映画社が、火災に遭い、死者が出たときも、一行たりとも報じられませんでした。この火事では焼死者が出て、うち2人は私(プラムディヤ)の家の隣に住んでいた母子でした。
留学話の件では、ほかにも何人かが1943年に聞いたと証言しています。ハルン・ロシディ氏はこの件で資料を集め、そのなかにカスミンテ、マリバ両氏から得た話も含まれています。(カスミンテ氏の証言=74年、ブル島)
「1955年、私はチルボン(西ジャワ州)の高校3年生で、21歳でした。アブドゥラという名の化学・生物担当の教師が授業中に、日本軍占領時代の体験を話してくれたのを、いまでも覚えています。先生によると、占領時代、チルボンに駐留していた日本兵たちは女子生徒を次々に乱暴し、なかには両親が知らぬあいだに、あるいは承諾もなしに連れ去られた者もいたそうです。日本兵の乱暴な行為は、43年以降、日本軍が連合軍に降伏するまで続きました。少女たちが連れ去られた場所や人数はわかっていません。先生の実の妹も43年に連れ去られた犠牲者の一人で、妹さんの消息はまったく不明のままだったそうです。先生が妹さんをどんなに愛していたか、その表情からわかりました。話をしながら、先生はときおり涙を流し、声をつまらせながら、こみ上げる悲しみに必死に耐えようとしていました。妹さんの行方不明事件がきっかけとなり、激しい怒りに燃えた先生は反ファシズムの地下抵抗運動に参加したそうです」
同級生だったマリバ氏も、カスミンテ氏の話が間違いないことをロシディ氏に確認しました。
・・・
みなさんに向けたこの手紙を書くに際して、(日本軍の行為を示す)確実な証拠となる資料や印刷物は手元にないので、書く内容はすべて第三者の記憶や体験をもとにしました。それでも、日本軍による「留学話」が1943年に出始め、少女たちの最初のグループがジャワ島を出発したのは、ほぼ間違いない事実だと考えています。
そこで、次の疑問が出てきます。留学話が新聞や印刷物の形で告知されなかったとしたら、この話は住民のあいだにどのようにして広まったのでしょう。
答は簡単、口コミ。それも、権力を伴う口コミです。担当したのは軍政監部の宣伝部。オランダ統治時代に権力をもっていた行政官に代わって、日本軍政下に強大な権力をもった部署でした。宣伝部は行政官に指示や提案を出し、その指示はさらに県長から郡長、村長、区長、そして最終的には、住民へと伝えられていきます。情報が村々に届くまでには時間差がありましたが、すべての口頭の伝達で、常に憲兵隊と軍政監部当局者の監視下で行われました。当時の行政機構は専制的で、日本の占領軍が完全に押さえていたのです。
犠牲者の一人、スミヤティさんは聞き取り調査を行ったスカルノ・マルトディハルジョ氏に、留学話に関して次のように証言しています。(1978年)
「日本政府は将来のインドネシア独立という目標を掲げ、その準備のため、インドネシアの若者たちに自立達成へ向けた教育の機会を与えるという話でした。私がこの約束を聞いたのは1944年で、43年ではありません。掲示された教育の機会は土地によって分野が異なり、助産婦教育もあれば、看護婦教育のところもあります。対象にされたのは13~17歳の少女で、その多くは小学校を終えたばかりだったので、相違はあっても当然だと思いました」
・・・
少女たちはいったん日本の魔の手に落ちてしまうと、そこから抜け出すのは困難でした。ジャワ島上陸以来、日本軍政監部はオランダ領東インド時代にあった「通行・住民証明書」制度を復活させます。オランダ領時代にはこの証明書の適用対象者は中国系住民のみでしたが、日本の占領下では全住民に適用され、どの住民も所持しなければなりません。また、居住区外に出るときには、特別の証明書を必要としました。自宅以外で宿泊する際には、その土地の役人に届けでなければなりません。全村に「トナリグミ(隣組)」制度が設けられ、これが住民監視網になっていきます。
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ジュキ氏(1929年生まれ)が78年7月、ハルン・ロシディ氏に語ったところによると、西ジャワ州インドラマユのハウルグリスで、近所に住んでいた理容師が日本軍の約束を信じ、美人だった娘の留学に同意しました。日本兵に連れて行かれた娘の消息はその後ぷっつり切れ、親が懸命に行方を捜しましたが、二度と会うことはできませんでした。
別の例をあげましょう。以下は、スワディ・ハディスワルノ氏(1933年生まれ、ジョグジャカルタ・シガディウィナタン生まれ)が78年7月31日に、ロシディ氏に語った内容です。
ハディスワルノ氏は、親が日本軍政下で村の「組長」を務めていたことから、村の少女3人が東京で勉強するため、出発したことを覚えていました。このうち1人は父親といっしょに村を出たそうです。父親は「ロームシャ(労務者)」としてビルマ(ミャンマー)に向かい、日本軍の降伏後46年に自力でボルネオ(現在のカリマンタン)島の東カリマンタン州サマリンダを経てジョグジャカルタに戻れましたが、娘の消息は不明のままでした。この父親は娘の東京行きを進んで認めたわけではありません。
これまであげてきた例から、この時点で次のように要約できます。
第1、日本軍政監部が約束した東京や昭南島への留学話は官報など公式な形で発表されず、悪行を追及されないよう、日本軍は意図的に「犯行」の跡を消していた。
第2、少女たちが故郷そして親元を離れ、危険の伴う航海を決意したのは、自分からそう望んだのでは決してなく、軍政の脅しを怖れた親がそうさせたためである。
第3、日本軍が成人前の少女を対象としたのは、兵士たちの欲望を満たすためのほか、少女であれば反抗する力もないと考えたからだった。
さて、私がこの手紙を書いたのは、少女たちが日本軍政下で、厳しい運命に見舞われたことを、若いみなさんに知ってもらうためのほか、同じような悲運が少女たちと同年齢のみなさんにも降りかかる危険性があることをわかってもらうためです。この手紙はまだ終わりではありません。これからの章に、みなさんに知ってもらいたいことが記されています。
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第2章 公然の秘密
これまで見てきたように、ジャワ島を支配した日本軍政監部は1943年、宣伝部を通じて、少女たちに東京や昭南島での留学機会を約束し、日本軍はこれに従った少女たちを船で運びました。しかし、船での輸送が何回あったのか、また、ジャワ島占領が終わりを告げた日本軍降伏までのあいだに、どれだけの人数の少女たちが船で運ばれたのか、知るものはいません。日本側がこうした数字を公表することは今後もないでしょう。日本軍政はこの行為の当初から、留学機会の公表を避けるなど、証拠を残さぬようにしていました。みなさんがくわしい資料を掘り起こすよう努力をしてください。
先進諸国の人びとなら、人道に反する行為が起これば、たとえそれが何千キロ離れた土地や他国民のあいだであったとしても、わが身に起きたことのように感じるはずです。同様の行為が自国民の身に起きたならなおのこと、抗議運動があっても一向に不思議ではありません。さらに、同じ意見や考え方をもつ者たちと協力して組織をつくり、非人道的行為の停止を求めるのも当然です。少女たちの悲運からすでに数十年も経過しました。みなさんにあてたこの手紙は、少女たちのために何もなされていないことへの抗議の意味も含んでいます。
私が集めた資料だけではまだまだ不充分ですが、将来、みなさんの努力で、より信憑性のある新たな資料が発掘され、日本軍の蛮行が白日の下に晒されるよう願っています。…
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第5章 ブル島に棄てられた少女たち
消えぬ望郷の念
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以下は、スティクノ氏がブル島に住んでいた女性たちと、すなわち「棄てられた少女たち」の一人と思わぬ出会いをしたときの記述です。
1973年のある朝、ワナスリヤ定住区の畑に、一人の女性が姿を見せました。背が高く痩せており、地元アルフル人の女性とは様子が違っています。肌は黄色で、皮膚病はなく、なめらかです。ジャワ語なまりのある上品なインドネシア語で、胸にある思いをすべて打ち明けようとしました。彼女はスマランのソンボク出身で、「スリ・スラストリ」と名乗りました。偶然にも、私もスマラン出身です。彼女は涙が流れ出るのを詫びながら、心情を吐露しました。
「あなたが(ジャワ島へ)お戻りの際には、どうぞこの私をごいっしょさせてください。あなたが私をここから連れ出してくれるよう、心から願っております。私は長いあいだ苦しみを受け続けてきました。この状況からどうすれば抜け出せるのか、私にはわかりません」
これまでの人生について、スラストリは「それは長い話になります」と前置きして、次のように話してくれました。
1944年、彼女はまだ14歳のときのことです。勉強を続けるため東京に送ってやると日本軍が約束し、日本兵が彼女を親元から連れ去りました。両親は当初、この「甘い約束」を断り続けましたが、日本軍は、この拒否を「テンノーヘーカ(天皇陛下)に楯突くのと同じ行為だ」と言って両親を脅しました。反逆にも似たこの行為への罪は重く、恐ろしくなった両親は泣く泣く「留学」に同意、娘を日本軍に渡し、娘と両親は離ればなれとなります。
「1945年の初め、日本兵をもてなす軍酒場であらゆる下品な仕打ちと裏切りを受けた後、228人が船に乗せられ、ある島に連れて行かれました。その島がブル島と呼ばれていると知ったのはしばらくしてからです。22人がスマラン出身でした。
日本軍が敗れると、少女たちは何の手当も与えられないまま、放り出されました。生活の糧は自分たちで見つけねばなりません。スラストリは地元の村に入り、村民と共に生活する道を選びます。青春時代は無残に過ぎ去りました。また、未開で、なかば放浪生活を送る狩猟民族のアルフル人のなかで暮らすうちに、いつしか文化を失ってしまいます。彼女は地元男性の所有物となり、同時にグヌン・ビルビル地区のある村の所有物ともなりました。
この村を率いたのはタマ一族で、一帯は茂った樹木で被われた、昼なお暗い地域です。この地区にあるティナ・ダラ川へ行くのは生やさしいことではなく、細い道を歩き、いくつもの山や深い谷を越えねばなりません。その山々はブル島を南北に分ける境界をなしており、ティナ・ダラ川一帯に住む山岳民族は、まだ粗暴さを残していました。
「夫は私が見知らぬ者と話すのを、一度も許してくれませんでした。夫がわからぬ言葉を使うとなれば、なおさらです。夫は疑い深い性格で、ジャワ人がこの島に大勢来てからは、猜疑心がさらに強まり、私は自由に動くこともできません。ですから、あなたがジャワに帰るときが来たら、どうぞこの私をいっしょに連れて行ってください」
スラストリは両親の消息をまったく知らず、弟と妹がそれぞれ一人ずついると話しました。こうして話を続けていると、突然、手に槍を持ち、腰にナタを下げたアルフル人の男が現れました。ジャワ式に頭に布を被った男はスラストリの夫で、歯が黒光りしています。彼女は急に話を止め、足早に立ち去りましたが、その前に、次の日の昼もう一度ここに来ることを約束しました。
翌日、約束どおりに姿を見せたときも、彼女は「自由に話すことができない」と訴えました。2回目に会って聞いた内容で、とくに注目すべきことはありません。夫がふたたび姿を見せたため、彼女は大あわてで、畑を離れていこうとします。
この光景を見た私の仲間たちは、何とか夫を引きとめておこうと、立ち話をしていくよう誘いましたが、首を振って拒否の仕草を返されました。槍の鋭い先端を妻に向けるのが、答だったのです。とはいえ、仲間が袋から二箱のタバコを取り出し、空いているほうの手に差し出すと、夫は足を止めました。
「二箱ともあなたにあげます」
「タバコをくれるのか」
夫はそう言いながら何度もうなずいて、仲間に近づき、口元をゆるめ、黒光りする歯を見せました。
「ありがとう、失礼するよ」
この一件以来、スラストリは私たちの前に二度と姿を見せていません。
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http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です。「・・・」は段落全体の省略を「……」は、文の一部省略を示します。
日本軍に棄てられただけではなく、インドネシア政府からも何の支援も得られなかった彼女たちは、もし、プラムディヤとその仲間の聞き取り調査がなかったら、まさに歴史の闇に葬り去られる存在であった。下記は、「日本軍に棄てられた少女たち インドネシアの慰安婦悲話」プラムディヤ・アナンタ・トゥール著・山田道隆訳(コモンズ)から、少女たちを連行すために語られた「留学話」を中心とした第1章 と第2章の一部、そして、第5章の「日本軍に棄てられた少女」の一人”スラストリ”の証言の抜粋である。著者は、若者たちに対する手紙の形で、この「日本軍に棄てられた少女たち」の記述を進めているが、第11回福岡アジア文化賞を受けたノーベル賞候補作家であるという。
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はじめに
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1942年 ドイツ軍の戦術にならい、日本軍は東南アジア地域に電撃攻撃をかける。この結果、西欧諸国が支配していた同地域内の全植民地が大日本帝国軍の手中に落ちた。3月には、ジャワ島が日本軍に占領される。インドネシア諸島は日本陸・海軍の軍政下に置かれ、このうちジャワ、スマトラの両島は陸軍の管轄となった。
1943年 連合国側が東南アジア地域で大規模な反攻を開始したのに伴い、攻勢を続けていた日本軍は守勢にまわる。日本軍の対インドネシア民族主義運動への姿勢にも変化が生じ、その結果、民族主義者たちはジャワ、スマトラ両島で自らの宣伝活動を積極化させる機会を得た。東南アジアを占領していた日本軍と日本本土を結ぶ海路および空路の双方とも寸断されるなど、日本軍は困難に直面する。インドネシア国民はこの間、祖国防衛義勇軍(PETA)を通じて日本軍から軍事訓練を受けていた。PETAの兵士は連合国軍の攻撃から祖国を守るのが任務とされ、〔日本からの〕日本軍部隊が最前線へと送られていく。
海・空の交通網が断たれたため、日本軍は日本本土および中国、朝鮮半島から「慰安婦」を連れて来ることが困難となる。代わってインドネシアの少女たちが「性の奴隷」として最前線へ送られた。
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第1章 甘い約束』
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1942年3月から45年8月におよんだ日本の軍事占領時代に思春期を迎えたインドネシアの少女たちも、みなさんとちょうど同じでした。もし違いがあるとすれば、それは日常生活を取り巻く環境です。当時、生活は困難をきわめ、常に付きまとった頭痛の種は、着る物や食べ物をどうやって手に入れるかでした。わずか一皿分のご飯を得るために、一日中さまよい歩かねばなりませんでした。毎日、飢えで死んだ者が道端に、市場に、そして橋の下に放置されました。村々では農民が収穫期を迎えても農作業を許されず、村から離れた土地で強制労働に就かされます。こうした者のうち、75万人以上が二度と家族の元に戻りませんでした。故郷から遠く離れた地で、あるいは東南アジアの国や島々で、命を落としたからです。
都会では、生徒たちが学校で勉強できなくなり、その代わりに「タイソー(体操)」「キョーレン(教練)」「キンローホーシ(勤労奉仕)」を強制されました。しかも、食べる物もなく、空腹状態でやらねばなりません。体力を失って失神し、倒れる生徒が出ましたが、日本人の教官や団長たちは繰り返しピンタを加え、意識を取り戻させようとしました。
当時、薬局には薬はまったくなく、だれもが着のみ着のままの生活を送っていたことを忘れないでください。すべての階層の人たちが、物不足、空腹、貧困にあえぎ、手元にある物はすべて商人に売り尽くされました。貧困と飢餓のなかでは、商人だけがいい目をみたのです。そんなときに生まれた新しい言葉が「闇商売」。闇の商売で利益をむさぼった商人たちは、「闇商人」と呼ばれました。
こうした困難の状況のなかで、当時ジャワ島を占領して最高権力機構、つまり日本軍政監部からの「ささやき声」が聞こえてきます。それは、軍政監部がインドネシアの若い男女生徒たちを東京や昭南島(現在のシンガポール)への「留学」機会を与える、というものでした。ささやき声と表現したのは、それが明瞭な形では伝えられなかったからです。
私がこの留学話を最初に耳にしたのは、1943年、18歳のとき。ジャカルタのポス・ウタラ通りにあった同盟通信社でタイピストとして働き始めて、まだ1年も経たないころです。当時、私は午前中、ガルーダ通りにある成人学校で勉強しており、留学話は学校の友たちのあいだでも話題になりましたが、噂話にすぎないとして真剣に耳を傾ける者はいませんでした。しかし、日本軍政下にあっては、新聞などが活字の形で報じるニュースよりも、噂話のほうが真実味があったのです。
留学に関する話を活字の形で読んだことはありませんでした。私は、同盟通信社の編集部からまわってくるニュースをタイプで打っていましたが、この件をタイプで打った記憶はありません。タイピストはほかにも男女合わせて8人いましたが、誰一人として留学話をタイプで打った者はいません。
午前中は学校へ行き、夕方から仕事に就き、ときには夜遅くまで働いていたため、月刊誌さえ読む時間もなく、留学に関する噂話に関心を寄せる暇もありませんでした。実は、オランダ領東インド総督府が倒れたとき、私には日本で勉強してみたいという思いがありましたが、日本軍がインドネシアを軍事占領したことで、その思いは消え去ります。その後の占領下、日本軍の行為や態度を見るにつけ同調する気持ちは反抗心へと変わりました。このため、留学話には私だけでなく、学校の仲間たちも何の関心も示さないようになります。
この手紙を書いているのは、1979年の半ばで、私が噂話を聞いた43年といえば、もう35年以上もむかしです。当時、日本軍政監部の約束や政策が新聞などで公表されることはありませんでした。それゆえ、多くの人たちの記憶に助けられながら、みなさんに向けたこの手紙を書いています。留学の約束が、1943年にあったのは本当だったのでしょうか。
国営アンタラ通信スラバヤ支社の元責任者だったスリヨノ・ハディ氏(1929年生まれ)は、78年8月に行われた聞き取りに際して次のように話しています。
「兄が1943年に話してくれたところでは、日本軍政監部は娘をもつ両親に対して、娘の名前を、すみやかに登録するように命じました。娘たちを学校に入学させるため、というのが登録の理由だったそうです」
「(私が1943年から45年まで居住した中ジャワ州の)ウンガランでは、15歳から17歳までの少女5人が登録を終え、このうちの一人は兄の親友の娘さんでした。登録した5人はその後の手続きを進めるため、スマラン(中ジャワ州の中心都市)に連れていかれました」
「同盟通信社にほど近いジャカルタのパッサール・バルー地区にある女子実業学校では、「S・S・(シティ・スミナル)」という女子生徒が1943年に軍政監部に名前を登録し、同じ年にどこかへ連れて行かれたという話もあります。
スラバヤ(東ジャワ州都)のタンジュン・ペラック港の元造船工イマム氏(1931年生まれ)によると、少年や少女たちを乗せた船での輸送が43年に始まったといいます(証言=78年8月7日、ブル島)。
「私の実兄ユスフは当時18歳で、溶接工をしていたときに日本軍政監部の留学話を受け、シンガポールへ船で連れて行かれました。兄によると、船には多くの少女たちも乗っていましたが、船名や少女たちの人数は覚えていません。シンガポールに近づいたころ、魚雷が命中し、船は大破したそうです。兄は漁船に助けられて無事でしたが、『少女たちは全員死亡しただろう』と話していました。兄は恐怖心もあってシンガポールにそのままとどまり、帰国したのはインドネシア独立後でした」
日本軍の占領時代には、そうした事件が公表されることはありません。日本軍政監部は自らに都合の悪いニュースや失敗例などを知られるのを恐れていたからです。同盟通信社から150メートル離れたところにあった日本映画社が、火災に遭い、死者が出たときも、一行たりとも報じられませんでした。この火事では焼死者が出て、うち2人は私(プラムディヤ)の家の隣に住んでいた母子でした。
留学話の件では、ほかにも何人かが1943年に聞いたと証言しています。ハルン・ロシディ氏はこの件で資料を集め、そのなかにカスミンテ、マリバ両氏から得た話も含まれています。(カスミンテ氏の証言=74年、ブル島)
「1955年、私はチルボン(西ジャワ州)の高校3年生で、21歳でした。アブドゥラという名の化学・生物担当の教師が授業中に、日本軍占領時代の体験を話してくれたのを、いまでも覚えています。先生によると、占領時代、チルボンに駐留していた日本兵たちは女子生徒を次々に乱暴し、なかには両親が知らぬあいだに、あるいは承諾もなしに連れ去られた者もいたそうです。日本兵の乱暴な行為は、43年以降、日本軍が連合軍に降伏するまで続きました。少女たちが連れ去られた場所や人数はわかっていません。先生の実の妹も43年に連れ去られた犠牲者の一人で、妹さんの消息はまったく不明のままだったそうです。先生が妹さんをどんなに愛していたか、その表情からわかりました。話をしながら、先生はときおり涙を流し、声をつまらせながら、こみ上げる悲しみに必死に耐えようとしていました。妹さんの行方不明事件がきっかけとなり、激しい怒りに燃えた先生は反ファシズムの地下抵抗運動に参加したそうです」
同級生だったマリバ氏も、カスミンテ氏の話が間違いないことをロシディ氏に確認しました。
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みなさんに向けたこの手紙を書くに際して、(日本軍の行為を示す)確実な証拠となる資料や印刷物は手元にないので、書く内容はすべて第三者の記憶や体験をもとにしました。それでも、日本軍による「留学話」が1943年に出始め、少女たちの最初のグループがジャワ島を出発したのは、ほぼ間違いない事実だと考えています。
そこで、次の疑問が出てきます。留学話が新聞や印刷物の形で告知されなかったとしたら、この話は住民のあいだにどのようにして広まったのでしょう。
答は簡単、口コミ。それも、権力を伴う口コミです。担当したのは軍政監部の宣伝部。オランダ統治時代に権力をもっていた行政官に代わって、日本軍政下に強大な権力をもった部署でした。宣伝部は行政官に指示や提案を出し、その指示はさらに県長から郡長、村長、区長、そして最終的には、住民へと伝えられていきます。情報が村々に届くまでには時間差がありましたが、すべての口頭の伝達で、常に憲兵隊と軍政監部当局者の監視下で行われました。当時の行政機構は専制的で、日本の占領軍が完全に押さえていたのです。
犠牲者の一人、スミヤティさんは聞き取り調査を行ったスカルノ・マルトディハルジョ氏に、留学話に関して次のように証言しています。(1978年)
「日本政府は将来のインドネシア独立という目標を掲げ、その準備のため、インドネシアの若者たちに自立達成へ向けた教育の機会を与えるという話でした。私がこの約束を聞いたのは1944年で、43年ではありません。掲示された教育の機会は土地によって分野が異なり、助産婦教育もあれば、看護婦教育のところもあります。対象にされたのは13~17歳の少女で、その多くは小学校を終えたばかりだったので、相違はあっても当然だと思いました」
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少女たちはいったん日本の魔の手に落ちてしまうと、そこから抜け出すのは困難でした。ジャワ島上陸以来、日本軍政監部はオランダ領東インド時代にあった「通行・住民証明書」制度を復活させます。オランダ領時代にはこの証明書の適用対象者は中国系住民のみでしたが、日本の占領下では全住民に適用され、どの住民も所持しなければなりません。また、居住区外に出るときには、特別の証明書を必要としました。自宅以外で宿泊する際には、その土地の役人に届けでなければなりません。全村に「トナリグミ(隣組)」制度が設けられ、これが住民監視網になっていきます。
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ジュキ氏(1929年生まれ)が78年7月、ハルン・ロシディ氏に語ったところによると、西ジャワ州インドラマユのハウルグリスで、近所に住んでいた理容師が日本軍の約束を信じ、美人だった娘の留学に同意しました。日本兵に連れて行かれた娘の消息はその後ぷっつり切れ、親が懸命に行方を捜しましたが、二度と会うことはできませんでした。
別の例をあげましょう。以下は、スワディ・ハディスワルノ氏(1933年生まれ、ジョグジャカルタ・シガディウィナタン生まれ)が78年7月31日に、ロシディ氏に語った内容です。
ハディスワルノ氏は、親が日本軍政下で村の「組長」を務めていたことから、村の少女3人が東京で勉強するため、出発したことを覚えていました。このうち1人は父親といっしょに村を出たそうです。父親は「ロームシャ(労務者)」としてビルマ(ミャンマー)に向かい、日本軍の降伏後46年に自力でボルネオ(現在のカリマンタン)島の東カリマンタン州サマリンダを経てジョグジャカルタに戻れましたが、娘の消息は不明のままでした。この父親は娘の東京行きを進んで認めたわけではありません。
これまであげてきた例から、この時点で次のように要約できます。
第1、日本軍政監部が約束した東京や昭南島への留学話は官報など公式な形で発表されず、悪行を追及されないよう、日本軍は意図的に「犯行」の跡を消していた。
第2、少女たちが故郷そして親元を離れ、危険の伴う航海を決意したのは、自分からそう望んだのでは決してなく、軍政の脅しを怖れた親がそうさせたためである。
第3、日本軍が成人前の少女を対象としたのは、兵士たちの欲望を満たすためのほか、少女であれば反抗する力もないと考えたからだった。
さて、私がこの手紙を書いたのは、少女たちが日本軍政下で、厳しい運命に見舞われたことを、若いみなさんに知ってもらうためのほか、同じような悲運が少女たちと同年齢のみなさんにも降りかかる危険性があることをわかってもらうためです。この手紙はまだ終わりではありません。これからの章に、みなさんに知ってもらいたいことが記されています。
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第2章 公然の秘密
これまで見てきたように、ジャワ島を支配した日本軍政監部は1943年、宣伝部を通じて、少女たちに東京や昭南島での留学機会を約束し、日本軍はこれに従った少女たちを船で運びました。しかし、船での輸送が何回あったのか、また、ジャワ島占領が終わりを告げた日本軍降伏までのあいだに、どれだけの人数の少女たちが船で運ばれたのか、知るものはいません。日本側がこうした数字を公表することは今後もないでしょう。日本軍政はこの行為の当初から、留学機会の公表を避けるなど、証拠を残さぬようにしていました。みなさんがくわしい資料を掘り起こすよう努力をしてください。
先進諸国の人びとなら、人道に反する行為が起これば、たとえそれが何千キロ離れた土地や他国民のあいだであったとしても、わが身に起きたことのように感じるはずです。同様の行為が自国民の身に起きたならなおのこと、抗議運動があっても一向に不思議ではありません。さらに、同じ意見や考え方をもつ者たちと協力して組織をつくり、非人道的行為の停止を求めるのも当然です。少女たちの悲運からすでに数十年も経過しました。みなさんにあてたこの手紙は、少女たちのために何もなされていないことへの抗議の意味も含んでいます。
私が集めた資料だけではまだまだ不充分ですが、将来、みなさんの努力で、より信憑性のある新たな資料が発掘され、日本軍の蛮行が白日の下に晒されるよう願っています。…
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第5章 ブル島に棄てられた少女たち
消えぬ望郷の念
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以下は、スティクノ氏がブル島に住んでいた女性たちと、すなわち「棄てられた少女たち」の一人と思わぬ出会いをしたときの記述です。
1973年のある朝、ワナスリヤ定住区の畑に、一人の女性が姿を見せました。背が高く痩せており、地元アルフル人の女性とは様子が違っています。肌は黄色で、皮膚病はなく、なめらかです。ジャワ語なまりのある上品なインドネシア語で、胸にある思いをすべて打ち明けようとしました。彼女はスマランのソンボク出身で、「スリ・スラストリ」と名乗りました。偶然にも、私もスマラン出身です。彼女は涙が流れ出るのを詫びながら、心情を吐露しました。
「あなたが(ジャワ島へ)お戻りの際には、どうぞこの私をごいっしょさせてください。あなたが私をここから連れ出してくれるよう、心から願っております。私は長いあいだ苦しみを受け続けてきました。この状況からどうすれば抜け出せるのか、私にはわかりません」
これまでの人生について、スラストリは「それは長い話になります」と前置きして、次のように話してくれました。
1944年、彼女はまだ14歳のときのことです。勉強を続けるため東京に送ってやると日本軍が約束し、日本兵が彼女を親元から連れ去りました。両親は当初、この「甘い約束」を断り続けましたが、日本軍は、この拒否を「テンノーヘーカ(天皇陛下)に楯突くのと同じ行為だ」と言って両親を脅しました。反逆にも似たこの行為への罪は重く、恐ろしくなった両親は泣く泣く「留学」に同意、娘を日本軍に渡し、娘と両親は離ればなれとなります。
「1945年の初め、日本兵をもてなす軍酒場であらゆる下品な仕打ちと裏切りを受けた後、228人が船に乗せられ、ある島に連れて行かれました。その島がブル島と呼ばれていると知ったのはしばらくしてからです。22人がスマラン出身でした。
日本軍が敗れると、少女たちは何の手当も与えられないまま、放り出されました。生活の糧は自分たちで見つけねばなりません。スラストリは地元の村に入り、村民と共に生活する道を選びます。青春時代は無残に過ぎ去りました。また、未開で、なかば放浪生活を送る狩猟民族のアルフル人のなかで暮らすうちに、いつしか文化を失ってしまいます。彼女は地元男性の所有物となり、同時にグヌン・ビルビル地区のある村の所有物ともなりました。
この村を率いたのはタマ一族で、一帯は茂った樹木で被われた、昼なお暗い地域です。この地区にあるティナ・ダラ川へ行くのは生やさしいことではなく、細い道を歩き、いくつもの山や深い谷を越えねばなりません。その山々はブル島を南北に分ける境界をなしており、ティナ・ダラ川一帯に住む山岳民族は、まだ粗暴さを残していました。
「夫は私が見知らぬ者と話すのを、一度も許してくれませんでした。夫がわからぬ言葉を使うとなれば、なおさらです。夫は疑い深い性格で、ジャワ人がこの島に大勢来てからは、猜疑心がさらに強まり、私は自由に動くこともできません。ですから、あなたがジャワに帰るときが来たら、どうぞこの私をいっしょに連れて行ってください」
スラストリは両親の消息をまったく知らず、弟と妹がそれぞれ一人ずついると話しました。こうして話を続けていると、突然、手に槍を持ち、腰にナタを下げたアルフル人の男が現れました。ジャワ式に頭に布を被った男はスラストリの夫で、歯が黒光りしています。彼女は急に話を止め、足早に立ち去りましたが、その前に、次の日の昼もう一度ここに来ることを約束しました。
翌日、約束どおりに姿を見せたときも、彼女は「自由に話すことができない」と訴えました。2回目に会って聞いた内容で、とくに注目すべきことはありません。夫がふたたび姿を見せたため、彼女は大あわてで、畑を離れていこうとします。
この光景を見た私の仲間たちは、何とか夫を引きとめておこうと、立ち話をしていくよう誘いましたが、首を振って拒否の仕草を返されました。槍の鋭い先端を妻に向けるのが、答だったのです。とはいえ、仲間が袋から二箱のタバコを取り出し、空いているほうの手に差し出すと、夫は足を止めました。
「二箱ともあなたにあげます」
「タバコをくれるのか」
夫はそう言いながら何度もうなずいて、仲間に近づき、口元をゆるめ、黒光りする歯を見せました。
「ありがとう、失礼するよ」
この一件以来、スラストリは私たちの前に二度と姿を見せていません。
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