国民党政府が臨時首都を置いた重慶をにらむ要衝の宜昌(重慶爆撃の中継基地)は、日本軍第13師団が守備していたが、主力部隊が湖南省長沙への攻撃で手薄になったところへ、守備する日本軍に数倍する大兵力で、国民政府軍が奪回の攻撃に出た。1941年10月のことである。
宜昌の周囲60余りの拠点を占領され、完全に包囲されて危機的状況に陥った第13師団の師団本部は、「通常弾とともに、ありったけのガス弾を撃て」と隷下の部隊に命じ、何とか危機を脱したのである。それに関連する記述が、例証集(ワシントンの米国立公文書館にある国際検察局文書のなかから粟屋憲太郎教授が発見した陸軍習志野学校案「支那事変ニ於ケル化学戦例証集」)に残されているという。
下記は、その宜昌攻防戦に関係する部分と、米国記者の証言の部分を『隠されてきた「ヒロシマ」毒ガス島からの告発』辰巳知司著(日本評論社)から抜粋したものである。
中国の紀学仁教授によると、攻撃主力の2つの師団だけで1600人以上が被毒し、うち600人が死んだとのことである。防毒マスクなどの防護器材がなかったために、あと一歩のところで撤退を余儀なくされたという。
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第2章 宜昌攻防戦
米国記者の証言
日本軍の毒ガス戦のなかで、最大規模といわれる戦闘のひとつに1941(昭和16)年に起きた宜昌攻防戦がある。
湖北省・宜昌は、揚子江で結ばれた華中の都市武漢と国民党政府が臨時首都を於いた重慶の中間点にある要衝で、揚子江沿いの港を中心に市街地が広がり、揚子江を背に三方が丘陵で囲まれた町である。現在では揚子江下りの観光名所「三峡」の大渓谷を形成する大巴山脈の入り口としても知られている。
藤原彰・元一橋大学教授の『昭和天皇の15年戦争』(青木書店、1991年)によると、日本軍は大本営の命令により、1940(昭和15)年6月中旬、宜昌を占領し、その後、重慶に対する大規模な戦略爆撃の計画が持ち上がると、昭和天皇の意向もあり、重慶爆撃の中継地点として宜昌を再占領し、以降、陸軍第13師団が駐留した。
宜昌の市街地近くで大規模な毒ガス戦が実施されたのは、第13師団の主力部隊が湖南省長沙への攻撃に加わり、宜昌が手薄になったところへ、中国国民党第6戦区が反転攻勢に出たことがきっかけであった。
例証集でも、この戦闘について「きい弾及あか弾ヲ稍々大規模ニ使用シ優勢ナル敵ノ包囲攻撃ヲ頓挫セシメタル例」として取り上げ、戦闘のもようを生々しく伝えている。それによると、毒ガス戦は10月7日から11日まで実施され、きい弾1000発、あか弾1500発が使われた。例証集では実施年は書かれていないが、別の資料や証言により1941(昭和16)年の出来事であることは間違いない。気象は、10月7日から9日までは晴れ、北西の風1メートル、10日、11日は曇り、北東の風1.5メートル。この毒ガス戦の結果、「敵ノ攻撃企図ヲ挫折シタルノミナラズ密偵報其ノ他諸情報ヲ総合スルニ瓦斯ノ効果ハ大ナリシモノノ如シ」と、効果が極めて大きかったことを記している。
例証集はさらに、この戦闘からの教訓として ①毒ガスと通常火力の併用が肝要 ②遠距離にきい弾、近距離にあか弾を使用すると効果的──の2点を挙げた。
このように、例証集では宜昌での毒ガス戦を成功例として伝えているが、日本軍の戦闘が成功し、規模が大きくなればなるほど、犠牲も増大する。宜昌の毒ガス戦を、攻撃された側から、第3国の立場で取材・証言していた人がいた。米国INS(インターナショナル・ニュースサービス)通信社のJ・ベルデン記者である。
・・・
そしてベルデン記者は10月12日、野戦病院で毒ガスによって殺されたという2人の死体を見たもようを証言している。体は茶色、赤色、黒色の斑点で覆われている、皮膚組織は破壊されているように見えた。外傷はなかった。
翌日の10月13日、ベルデン記者は司令部で被毒した2人の中国人兵士と会った。以下は証言記録の原文翻訳である。
「2人とも身体に非常に悪い火ぶくれの徴候がでていた。火ぶくれのいくつかは、手のつめぐらいの大きさで、他のいくつかはテニス・ボール大だった。いくつかは、皮膚がピンと張った状態でふくれあがって硬くなっており、いくつかは、身体からぐにゃりと垂れ下がり、身体が動く度にある種の液体が火ぶくれの内側で動いて、それを揺り動かしていた。火ぶくれができた部分の皮膚は、非常に白く見え、その縁はやや黄色がかって、しわがよっていた。2人にとってより危険なことは、火ぶくれが両腕・両足・腹部それに最もひどいものが背中にあることだった。1人の顔には火ぶくれが破れたところに大きな赤色・黒色・こげ茶色の斑点があらわれていた。小隊副長のこの男は非常な痛みを訴え、私たちが背中の大きな火ぶくれを見ることができるようにするために座るとき、注意して起き上がらなくてはならなかった。彼は全く食欲がなく、頭痛と熱を訴えた。
彼は、宜昌市の外側にある飛行場を見おろせる高台である東山寺付近を攻撃中に負傷した、と私に語った。日本軍は頑強に抗戦したが 、日本軍の機関銃が激しくなり攻撃が止まるまで、時々攻撃が繰り返され、大隊長はその位置を死守するように命令した。集団はその地点に一昼夜とどまり、10月8日、日本軍はガス弾を撃った。その地区の26人のうち、8人が生きて救出された。ガス攻撃の間、多くの者が視力を失い、幾人かが咳き込み、幾人かはしゃべれなくなった。一人の分隊長は呼吸ができなかった。最初、彼は自分の症状を真剣に考えなかった。彼の目はひりひりと痛み、傷つき、彼は少し泣いた。1時間半後、皮膚がかゆくなり、25分後、身体は火ぶくれができはじめ、大層痛みだした。2時間後、無感覚で半分意識喪失の半まひ状態になった。彼は、約6時間後、自分の手足を正常に動かすことができなかった、といった。
何が一番痛かったかと言うと、火ぶくれの中の液体が動くことが一番痛かった、と彼はいった。ガスに対して、中国軍兵士は何ができたか、と聞くと、『そこにとどまって死ぬ以外なにもできないよ』と彼は答えた。」
米陸軍参謀第2部は、ベルデン記者の証言や中国戦線から回収した不発弾の内容の調査結果などの証拠から日本軍の毒ガス使用を確認。米軍記録「中国における日本の毒ガス使用」のなかで、「日本軍は必要な時、利益があると判断した時は、間違いなくいつでもどこでもガスを使うだろう」と結論づけた。
また、中国人民解放軍の内部研究書「化学戦史」は、この戦闘で1600人あまりが被毒し、うち約600人が死亡した、と記述している。
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宜昌の周囲60余りの拠点を占領され、完全に包囲されて危機的状況に陥った第13師団の師団本部は、「通常弾とともに、ありったけのガス弾を撃て」と隷下の部隊に命じ、何とか危機を脱したのである。それに関連する記述が、例証集(ワシントンの米国立公文書館にある国際検察局文書のなかから粟屋憲太郎教授が発見した陸軍習志野学校案「支那事変ニ於ケル化学戦例証集」)に残されているという。
下記は、その宜昌攻防戦に関係する部分と、米国記者の証言の部分を『隠されてきた「ヒロシマ」毒ガス島からの告発』辰巳知司著(日本評論社)から抜粋したものである。
中国の紀学仁教授によると、攻撃主力の2つの師団だけで1600人以上が被毒し、うち600人が死んだとのことである。防毒マスクなどの防護器材がなかったために、あと一歩のところで撤退を余儀なくされたという。
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第2章 宜昌攻防戦
米国記者の証言
日本軍の毒ガス戦のなかで、最大規模といわれる戦闘のひとつに1941(昭和16)年に起きた宜昌攻防戦がある。
湖北省・宜昌は、揚子江で結ばれた華中の都市武漢と国民党政府が臨時首都を於いた重慶の中間点にある要衝で、揚子江沿いの港を中心に市街地が広がり、揚子江を背に三方が丘陵で囲まれた町である。現在では揚子江下りの観光名所「三峡」の大渓谷を形成する大巴山脈の入り口としても知られている。
藤原彰・元一橋大学教授の『昭和天皇の15年戦争』(青木書店、1991年)によると、日本軍は大本営の命令により、1940(昭和15)年6月中旬、宜昌を占領し、その後、重慶に対する大規模な戦略爆撃の計画が持ち上がると、昭和天皇の意向もあり、重慶爆撃の中継地点として宜昌を再占領し、以降、陸軍第13師団が駐留した。
宜昌の市街地近くで大規模な毒ガス戦が実施されたのは、第13師団の主力部隊が湖南省長沙への攻撃に加わり、宜昌が手薄になったところへ、中国国民党第6戦区が反転攻勢に出たことがきっかけであった。
例証集でも、この戦闘について「きい弾及あか弾ヲ稍々大規模ニ使用シ優勢ナル敵ノ包囲攻撃ヲ頓挫セシメタル例」として取り上げ、戦闘のもようを生々しく伝えている。それによると、毒ガス戦は10月7日から11日まで実施され、きい弾1000発、あか弾1500発が使われた。例証集では実施年は書かれていないが、別の資料や証言により1941(昭和16)年の出来事であることは間違いない。気象は、10月7日から9日までは晴れ、北西の風1メートル、10日、11日は曇り、北東の風1.5メートル。この毒ガス戦の結果、「敵ノ攻撃企図ヲ挫折シタルノミナラズ密偵報其ノ他諸情報ヲ総合スルニ瓦斯ノ効果ハ大ナリシモノノ如シ」と、効果が極めて大きかったことを記している。
例証集はさらに、この戦闘からの教訓として ①毒ガスと通常火力の併用が肝要 ②遠距離にきい弾、近距離にあか弾を使用すると効果的──の2点を挙げた。
このように、例証集では宜昌での毒ガス戦を成功例として伝えているが、日本軍の戦闘が成功し、規模が大きくなればなるほど、犠牲も増大する。宜昌の毒ガス戦を、攻撃された側から、第3国の立場で取材・証言していた人がいた。米国INS(インターナショナル・ニュースサービス)通信社のJ・ベルデン記者である。
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そしてベルデン記者は10月12日、野戦病院で毒ガスによって殺されたという2人の死体を見たもようを証言している。体は茶色、赤色、黒色の斑点で覆われている、皮膚組織は破壊されているように見えた。外傷はなかった。
翌日の10月13日、ベルデン記者は司令部で被毒した2人の中国人兵士と会った。以下は証言記録の原文翻訳である。
「2人とも身体に非常に悪い火ぶくれの徴候がでていた。火ぶくれのいくつかは、手のつめぐらいの大きさで、他のいくつかはテニス・ボール大だった。いくつかは、皮膚がピンと張った状態でふくれあがって硬くなっており、いくつかは、身体からぐにゃりと垂れ下がり、身体が動く度にある種の液体が火ぶくれの内側で動いて、それを揺り動かしていた。火ぶくれができた部分の皮膚は、非常に白く見え、その縁はやや黄色がかって、しわがよっていた。2人にとってより危険なことは、火ぶくれが両腕・両足・腹部それに最もひどいものが背中にあることだった。1人の顔には火ぶくれが破れたところに大きな赤色・黒色・こげ茶色の斑点があらわれていた。小隊副長のこの男は非常な痛みを訴え、私たちが背中の大きな火ぶくれを見ることができるようにするために座るとき、注意して起き上がらなくてはならなかった。彼は全く食欲がなく、頭痛と熱を訴えた。
彼は、宜昌市の外側にある飛行場を見おろせる高台である東山寺付近を攻撃中に負傷した、と私に語った。日本軍は頑強に抗戦したが 、日本軍の機関銃が激しくなり攻撃が止まるまで、時々攻撃が繰り返され、大隊長はその位置を死守するように命令した。集団はその地点に一昼夜とどまり、10月8日、日本軍はガス弾を撃った。その地区の26人のうち、8人が生きて救出された。ガス攻撃の間、多くの者が視力を失い、幾人かが咳き込み、幾人かはしゃべれなくなった。一人の分隊長は呼吸ができなかった。最初、彼は自分の症状を真剣に考えなかった。彼の目はひりひりと痛み、傷つき、彼は少し泣いた。1時間半後、皮膚がかゆくなり、25分後、身体は火ぶくれができはじめ、大層痛みだした。2時間後、無感覚で半分意識喪失の半まひ状態になった。彼は、約6時間後、自分の手足を正常に動かすことができなかった、といった。
何が一番痛かったかと言うと、火ぶくれの中の液体が動くことが一番痛かった、と彼はいった。ガスに対して、中国軍兵士は何ができたか、と聞くと、『そこにとどまって死ぬ以外なにもできないよ』と彼は答えた。」
米陸軍参謀第2部は、ベルデン記者の証言や中国戦線から回収した不発弾の内容の調査結果などの証拠から日本軍の毒ガス使用を確認。米軍記録「中国における日本の毒ガス使用」のなかで、「日本軍は必要な時、利益があると判断した時は、間違いなくいつでもどこでもガスを使うだろう」と結論づけた。
また、中国人民解放軍の内部研究書「化学戦史」は、この戦闘で1600人あまりが被毒し、うち約600人が死亡した、と記述している。
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です。赤字は特に記憶したい部分です。「・・・」は、段落全体の省略を「……」は、文の一部省略を示します。