goo

覚え書き10

あれからちょうど1週間。
先週、気仙沼で2日間だけガレキ撤去のボランティアをし、翌日8日静岡に帰宅した。
今までと全く変わらない自宅での平穏な暮らし。1週間ぶりで庭の木々が緑色濃く輝いている。
初めて被災現場に足を踏み入れた時は「これ夢か?」と思ったけど、実はこの平穏な暮らしの方が夢に近いのかもしれない。
津波被災現場と、無事な地域と、あまりにも大きいギャップ。
あの被災現場では、何もかも無くした人、いまだ行方不明の人、一面ガレキの景色を毎日眺めて暮らしている人が多数いるというのに。こんな平和に普通に何事も無かったように暮らしていていいのかな。
戸惑いの気持ちが今でも胸にある。

気仙沼市南部、大谷海岸。
郷里仙台を離れてから、宮城県も町村合併が進んだ。宮城を離れて久しい私にとっては「本吉郡本吉町大谷海岸」の方がなじみが深い。ちなみに南三陸町も合併して新しく出来た町名なので、端的に「志津川」の方が分かりやすい。以前、遠藤周作(好きな作家)の関係で訪れた隠れキリシタンの里、東和町もいつの間にか南三陸町になっていた。

大谷海岸は電車の大谷海岸駅を降りるとすぐ目の前が海水浴場になっている。その駅に続く線路も、まるでミニチュア鉄道模型の線路を指でつまみあげたかのように、ひっくり返ったりくずれたりしていた。駅のすぐ横にある道の駅大谷海岸の建物は外観が残っていたが1階部分と窓ガラスは破砕。仮店舗で産直とラーメンの営業してて、お祭りの時に見かけるような仮設トイレが設置されていた。
ちなみに今回、沿岸地域に足を踏み入れるにあたって心配の種のひとつはトイレであった。いまだ水道が復旧していない地域、沿岸に近い場所の道の駅や公園などの公衆トイレは使えるのだろうか。スーパーやコンビニで買い物してトイレを借りる、と言ってもそもそもお店は営業しているのだろうか。
極力「キジ打ち」で現地を汚すことは避けたい。最悪の場合「ジップロック活用」の覚悟であった。が、とりあえず今回車中泊した道の駅林林館と道の駅米山のトイレは普通に使えた。ただ、林林館の女子トイレは通常であったが、男子トイレは大の方が故障していたようだ。早朝から自衛隊の人達がたくさん立ち寄っていたが車椅子用のトイレに並んでいた男性の方が多かった。そういえば数年前、新潟中越地震の少し後に新潟の道の駅を通った時に、たまたま道の駅のトイレ掃除担当の方と話した。地震直後は水道が止まり、道の駅に用を足す人が殺到してトイレが大変なことになり、その掃除が言葉で言えないほど大変だったという。
いざという時のトイレ問題は切実な課題。山登りする人はトイレ袋を持ち歩く。
今回は訪れた避難所の小学校、体育館、大谷中学校、すべて仮設トイレが設置されていた。

津波をかぶった田んぼのガレキ撤去作業。そのボランティア募集は、同行した南三陸町でのジャズピアニカコンサートをコーディネートされてたNPO法人の方に教えて頂いて知った。これって1日とか2日だけでもいいですか?いいです。女でも出来ますか?出来ます。
でも果たしてお役に立てるのだろうか、邪魔にならないだろうか、足を引っ張るだけではないだろうか・・・未経験の被災地ボランティア。でもやっぱり参加を決めた。
今回初めて南三陸町の現場に足を踏み入れた時、トンカチで頭をガンと殴られたようなショックを受けた。でも、いつでもどこでも初めて体験することは必要なのだ。やったことのないことに取り組んで、例え相手に迷惑をかけようとも。

結論として言えば。
たった二日だけ。中年女子の非力な力での肉体労働。それでも参加して良かったと心から思う。
今回の自分のボランティア作業を、静岡における何かに例えて言うなら、富士山頂上までの長い長い登山道のうちのたった1mをきれいに掃除して整えて、という作業だろうか。
たった1m。登山者が1、2歩、歩を進めればそれで終わり。だから何?
でも、1mきれいにする人が50人集まれば?50人が何日も作業を続ければどうなるか?
「人手」「労働力」「人海戦術」
そのすごさを今回のボランティア作業に参加して目の当たりにした。

と同時に私は、微力だけど現場でボランティア作業してお役に立った、というよりも
実はものすごく自分にとって意義のあることに加担させて頂いたという気がする。
帰宅してから、同じ現場で作業した他のボランティアさんの報告ブログを拝見してその気持ちが一層強くなった。
コメント ( 0 ) | Trackback ( )
« ぎうぎう・・・ 覚え書き11 »
 
コメント
 
コメントはありません。
コメントを投稿する
ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。