無意識日記
宇多田光 word:i_
 



前回の日記でおわかりの様に筆者はアイアン・メイデンの新譜が発売されてめっちゃテンションが上がっている(と書いてる時の顔は白けまくりの無表情なんですがね)。何しろ、今まで生きてきた中でいちばん沢山聴いた"音"は、自分の声を除けば1番がスティーヴ・ハリスのベース音、2番がデイヴ・マーレイのギター音という人間だ。そりゃテンションが上がらない方がおかしい。来年4月に来日となると8年ぶりだそうだが、あれ、10年ぶりじゃなかったっけ、まぁいい、兎に角それくらいぶりにLIVE観てないんだけどどこ吹く風である。久しぶりという感じはしない。何でだかよくわからないが、LIVEを観ようが観まいが"熱"が変わらないからだろう。彼らが引退しても、その熱量が衰えるとも思えない。

全部が全部ではないが、アベレージと較べれば幾らか"長持ちするコンテンツ"に敏感な私だ。コミックスを買い始めた漫画がどれも軒並み長期連載でどんどん困っていったりした。アイアン・メイデンも「最終的には彼らが勝つだろう」と思っていた。今年のクリスマスで彼らも結成40周年である。あと10年やってくれれば万々歳だが、後は体力勝負なだけなのでいつ引退して貰っても構わない。今までの業績が素晴らしすぎる。分厚すぎるから。最後はブルースの操縦する飛行機が、というのが誰しも一度は夢想して振り払う最期だが、もうそうやって伝説になっても似合うだろうな。望んじゃいないが。

という訳で長持ちコンテンツには鼻が利く私だが、ヒカルに関しては本当にさっぱりわからない。いつ終わるのかずっと続くのか。もともと、ヒカルのメンタリティーに何十年というタームが見当たらない。アイアン・メイデンに関しては、音楽性と制作に対する態度そのものが時間を要するものでありかつ結果を出し続けられるコンセプトを持っていたので「50年は生産的で居られるだろう」と予想はついた。まぁ、それは付帯的な事に過ぎなくて、実際はただ好きでついてきただけなのだが、そう問われれば予兆はあった、と答えられる。

ならば、実はヒカルも40年50年と生産的でいられるタイプなのか私がこれだけ入れ込んでいるという事は?

うむ、わからん。全く予兆もない。

そもそも「いきあたりばったり」を是とする家風である。信念とか奉仕とか誠実とかとは距離がある。刹那的とは言わないが、あまり未来を想定しないタイプなので何がどうなるやらさっぱりわからない、というのが本音。

正直、本来ならこのタイプは追い掛けない筈なのだ私。やり始めるからには10年20年と、苦しい時も楽しい時も共に行く覚悟を持つのが愛というものだから。あぁ、わかった、この言い方がわかりやすい、たかだか三年半で離婚するような結婚をするタイプは趣味じゃないんだ私。いやはや、今結婚してこどもが居て幸せだから書けるフレーズなんだけど。

ふむ、そういうことか。そういうことだな。

責めてる訳でもないし非難する気もない。うまくいかなくなったんなら別れればいいじゃない、こどもも居ないんだし、と、相談されたら私も答えるだろうし。特にネガティヴな感情を抱く訳じゃない。ただ、趣味じゃないんだ。

これは、もしかしたらただの結婚観の違いかもしれない。わざわざ入籍なんて面倒な事するんなら粘るわなと。第一、結婚式とかして周囲に末永く幸せに暮らしますと言っておきながら別れるのは何なんだというか。そう、私は酷く面倒くさがりなのだ。なんでそこまでしといて、と思ってしまう。同棲でいいじゃん、と。

結婚観の違いは、親が6回結婚と離婚を繰り返してる時点で決定的なのかもしれんしな。これは、答えの無い問いである。

まぁだから、ヒカルが「私はもう音楽と結婚しているから。」と仮に言ったとしても、四年も経てばやめるかもしれないと私は捉える。信じる信じないは別として。そして、理想と現実は違うし、うまくいかなくなったらさっさとやめるべきだと思いつつも「永く続けるもの」の比喩表現として結婚生活以上のものはなかなか思い当たらない。少なくともこどもが成人するまで別れない"つもり"で始めるものだから。まぁ、ただの"喩え話"でしたな。

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先々週発売されたBURRN!10月号にブルース・ディッキンソンのインタビューが載っているのだが、凄絶。癌との戦いが如何に過酷だったのかが如実に伝わってくる。何より、本人がどこまでいっても軽妙でユーモラスな口調で語っているものだから余計に、だ。闘病記というとどうしても暗く重くなりがちだが彼は新しい宿題を出された学生みたいにノリノリで幾多襲い掛かる苦難に立ち向かってゆく。今年頭から始まった闘病生活の挙げ句彼は来年2016年からツアーに出るという。彼、ブルース・ディッキンソンがツアーに出るというのは(もう随分有名になった事かと思うが)尋常な意味ではない。何しろ、大所帯のクルーと大規模な機材を載せた飛行機を、彼が操縦して世界中を飛び回るのだから。そして夜は2時間のコンサートでステージを(彼の場合、誇張無しに、文字通り)終始走り回って歌うのだ。癌治療明けの60歳近い初老の男がだよ。

もう、ひとつの生命体としての生命力が根本的に違うのだろう。彼のバイタリティは昔から桁外れだった。フェンシングの国内選考会では第7位であわよくばオリンピック代表も狙える位置に居たというし、本を著せばベストセラー、アイアン・メイデン唯一の全英No.1シングルは彼のペンによるものだ(アルバムは過去5回全英No.1を獲得している)。大学では史学を選考していたというし、彼ほど多才多芸な人物を他に知らない。この歳になってほぼ初めてピアノを触り、作り上げたのが最新作に収められている18分の楽曲。一体その生命力はどこから来ているのか。もし彼がハンサムだったら史上最大のスーパースターだったろうな。

って話は前もしたか。癌治療の話は初めてかな。こういう人は、逆境になっても全くと言っていいほど諦めず、即座に対処方法を見つけ出し忽ち実行に移す。くよくよ悩んでいても仕方がない。それでも丸2日落ち込んだらしいが、それだけである。嗚呼、順風満帆とは環境に恵まれた訳ではなくて、帆を張るのみならず順風自体を自ら生み出す事で手前に引き寄せるものなんだなと彼を見ると思う。


まぁ、なんだ、それは異世界の話。僕らのような弱々しい凡人には『向かい風がチャンスだよ今飛べ』と言われても怖くてすくんで何も出来ない臆病者の歌の方が似合っている。強さに憧れるのも大事だが、弱さを知る事もまた必要だ。甘えとかいう前に、どうしたらうまくいくかをまず考えよう。

今回のヒカルは闘病ではなく出産であった。一大イベントだが、健康だからこその出産であり、育児である。直前までスタジオ入りしてたとかもう作業を再開したとか言うけれど、健康なのだから至って普通の話だ。ヒトはずーっとそうやって生きてきたのだから。何がどうであっても、作品が総てを物語る。どちら向きでもいい。後ろ向きだろうが前向きだろうが、向かい風だろうが追い風だろうが。ただ待つだけだ。ただ、やはりセンス・オブ・ユーモアだけは見失わないようにしたい、かな。

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「宇多田ヒカルのうた」アルバムの配信販売形態は興味深かった。全曲単品販売はせず、半分の曲を単品購入可能、半分の曲をアルバム購入者のみ入手可にしたのである。梶さんのアイデアだったのだろうか。考えたものだ。

どういう基準で半分ともう半分に振り分けたかはわからない。考えてもわからなそう(&今回に限り妄想が外れているとやけに気まずい)なので考えない事にするが、ヒカルのオリジナル・アルバムの場合はどうしてくるかな? 宇多うたアルバムの具体的な選別は参考にせず、ただ「アルバムの配信販売で楽曲毎に単品購入の可不可が設定できる」という前提で考察してみよう。

というのもね。私の場合、特にプログレに多いのだが、取り敢えず聴いてみたい曲が「アルバムのみ」(即ち、単品購入不可)であるケースが非常に多い。これは理由が明白で、聴きたい曲の長さが長いのだ。13分とか18分とか。確かにそれだけのボリュームだと他の4~5分の曲と同じ値段で売るのもどうかなというのはわかる。うん。

もっともそれはiTunesStoreでの話で、これが他の配信サイトだと単品購入可になっていたりするから面白い。24分の曲が100円で買えたりした。お得過ぎるだろそれ。(場所はAmazon MP3、曲はムーン・サファリの"Lovers' End Part 3"です)

まぁそれはいいや。ヒカルのアルバムの場合、曲が長くて単品購入不可になるケースはあまり考えなくてよいだろう。極一部のリミックスを除き何れの曲もランニング・タイムは7分以下だ。

しかし、それでもヒカルのアルバムで単購入品不可曲が必要があるかというと、どうだろうか。シングル曲だけ聴ければいい、という人は確かにその曲だけを買って聴こうとするだろうが、シングル曲はちゃんと別にシングル盤の配信として購入できるケースが多いからアルバム関係ない。

ちょっとここでややこしい例があり。宇多うたアルバムの浜崎あゆみの"Movin' on without you"は、宇多うたアルバムからのシングルカット曲として"1曲入りEP"として購入可能だった一方、アルバム上では単品購入不可だった。何でそんな風にしたかはわからない。仮説としては、この曲だけ単品としての需要が高いだろうからEPにしてプッシュしようと。そこまではわかる。ならそこでアルバム版で単品で買えないとなると、例えばiTunes Storeではアルバム購入時にあゆの分がディスカウントされず、EP盤配信を購入した人は必ずあゆのむびのんをダブって購入する事になる。損得もあるが、それ以前に兎に角ややこしい。説明してて「通じてないだろうなぁ」という諦めの色が深いもん、私。

そんなこんなで。ヒカルの場合は多分必要ないというか、やると無駄に不評になるからやらない方がいい気がする。損得の前に、ひたすらややこしい。これだけで大きなマイナスである。実際、宇多うたアルバムはダウンロード販売を予約していたのに、当日になってもダウンロードが始まらず(iTunes Storeでは予約購入コンテンツの自動ダウンロードを任意で設定できる)、梶さんに苦情が行くという展開だった。私も当初ダウンロード出来なかった1人だ。ちゃんとCDも買ったぞ。単価がどうの音質がどうのという前に、“買って聴けない”のは最悪である。何の為の(品切れのない)ダウンロード購入かわからない。

つまり、トラブルを最小限に抑える為にも、ダウンロード販売はシンプルを至上命題とすべきだ。「わかりにくい。バカにしてんのか。」―反感を買う最大の理由・感情のひとつである。ややこしい事はせず、普通に買えるようにしておくのがいちばんの最善策なのではないかなと思いますよ私は。はい。

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何やらヒカルの話が週刊誌に載っているらしい。内容は読んでないので知らないが、受け答えをしたのが近況を知るスタッフだったという話。ふぅむ。

大手出版社の編集者或いは記者ともなれば長年の知り合いという事で「最近の宇多田どうよ?」と気軽に訊かれるのかもしれない。今までのところこういった小さな記事は大して影響があった試しはなく、取材もヒカルに行っていないのならまぁ別にいいかという感じ。

んでも、今後はどうすんだろうなぁというのはやっぱりある。新譜やツアーを間近に控えた芸能人が何らかの生活記事を掲載してもらって露出を増やすというのは常套手段なんだろうが、ヒカルに同じ事する必要がまだあるのかというと、率直に、わからん。

露出が増える、話題になる。まずそうならないと話にならない。若い世代はCD買わないからとか言う前に、存在と発売を知ってもらわないと始まらない。故にメディアであれば何にでも食いつきたくなる。

週刊誌に載ればテレビの記事紹介コーナーで取り上げられ2ちゃんねるにスレッドがたちリツイートが回ってきて、という風に波及効果が見込めるがその便利さと同等以上の炎上リスクが常につきまとう。それをおかしてまでかなというと判断がつかない。

ファンが高齢化しているのなら、ありかもしれない。週刊誌を読んだりワイドショーを見たり2ちゃんねるに張り付いたりは大体30代40代以上だろう。そこにアピールするのはよい。それより下の世代だと週刊誌は読まないだろうしテレビは見てるかあやしいし2ちゃんねるゆうてもまとめサイトどまりで、なんて感じか。

そう考えるとまぁ、のんびりした話限定なら大丈夫なのかな。売上がどうの収益がどうのという話になってくると売れても売れなくても話題にされるだろうから、そうなってくるとやや煩わしい。

あとは、言ってない事をネタにして炎上されるのがいちばん怖い。もうどうしようもない。炎上対策に必要なのは、炎上した後の事後処理ではなく、その前段階、“この人を炎上させても面白くならない”という雰囲気作りである。炎上に正当な理屈なんてない。どこかに綻びがあればそれにつけこんで喰い破ってくる。だから、穴があくかどうかを心配するよりも、穴があいていても興味を示されない雰囲気づくりが重要なのだ。

5年前までのヒカルは「炎上させても面白くなりそうにない」と判断されるキャラと認知されていたが、すっかり時代が変わってしまった。昔はこんなにツイートしてなかったからな日本人。今どうなるかわからない。慎重に過ぎる事はない。メディア露出の加減は、呉々も要注意です。

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自分が週刊少年ジャンプを買わなくなったのは"ONE-PIECE"が始まったから(正確にはその前のプロトタイプの読み切り作品"ROMANCE DAWN"なんだがそれはまぁいい)とは前々からよく書いている気がするが、とするとあの雑誌を読まなくなってもう20年近い。なので同誌の"歴代"について語るのは難しいが、兎にも角にも自分が週刊少年ジャンプで読んだ作品の中で最も面白かったものの一つが冨樫義博の「レベルE」だ。いくつかの場面でけたたましく笑わせてうただき、幾つかの場面では目ん玉裏返るんじゃないかという位に吃驚させてもらった。名作だ。

その「レベルE」の中に「想像の斜め上を行く」という表現が出てくる。歴史の真実はどうか知らないが、少なくとも私はそこで初めてこの表現をみた。以来、自分でも時折使うし、他の誰かが使っているのを何度か見た。しかし最近は、その使用例の中に「これひょっとして出自を知らずに使ってるんじゃないか?」と思われるものも出てきた。いやはや、そりゃそうか、20年も前の漫画でただ一度きり使われた台詞を知っている道理は無いものな。

しかし、何だかこういうのは日本語の歴史に立ち会っているようでもある。この、新しい表現が出自を知らずに使われ始める段階にくればそれはもう新しい日本語が定着したとみてよいのではないか。少しむず痒くなってくる。

「想像の斜め上」だけではない。他にも様々なケースが存在する。人を応援する時に「頑張れ」と言うようになったのはNHKの五輪実況で「前畑頑張れ」と連呼したのが最初だとか、「ガッツポーズ」は元プロボクサーのガッツ石松のとったポーズから来ている、とか、或いは「さぶい」とか「引くわ」とかそういった言い回しを日本中に広めた最初は松本人志だとか、世代によっては意外な(しかし同時代の人にとっては常識の)出自をもつ日本語は幾つもある。

こうやって、「日本語に爪痕を残す」のはなかなかの事だ。そのうちその用例が辞書・辞典に載るかもしれない。考えるだけでワクワクする。

さて、じゃあ宇多田ヒカルってそういう"爪痕"を残した事があるかなぁと思ったのだが案外思いつかなかった。これは悔しい。作詞家という、日本語を扱って創造する有名人として、何かひとつくらい名を残す、いや、名は残らなくても言葉を残すような歌詞はどこかにないだろうか。

うーん、難しい。ツイッターでいちばん有名なのは『別に会う必要なんてない』だろうがこれはただのツンデレで、そこまで独創的な表現ではない。というか、ヒカルはもともとできるだけ日常的な言葉を使って、「あのお馴染みの言葉がPopsの歌詞になるの!?」みたいな驚きを与えるのが常だ。『どんぶらこっこ』みたいな。つまり、音楽と共に奏でた時に驚きに変わるものであり、言葉だけがそこに置いてあってもさしてインパクトは無い訳である。

そう考えると、ヒカルが爪痕を残すのは寧ろ、「こんなありきたりのことばにメロディーがついている」といった方面になるかもしれない。そうなると、最も優れているのは“ぼくはくま”になるだろうか。『けんかはやだよ』『ふゆはねむいよ』『あさはおはよう』『よるはおやすみ』―もう、本当に普通の、いやもう当たり前過ぎて日常生活においてすらわざわざ言わないフレーズに、メロディーがついている。これらの“あたりまえのこと”を歌う事によって、確かに何かが変わるのだ。ヒカルの爪痕の残し方は、そういうやり方でいい。“ぼくはくま”はその最たる例なのである。

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新曲を一曲も出さないうちに(と言っても桜流しがあるけれど)アルバム制作中と宣言するのはたぶん初めての事だ。1stアルバム以来、ともいえるがまぁそれはデビューだし。これは、だから、ちょっと珍しい。

そのリズムは、Utadaの活動の方がより近い。曲が出揃った所で、さてシングルカットはどれにしようと考えるやり方。ヒカルの方は、2nd以降まずシングルを何枚か出して、その流れでアルバム曲を作っていった、という風になる。この違いは大きい。

つまり、リスナーからのフィードバックがアルバムに何かしら反映されるか否か、だ。EXODUSやThis Is The Oneには、制作途中でリスナーからの影響がない。その為、トータルとしてのバランスを最初から考えつつ作る事が出来た筈だ。

ヒカルのアルバムの方は、一曲出した、反応が返ってきた、さてじゃあ次はどうしようかという流れの中で収録曲が決まってゆく。HEART STATIONアルバムの"発端"はぼくはくまだが、この曲に対するリアクションのお陰でFlavor Of Life以降の親しみやすい路線が生まれた。勿論FoLの特大ヒットもまた次に続く曲たちに影響を及ぼしている。市場との相互作用の中でアルバムが出来上がっていく感じがある。

今回は、ややもするとそれ(リスナーからのフィードバック)が無いままアルバムが出来てしまうのかもしれない。それはそれで、アルバムがただのシングル曲集ではなく(それでもいいと思うんだけど)トータルとしてのバランスに優れた作品になっていくだろうからそれはそれで楽しみだ。

ただ、フィードバックがないからこそ独り善がりな作風になっている可能性もある。特に、ヒカルはもう何年も新規露出無しで遠ざかっている。“空気が読めていない”と揶揄される危険もある。どうなるか。

しかし、今の市場をみていると、逆に空気を読めないくらいがちょうどいいような気がしてきた。今の空気を読んでそこに同調してしまうと、なんだかヒット曲が書けそうにないように思える。ここはいっそその空気を打破するような作品で新しい風を送り込んでもらった方がいいかもしれない。こればっかりは、やってみないとわからない事だらけだろうなぁ。

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あ、季語がない。(笑)
まぁ、いいか。

あのグラサンで凄む長身痩躯のミスターウタダはどこへやら。(微笑)

ダヌパが2人に幸せを運んできてくれた。溺愛も宜なるかな。

これはあれだ、とても幸せな音楽が生まれてくるって事でいいのかな。こういう時に思い出すのはイングヴェイ・マルムスティーンの一言。「晴れた日の午後、愛息が庭で元気いっぱいに遊んでいるのを幸せに眺めながら俺が作った曲はマイナーキーのヘヴィでダークでゴシックな曲だった。そういうものなんだ。」

確かに、ヒカルも、新婚で幸せいっぱいの筈だったのに既婚最初のリリースは切ない別れ話の“COLORS”だった。江戸川乱歩が昔「君、私が殺人事件の話ばかり書くからって毎日人を殺して回ってるとでも思うのかね?」と詰め寄ったそうだが(多分後世の作り話)、ヒカルも作詞家として創作の、フィクションの物語を書いてきているんだからそれはそれでいいはず、だったんだ。

しかしその後に離婚した事で“COLORS”が"Self Prophcy”な一曲と見做されるようになる。中川翔子が(しょこたんね)30歳になってから頻りに「どんどん現実が歌詞に追い付いていく」と話しているが、暗示なのか何なのか、実際に我々が歌詞が現実を先取っていると感じる瞬間が多々ある事は事実だ。

ならば、ここは思い切ってみてもよいのではないか。似合わないかもしれないが、未来への希望を歌ってみたりしてもいいんじゃないか。或いは、貴方の人生がいいものになりますようにという素直な祈りの歌でもいい。こちらならまだヒカルの芸風の範疇か。どんなに苦しい事があっても母ちゃんおめぇのために生きていってみせるぞみたいな歌でもいい。これはリアル母ちゃんの方の芸風かな?


まぁ、創作はヒカルのもの。好きにすればよいが、自分はこれが得意だからだとか、こういうのは苦手、こんなのは似合わない、と言う前にいちど試してみるのもいいかもしれない。もしかしたら、ダメ元で試してみる事で自分が変化していた事に気付けるかもしれない。可能性を限定しないで欲しい。その一言に尽きる。

とはいえ現実には納期・締切・デッドラインというものがあり、やっぱり得意な事を素直にぶつけた方がスムーズに作業が進むだろう事もまた事実である。なので、出来るだけ締切に追われていない、産休明けくらいのタイミングでささっと真っ直ぐアイデアを纏めてみて欲しいな。やってみてよん。

とはいえ、アイデアは一筋縄では出てこないし、一方で、得意な型からこそ出やすいというのもある。無理はし過ぎない事だ。なんだかエラソーだな今日の俺。どうした。

でも今暫くは、孫と戯れて目尻の下がっている照實さんに同調して、ヒカルの子育て奮闘記を遠くから眺めながら待っておく事にしますか。頑張れ、ひかる~!

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さぁて、そろそろ"警戒態勢"に入るべき時期なのかな~という心づもりはしている。ひとつの基準、「年内に新曲を発表するか否か」でいけば、11月下旬あたりがターゲットならもう動きが出てきてもいいはずだ。最もそれは現時点での「最速のケース」であって、産休明けのお母さんがどんなスケジュールを組んでいるかによる。産後3ヶ月まではベッタリ、というのならまだ本格的に現場復帰はしていないだろうし最速のパターンは性急に過ぎるだろう。

もう少し遅れて、年内に新曲発売の発表、年明けにリリースとなればまだ慌てるような時間じゃない。2ヶ月ほど後ろに倒そう。それでもまだまだ早い位だ。

シングル発売からアルバム発売のインターバルが最も短かったのは「FIRST LOVE」でいいかな。12月9日~3月10日だから大体3ヶ月。Utadaの場合は2ヶ月くらいだったが、伝統的にはアルバムをまずリリースしそこからシングルカットしていく手法から出発している米国での話だからあまり参考にはならないだろう。もっとも、次のアルバムが全世界同時発売なら話は別だが…。

あぁ、その点については触れておかねばならないかな。今世界のレコード業界は「全世界的にアルバム発売を金曜日で統一しよう」という動きがあり既に幾つかのビッグ・タイトルはそれに沿ったプロモーションで動いているのだ。日本はまだまだ追随しているとは言い難いが、洋楽のビッグタイトルは足並みを揃えざるを得ず同調の気配が感じられる。

前にも触れたが、アイアン・メイデンの新譜は9月4日の金曜日で、これをいち早くゲットする為にレディー・ガガが朝5時に起きたなんて事もニュースになっていたが、時差の関係で、最速で入手できたのは日本など極東の国だった。それも、実際にダウンロード販売が始まったのは9月3日木曜日の23時頃(iTunes Storeでは購入予約をしておくとダウンロード可能になればメールが届く)であり、いやはや、日本はこのシステムだといつも「世界最速」になるなぁと実感せざるを得なかった。

これが日本のアーティストにも適用されるかは未知数だが、Utada Hikaruの場合は十分に考えられる。先述のアイアン・メイデンの場合はフラゲ日の店頭販売は許可されておらず、店頭陳列開始日まできっちり金曜日に指定されていた。その為ダウンロード販売が最速になったのだが、Hikaruの場合でもこれをやられると、まずダウンロードで最速購入し、翌日に店頭でフィジカルを購入するだなんてケースも出てくるかもしれない。というかおいら多分そうしてしまう。前日の23時に購入出来てしまうとなるとその日のうちに一回はアルバムをフルで聴けるし…いや、なんだ、えらい先の話じゃないか。

しかし、えらい先の話であっても、これが具体性を帯びてくる可能性をまともに考えなければならない時間帯に入っていけるというのは、いやさ幸せである事よな。

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今はあんまり言わなくなったかもしれないが、秋といえば食欲の秋、読書の秋、スポーツの秋、という風にこの季節は文化的な取り組みをするのが通例だった。しかし、ここ十数年、殆ど真夏ともいえる残暑に苦しめられているうちに台風が何個も押し寄せ、翻弄されているうちにいつの間にか冬になってた、という感じで「あれ、今年は秋あったっけ」となってしまっている。これは春も同様だろう。

実際、今年は暑さを通り過ぎた途端雨続きで、まるで二度目の梅雨、或いは乾期の後の雨期である。日本も亜熱帯化しているというのなら乾期と雨期の繰り返しになるのも…と一瞬思ったが、日本の夏は乾期と呼ぶには湿度が高過ぎる。全然カラッカラじゃない。湿暑期と雨期とでも呼んであげようか。

秋に文化的な色合いが強いのは、伝統的には収穫の時期で生活が豊かだからだが、過ごしやすい季節に落ち着いて活動できるという意味で現代にも通用する習慣であった。それがこんな風な気候の変化では。エアコン頑張れ。

さて、では秋の宇多田ヒカルといえばどんな感じだったか。新曲を発売したのは99年、01年、05年、06年といった感じか。04年はUtadaが秋にアルバムを出している。00年と06年はツアー終了後ということで幾らか休みが取れただろうか。そんな中で"ぼくはくま"を発売出来たのは特筆に値する。発売日の日付的には冬のシングルといって差し支えないのだが、どうにも自分の中では"秋の名曲"という印象が強い。曲調が秋っぽいとかではなく、みんなのうたに絵本にと、どこかいつもの浮ついた商業的な感覚の薄い、作品とその作品性そのものに焦点を当てた活動が、なんだか人間文化の"真の豊かさ"みたいなものを感じさせたのだ。更に、ファンが如何にこの歌を愛しているかを表現する企画まで行われた。いつもいつもレコード会社の屋台骨を期待され売上だ何だと言われ続けていた宇多田ヒカルの活動に漸く収穫の時"秋"が訪れた。それが"ぼくはくま"だったのではないか


だとすればヒカルは、この歌を作った時も勿論だが、この歌を発表した事でますますこの歌を好きになった、そんな風な気がしている。とんでもない愛情がなければぬりえコンテストの2万枚を超える応募総てに目を通すなんて凄まじい所行を完遂できる筈がない。“ぼくはくま愛”所以である。

あの9年前の時間を経て今ヒカルは初めての”母親としての秋“を迎えている。ぼくはくまを歌い聴かせているだろう。今のヒカルの母性に溢れたぼくはくまを是非聴いてみたい。それこそ本物中の本物だろうな。

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2010年代のTwitterとLINEの普及度は今までのコミュニケーション・システムとはスケールがやや違う。mixiやFacebookのようなオーソドックスな…ってこれらのことをオーソドックスと呼ばせないまでに発展している。

逆説的だが、お陰でコミュニケーション・ツールの進化が暫く止まったままでいる。次のツール&システムにはどんなものがあるかなと妄想を膨らませる余地が余り無いのである。

ヒカルはそういうのに敏感なまま来ている。Message from Hikkiは後にブログと呼ばれるもののハシリみたいに捉えられた。Webでの生放送も、8000人のチャットルームを利用する事で今のニコ生のような雰囲気を既に持っていた。動画配信も始めていたし、配信販売だって早かった。着ゴエや着うたなど携帯電話の進化にも対応してきた。ていうか携帯電話のCMに出てた。一方で、mixiにはかする程度ですぐに脱退、Voice Mailはやると言っておきながら手付かず、という風に避けるツールもあった。Facebookは未だに音沙汰無しである。そして、アーティスト活動休止宣言とともにTwitterが始まった。当初は期間限定だったが既に5年続いている。やってみるもんである。

あとはLINEをやるかどうかだが、あれはTwitterと違い、どうも「無料のファンクラブ」という趣になりそうなので今まで通りのやり方だと進出はしないセンか。

そしてそろそろ新しい時代のコミュニケーション・ツールが待たれる所なのだが、こちらは一切音沙汰がない。スマートフォンが主軸になっている以上、あまり沢山の可能性がある訳でもない。暫くはみんな同じ状況で楽しんでるんでないかな、

確かに、もうあとはインターフェイスの進化を待たないといけないかもしれない。でも、例えば空中に画面が照射できてそれをタップできるようになってもTwitterより優ることにならないからなぁ。何かまた新しいガジェットが生まれたらその時気にしてみることにしようか。

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この日記が何の為に書かれているかというと。過去にMail To Hikkiを書き過ぎた反省からだ。あんな長い"手紙"を読ませるには忍びないと漸く気づき(遅いわ)、その分のエネルギーをこちらに振り向けようという事になった。勿論書く内容はMail To Hikki とは異なるのだが、書くという行為はそれだけで"何とかしてくれる"ものだ。

エネルギーといえば、今の光の曲作りのエネルギーはどこから来ているのだろうか。生活に困らないだけの資産を持ち得た人の人生のテーマはモチベーションだ。なければ何もしなくていい。生活に追われている人(まぁつまり殆どの引退・隠居していない人たち)は、それが自分がしたい事かどうか検討する暇もなくただひたすら与えられた課題をこなしているうちに時が過ぎる。人生のテーマは一貫して「不安」である。安心と安定が欲しい。それだけで人は生きていける。だから勉強したり働いたりする事に理由は要らないし、理由を訊かれる事もない。

光くらいになると「なぜ働くの?」「なぜ働く必要があるの?」と本気で疑問に思われる。もう十分稼いだんだから、悠々自適でいいじゃないのと。たしかに。働くのに理由が必要なのだ。そう訊かれた時に答えられる為にも。

今は、誤解かどうかは兎も角、あからさまにいえば、皆が納得する状態である。多くの人がこう思っている、或いは、思っていた。「今はのんびり暮らしてるんだろうな」と。100万ドルを寄付できる人なのだから気ままに暮らせばよい、と。書いてて何だか腹が立ってきたが、お金持ちというのはそういう風に我々庶民に思われているものなのだ。

その状態から"説得力のあるモチベーション"を捻り出すのには工夫が要る。どうせ売れなくても痛くも痒くもないんだろう、と。最近の風潮であれば、そもそもPop Musicを今の時代に日本で作ろうだなんてただの酔狂で、金持ちの道楽でしかない、なんていう批判を浴びる事すら想定しておかねばならない。何だか書いててますます腹が立ってきたが、そんな批判を封じ込めるくらいバリバリ働いて欲しい、という願い方もありえる。ならばたしかに。

だからモチベーションは大事なのである。光にはいい答え方がある。「まだ契約残ってるんで。(笑)」―いつも冗談めかして言っているが、この防波堤は強力だ。契約がまだあるなら仕方がない、と。直接的ではなくともこの恩恵には助けられている。

出来ればその契約は、「無期限10枚」みたいなスケールの大きなものであって欲しい。長ければ長いほどいい。光がモチベーションで悩まないように。やるとなったら最後までキッチリ責任をもってやる人だ。母親譲り。で、その「やるとなったら」が難しいのでした。契約頑張れ。

あとは光が健康であればよい。曲作りはこの5年間きっと休まず続けていただろうから、本来の"本当のモチベーション"については、心配していない。周りの雑音を消すノイズキャンセルが欲しがっただけなのです。レコーディング頑張れ光~♪

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うたゆな楽日から今日で9年か。もうそんなに経ったか、ともまだそんなものか、とも思えない。文字通り、「9年か」が率直な感想だ。8年より1年多く、10年より1年少ない。当たり前体操。

あの代々木2日間のパフォーマンスは凄かった。WILD LIFEでそれ以上に洗練されたヒカルを見る事が出来るので、その門外不出の出来映えに悔しがる必要はないが、あの2日間は2ヶ月余りツアーしてきた経験から来る学びの数々をまとめて炸裂させた内容だった。WILD LIFEのパフォーマンスが如何に優れていようと、この、長期間のツアーを経た上でのカタルシスというのは、まさにツアーでないと味わえない。

最初の方は酷いもんだった。私が見たのは静岡2公演で、その前に仙台が2回あったから3回目4回目となる筈だが、演奏の呼吸がまるで合っておらず、これではヒカルも歌いづらいだろうなぁと思った程だった。あそこから2ヶ月足らずで代々木まで持っていくんだからプロのミュージシャンてほんと凄い。

しかし、裏を返せば、なぜその前の1ヶ月でここまで来れなかったのかという感想も抱ける。ツアー・リハーサルの初日が2006年6月の1日なのか4日なのか5日なのかはわからない(そのいずれともとれる発言を照實さんはしている)。1ヶ月のうち何日集まれたかはわからない。でも、結局は、本番が一番の練習になるのだろう。実践の時機を経て人は成長する。リハーサルはリハーサルのままなのだ。

それを踏まえて今を考えると。リハーサル・オンリーでWILD LIFEまでもってこれた。これが長期のツアーを経られるようになったらどうなるのだろう。今後の興味はそこになる。ならばやはりミュージシャンの確保は大事だろう。阿部薫がいつでも捕まると思ったら大間違いである。

ツアーの経験からしか熟成できない要素もある。そう言うのであれば、音楽の質を高める為にもツアーは重要である。そして、そうであるならば是非次回はDVD用の映像収録はツアーの最終日付近に行ってほしいものだ。会場によって収録の向き不向きがあるだろうから、早い段階でのブッキングが求められる。来年中に新譜を出してツアーにも出るとすれば、もう事態は動き出していてもおかしくはない。

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あらゆるファイルがオシシ仮面かオカメ仮面。(独り言)


幾ら歌詞だからといって、その歌詞はその歌の中の物語でしかないといっても、やっぱり私生活を題材にした歌は、その頃のフィーリングから離れてしまった"今"に聴くなり歌うなりした時に、その自分のパーソナルな感情がどうしたって甦ってきてしまい、結果感情移入が阻害されるような事になりはしないか。

WINGSで何度も歌われる『あなただけが私の親友』とは、結局一体どういった意味だったのだろう。今述べた通り、歌はその中に独自の物語を持ち、従って如何に現実のエピソードをベースにしていようとそれを一旦フィクションとして捉えるのは、そうだな、いわば礼儀作法だ。だからこの歌の主人公の"あなた"は、本当に彼女にとって唯一無二の親友なのだろう。

2つの事実に挟まれている。ヒカルが、この歌は当時のパートナーとの喧嘩が題材になっていると明言していること。同じアルバムに、本物の親友に捧げた歌"Making Love"が収録されている事だ。

後者の方は、いきなり先程の礼儀作法をぶち壊す。いやそれは別に珍しい事じゃない。実在する人間が実在する人間に対して実在する感情を伝えている。これは流石にフィクションと呼ぶのを憚らせる。呼んでもいいが、それで何がどう変わるという事もない。

そして前者をどう扱うか。確かに、当時夫に対して親友のような感覚がある、とは言っている。しかし、だからって"あなただけ"ってこたぁない。Making Loveが非フィクション(うわ発音難しそう)である事を認めたならば、認めざるを得ないのならば、WINGSはフィクションだろう。現実を題材にしつつ、架空の設定、架空の登場人物の言葉が並んでいるのだ。

に、しては。ヒカルの歌が生々しい。どの言葉も光の本音としか、素の本音としか思えない言葉が並ぶ。実際に暖かい場所で大好きな作家の本を開いたのだろうと誰しもが思う。いや、そう思わせるしかないほどに正直な歌詞、歌である。じゃあこの"あなただけ"っていうのは、誰に対する、何の本音なのだろう。

今私は、正直な、と書いた。一方で歌詞には『素直な言葉はまだおあずけ』とある。少し何か、嘘はつかないまでも気持ちを上乗せした言葉がこの中に紛れ込んでいるのだろうか。

実際には、本当に素直過ぎる歌詞が並んでいる。“あなただけ”の一節だけが、アルバムという空間の中では、うまい具合に整合性がとれないのだ。或いは、『あなただけが私の親友』と呟いているのは、歌の主人公とは別の人物、例えば喧嘩した相手の方だったりするのだろうか…

…今のところうまく嵌る答は見つかっていないが、WINGSはとてもよく聴く曲なので、また何か思いついたらここに記す事にしよう。今日は早めに寝れるかな。

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どうにも今年のイチローの「持ち上げられ方」には違和感がある。1994年にテレビでプレーする姿を観て「なんだこれは」と驚愕して以来毎年そのプレイぶりを横目でチラ見してきた身からすれば、そのちやほや感敬われ感がなんだかこそばゆい。

大体、打率が.250付近をさ迷っている長打力の無い外野手が本来ならそうそう重宝される筈もない。本来であれば、カージナルスに居た頃の田口荘のようにユーティリティ・プレイヤーとして扱われるハズだ。まぁ実際ある程度起用方法はそうなっていて、その期待には応えてはいるけれど、いずれにせよ打率は286以上(7打数2安打)は稼がないとレギュラーとして持ち上げられるところまではいかない。

なので今年の報道の「生きる伝説」扱いにはどうも馴染めない。何より、記録の事ばかり囃し立てられて、肝心のプレイの方になかなか注目が集まらない。イチローの醍醐味は、その日のハイライトプレイ集に必ず顔を出す事であった。強肩、堅守、好走塁。そして何より打撃である。様々な状況下において、如何にヒットを"創造"するか。その創意工夫こそがイチローの魅力だった。勿論大記録の数々は素晴らしいのだが、ずっと20年イチローを見て来た身としては毎日のニュースでバッティング&ランニングの妙味を味わわせてきてくれた事が何よりも大きい。安打記録はまさにその積み重ねであるからこそ価値がある。今季はそういう側面が激減している。なのに持ち上げられているのが居心地悪いのだ。

そして、こうやって(余計に、無駄に)持ち上げられるのの何が怖いって、何かキッカケがあれば途端にバッシングに豹変する事だ。どうにも、極端に走る。「誉めちぎる」か「貶したおす」のどちらか両極端しかない。大衆を相手にしているから仕方がないとはいえ、可能ならば「ここはよい」「ここはまずまず」「ここはイマイチ」という風に、1つ々々詳細に評価を加えていきたいところだ。そうなると讃えていいのか怒っていいのかよくわからず、「お、おう、、、。」となるのだが、それでいいのである。現実は割り切れないのだから、まずはそこから始めないと。


当然、ヒカルにも同じ心配がある。取り敢えず誉めとかなきゃいけない村の住民なので、当初は誉められる所からスタートするだろうが、少し売上が芳しくなければ途端に「宇多田の時代は過ぎた」「宇多田でもダメだった」となっていく。こちらからすれば「ちゃんと1曲々々聴いて判断して欲しい」となるが、誉められている段階で、日々のプレイ内容でなく数字によって讃えられているイチローと同じように、歌は聞かれていないのだ。数字を見て「すごいね」と言い合っているだけである。ならば貶される段階でも曲は聴かれず、ただ数字だけで叩かれる。その意味では一貫しているのだから、最初っからそういうのとはかかわり合いにならなければいいのだが、そうもいかず、難しい。

せめて自分らだけは、ヒカルの繰り出すひとつひとつのメロディーに丁寧に耳を傾けて一喜一憂したいと思うのですよ。

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今、海外進出をしている日本のアーティストは幾らか居るが、いちばん驚異的なのはBaby Metalだろうか。相手にしているオーディエンスのスケールが違う。今やDir en grey以上ともいえる。

とはいえ、ユニットの性質上どうしても"期間限定"という匂いが漂う。或いは定期的にメンバーを入れ替えて"Baby Metal II"みたいな事をやってくるかもしれないが、本命はやはり「時代に咲いた徒花」路線で華々しい咲いて散るのが美学な気がする。いや、続いてくれたらそれはそれでいいけれども。

意外にここから十年はLOUDNESSが来るかもしれない。あの時代にビルボード64位をとった知名度は侮れない。当時としてはドイツのACCEPTと同程度の成功度だが、今や彼らも5万人7万人といったオーディエンスを従えてフェスティバルのヘッドライナー或いは準ヘッドライナーを務める地位に居る。高崎晃のやる気次第ではLOUDNESSがその地位まで行ったとしても何ら不思議ではない。

メタルやラウドロックなら言語の壁が低いので斯様な成功を収められるが、ソウルフルな歌声で観客を魅了するとなるとほんの少しの訛りやイントネーションの狂いも致命傷になりかねず、従ってこの路線で成功できる日本人歌手は依然としてHikaruくらいしか居ない。誰か知ってたら教えて。

しかし、こうやって30代半ばからの復活となると、扱いは“アダルト・コンテンポラリー”とか“AOR”とかに、なるのだろうか。そういう所にハマっちゃうくらいならロック・ミュージシャンとして売り出した方がいいようにも思う。ロックならジャンルをまたぐことはあっても元の場所を完全に離れきる事はない。例えばザ・ローリング・ストーンズはこの半世紀ずっとロックンロールだった。全く変わっていない。中にはQueenのようにディスコやAORとして扱われる楽曲を発表するケースもあるのだがそれでもQueenはレコード・ショップでずっと「Rock」の棚に置かれ続けている。

Hikaruのアルバムはどの棚に置かれる事になるのだろう。日本では一貫して、時にはUtaDAのアルバムでさえ、J-popの棚に置かれ続けた。海外でもブレイクし、当たり前のようにビルボード・チャートに顔を出すようになってきた時に、それでもJ-popの棚に置かれるだろうか。

「その頃には棚が無くなってるよ。CDショップがもう無いから。」

…そんな悲しい知らせの届かない海辺へ行きたい所だがそれが冗談に聞こえないくらいに今の日本にJ-popは無い。

寧ろ、Hikaruに続く人たちが次々出てくればよい。いやもう追い越しちゃってよ。CDショップの棚に新しく「Global Japanese」とか「Overseas Domestics」とかいう札を作らざるを得ない位に、世界中で活躍する日本人ミュージシャンが次々に出てくればよいのだ。さすればHikaruも漸くジャンル分け問題から解放される。すわりのよい棚に心ゆくまで面出ししておいてくれればいい。

そして、野望だが、世界各国のCDショップの棚に「JAPAN」というコーナーを作る所までいけば、もう一時代を築いてしまったと言っていいだろう。果たして我々の目の黒いうちにそれが達成できるかな。

といっても、繰り返しになるけれど、CDショップの寿命が尽きる方が先だろうなぁ。みんな、もう、がんばって、ください。おまえもがんばれよ~。

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