WEB上でこのテの文章を読んだことがないので、このテーマについての「決定版」を書いてみようと思い立って10000字。彼女の歌唱力について掲示板やブログで論争が起こったときには、好きなだけ引用してくださいな♪
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宇多田ヒカルは、僕の知るJ-POPシンガーの中で「もっともうたのうまい」女性歌手である。漢字で書くとすると「最も歌の上手い」となるだろうか。これは「どんぐりの背比べ」の中で一歩ぬきんでてる、ということではなく、「そもそもひとりだけ次元が違う」という意味での「最も上手い」である。しかし、恐らくこれについては、かなりの反論が予想される。大きなコンセンサスがすぐに得られるとは思わない。私の云わんとすることを納得してもらう為には、幾許かの説明が必要になると思われる。
そもそも、「歌が上手い」とはどういうことか。この認識を正確にしなくては、誤解が生じるのは避けられないだろう。恐らく、この時点で既に私の認識は少々特異であり、だからこそ反論を受けるのが不可避なのだと思われる。
歌とは、声による音の連なりである。そこでの「歌が上手い/歌が下手」とは、どういうことか。その為にまず、ほかのジャンルでの「上手い・下手」について考えよう。スポーツや料理でも「上手い・下手」という表現を使うが、それはどういう意味でだろうか。前者では「できる・できない」というかなり客観的に測られる点において、後者では「美味しい・不味い」というかなり主観的に測られる点においてそれぞれ、その仕事自体やその仕事をもたらした人間に対して、「うまい・へた」という表現が使われる。もちろん、スポーツにおいても「美しいプレー」などといった表現が存在するという意味では「美味しい・不味い」という観点があるし、料理においても「常人にはマネできないものすごい包丁さばきができること」を料理人が誇り周りが喝采することはもちろんある。しかし、それぞれは価値基準としては副次的な要素であって、スポーツでは速く走れた人は速く走れなかった人に対して必ず勝つし、料理の価値はそれを美味しいといってくれる人をどれだけ集められるかにかかっている。結局、それぞれ「できるかできないか」「美味しいか不味いか」がその分野での主眼となる(スポーツには「採点競技」もあるけどね。ややこしいのでここでは一旦捨象させて頂きますあしからずっ)。そして、その観点にどれだけ適うか、という基準においてよしあしをはかるために「うまい・へた」という表現が使われる。
では、歌での「上手い・下手」というのは、どちらのことをいうのか。“スポーティ”な意味でだろうか、“料理的”な意味でだろうか。これが、両方なのである。「技術的な上手さ」と「人に感動なり感情なりを与えるという意味での上手さ=美味さ」との、両方があるのだ。
最初に、“スポーティな”「上手い・下手」について考えてみよう。「できる・できない」即ち「歌える・歌えない」という話である。歌の技術で重要なのは、音域と音量とその正確さだ。高い声から低い声まで、大きな声から小さな声まで、それぞれ出すことができ、しかもそれが「出来る限り高い精度で自在に出せる」ことが要求される。たとえば速いテンポの短いパッセージの中に高い音から低い音へのジャンプや小さい音から大きな音への急激な変化などが盛り込まれていれば、その歌の難易度は高くなるだろう。宇多田ヒカルの曲でいえば「Movin’On Without You」とか「プレイ・ボール」とかだろうか。また、高い音を長く安定して出し続けることなんかも難しい技術のひとつだ。ということは、裏を返せば狭い音域において中庸なリズムで意外性の少ない流れのメロディを歌うとなると、難易度は低くなる。ヒカルの曲で言えば、「Automatic」なんかはカンタンな方ではなかろうか・・・彼女のレパートリの中ではね。とにかく、難易度が低いにしろ高いにしろ、その歌の楽譜に書いてあることをできるだけ忠実に正確に再現できること。それが、“スポーティな意味”での「歌の上手さ」ということになる。(ここでいう“楽譜”とは、音程やリズムや抑揚や大小や、そういったありとあらゆる指示全体のことをさす。実際に紙の楽譜とかで存在する必要はない。いうなれば、作曲者やプロデューサの『歌手や演奏家に対する要望や希望や指示など』を抽象的に“楽譜”と呼んでいるのだと思っていただければいい。以後も同じことばの使い方をする)
次に、“美味しいか不味いか”という意味での「上手い・下手」について考えてみたい、、、ところなのだが…なにぶん、これは非常に主観的な要素が大きい。99%の人が「美味しい」と考える料理でも、残りの1%のひとたちは肩身の狭い思いをしながらもやっぱり「不味い」と答える。100m走であれば高速回転ビデオを使って幾らでも細かく検証していけば最終的には誰が一番速かったかについて100%総てのひとが納得する答えを導き出せるだろうが、料理の方はそれとは事情が違っていて、いくら成分分析して甘み成分がどうのバランスチャートがどうの、とかいう話をしようが、その人が「まずい」と思ったら不味いのである。いろんなセッティングを工夫して将来それを美味しく感じるときがくるかもしれないが、それはあくまで「そのときになったら」の話だ。今とにかく目の前にいる人が美味しいと感じなければとにかく意味がないのである。
なので、料理的な意味での「上手い=美味い」を、音楽・歌に適用するときにも、同様のことが起こる。99%のひとが「あの歌に感動した」と言おうが言わまいが、残りの1%のひとたちが「別にぃ」といえば、それまでなのだ。単純に、「感動した」というひとが多いか少ないか、くらいしか、客観的に歌が「上手い(美味い)」かどうかの判断基準はないのである。
つまり、宇多田ヒカルは、今までの日本女性ポップシンガーの中で一番レコードを売った、その分、今までで一番多くの人をその歌で感動させた、だから彼女が「最も歌の上手い」ポップシンガーだ、、、、という結論を安直に導いてしまいそうになるが、それではいくらなんでも面白くない。私がここでいいたいのは、それとは全く別の観点についてである。
同じく、料理を例にとって考えてみよう。美味しい料理を作る人を「料理がうまい(上手い)人」と呼ぶのは抵抗がないと思う。しかし、ではなぜその料理はうまい(美味い)のか。なぜ、その料理は美味くなったのか。 もちろん、料理人の人が卓越した料理技術を持っていて、レシピ通りに料理を作れることがまずは大事にはなる。それはもちろんだ。しかし、それよりも何よりも更に大前提となるのは、その「料理をおいしくするレシピ」がまず最初に存在することなのだ。あまりにもわかりきったことなので逆に見落としがちだが、あなたの手元にある料理本のレシピは、どこかで誰かが開発しなければ、そこに書かれることはなかったはずだ。もちろん、たった一人で発明・発見した場合もあれば、長年の歳月を経て徐々に改良されていったレシピもあるだろう。でもとにかく、まずは「これをこうすれば美味しく料理が出来上がりますよ」という保証をしてくれるレシピを誰かが持ち込まなくては、話にならない。美味しい料理は永遠に出来上がらない。
これは、歌についても言えるわけだ。いくら、すさまじいダイナミックレンジを持ち(即ち、大きな声から小さな声まで自在に出すことができ)、広音域を誇り(高い声から低い声まで出せて)、さまざまな歌唱技術を自在に操れる(クレッシェンドがうまく出せる、とか、エアの入れ方がうまい、とかスキャットやラップやヴィブラートやボイスパーカッションや、とにかくいろんなことができる、といったこと)ような歌唱力を持っていたとしても、それを活かすための「いい歌の楽譜」がないと、何にもならないのである。どれだけ淀みない滑らかなクレッシェンドを歌えても、それが効果的に使われる場面なり場所なりがなければその技術は活きない。どれだけ高い音を長く出せても、それが音楽の中で活かされなければ、単なる見せ物に終わってしまう。感心はされても感動は与えにくい。(といいつつ、余談ながら、ひとの鍛え上げられた技術の披露は、それだけで僕を感動させることが、過去何度もあった。だから、あくまでも一般論ね) 技術“だけ”あっても、一向に人を感動させることはかなわないのだ。
そして、宇多田ヒカルは、その「最高の歌の楽譜」を用意できる人であり、その最高の歌の楽譜を、レコードに見事に録音する術を知った人間なのである。
「それって結局、Hikkiは作曲能力の高い“いいソングライター”だっていう話であって、ついでにそれに見合った歌が唄えるって程度のことじゃないの?」と言われそうだが、もちろん、話はそれ(作曲能力)だけには留まらない。それに加え、歌唱に関してもうひとつ非常に重要な点において、彼女は抜群に秀でているのである。それが最も如実に現れるのが、彼女が今まで何度か取り組んできたカヴァーソングたちにおけるパフォーマンス、になる。これらは、どれも人の作った曲。彼女の作曲能力は直接は関係がないわけだ。更に彼女は、大体メロディラインをそんなに大幅に変えずにカヴァーする。自分独自のメロディ変更は少なめにとどめ、原曲を尊重して歌ってくれる。しかし、なのに多くの人が彼女のカヴァーを聴いて「オリジナルより素晴らしい!」と絶賛する。私についていえば、(オリジナルにもたくさんバージョンがあり、それについて全部を聴いたということはないものの)オリジナルよりかなりよい、と思ったのは、「I Love You(尾崎豊)」「少年時代(井上陽水)」「With Or Without You(U2)」「Boulevard Of Broken Dreams(GREENDAY)」といったところだ。繰り返すが、彼女はオリジナルのメロディを大幅に変えたりといったことはしない。しかしこの宇多田ヒカルという女性は、メロディの魅力を、楽曲の魅力を最大限に引き出すためには、どのことばを大切にするべきか、どの音を強くどの音を弱く歌うべきか、どんな声のトーンをどの場所で使うべきか、そういった歌唱に関するありとあらゆることを理解し見極める能力が極端に高いのである。ここが僕が今回最も強調したい点なのだ。(当然、それは自らの楽曲の中ででも光り輝いている。ただ、彼女の歌はなかなかカヴァーされないので比較対照対象に乏しく、その差異(音楽に対する理解能力の差)を感じる機会が、なかなか与えられない、というだけなのだ。最初っから彼女による“最高の歌い方”で歌われて世に出てしまっているわけだから、あとから歌うひとがいたとしても、それをそのまま真似るだけになる。(それだけの技術があることが前提になるけれど))
つまり、宇多田ヒカルというひとは、最高のソングライターであるというだけでなく、よりよいヴォーカリゼーション(歌のパフォーマンス)を見出すことに恐ろしく長けた最高のヴォーカル・プロデューサなのである。私が「彼女は日本一歌がうまいフィメール・ポップシンガーだ」と冒頭に言ったのは、彼女が、どう歌えばいいかを見極める能力を持ち更に自らその“理想の歌唱”を実践してみせることが出来る、という二つの能力をとんでもなく高い次元で併せ持った、他に類を見ることのできないほとんど唯一無二のリアルタイム・ヴォーカル・プロデューサである、という意味だったのだ。(つまり、自分で実際に歌うことができる上、その中でよりよい歌唱方法を見出す能力がある、ってこと)
ということは宇多田ヒカルは、“スポーティな”意味だけに限っていっても、「歌のうまさ」も非常に高いレベルで持ち合わせている、とはいえるわけだ。レコードに録音された歌唱の音程の正確さには凄まじいものがあるし、それ以上にリズムの精確さにおいて彼女は抜きん出ている。金切声ともいえる高い声も出れば、“おっさんのような”と自ら述べる男声のような低い声も出る。音量や音程の変化の激しいパッセージを歌っても、その音程やリズムの正確さは殆ど失われない。そういう能力がなくてはそもそも彼女自身が用意した「最高のレシピ」を実際に歌として表現しレコードに収めること自体かなわないのだから。しかし、そういった「スポーティなうまさ」という点に関しては、彼女はJPOPシンガーの中で一番かというと、これは少しわからなくなる。特に、声量に関しては、ヒカル自身自らの楽曲の特色にあわせた音量で歌うことを心がけているので彼女の能力が些か割り引いて捉えられているかもしれないことをちゃんと考慮に入れたとしても、他のひとたちと比べて一番ということはないだろう。もっとデカイ声で歌えるヤツは結構いるはずだ。しかし、低い声に関しては彼女くらいうまく出せる人間はかなり限られてくるだろうし、R&B独特の抑揚ある節回しを歌えるシンガーとなると、これはもうほとんどいないといっていい。しかし、彼女ひとりだけ、ということにはならないだろうねきっと。
でも。でもですよ。先述の「音楽をよりよく、より深く解釈・理解する能力」という点に関しては、他の日本のポップシンガーとは全く、全く、全く比べものにならない。彼女たちは何度も僕をガッカリさせてきた。せっかく「あ、この娘はいい声を持っているな」と思っても、実際に楽曲を歌い始めると、「そこは強く唄うところじゃないだろう~」とか「そこのヴィブラート要らない。無意味。」とか、そういう愚痴が必ず出てきたものだ。きっと、周りから「歌が上手い」と囃し立てられると、どうしてもその技術の高さを披露することに重点を置きがちになり楽曲の魅力を引き出すことが疎かになっていたからなのだろうな。いや、それどころか、もっといいアプローチがあることにすら最初っから頭がまわっていなかったのかもしれない。更にいえば、“本場の”シンガーたちが、どうしてそういう歌い方をするのか、という点について深く考え、深く感じたこと自体がなかったのではないだろうか。なんかしらないけど彼ら彼女たちが海の向こうで売れているから、彼ら彼女たちのマネをして歌えばカッコイイのだろうたぶん、という気分で、海外の本格派といわれているシンガーたちの技術だけを真似て、その真意、そのソウルを学び取ろう、という気持ちが、そもそも欠けていたのではないか。だから、日本においてはいつまでたっても「オリジナルのポップ・ミュージック」が誕生せず、海外のオリジナルな音楽のコピーばかりを再生産するハメになってきたのではないのだろうか。
そして、その“悪癖”(と敢えて言い切ってしまおう)は、いつのまにかファンをも侵食していった。音楽が感情や感動や思想の表現であることを忘れて、外側から見える雰囲気や見た目の技術にだけ気をとられる送り手側の態度に乗っかり、そのような見た目のよさだけで判断する風潮が、ポップシーンの主流を占める結果となった。実際、オリジナルの音楽表現を苦労して開発するより、そうやって最初に爆発したオリジネイターの音楽を真似た二番煎じの楽曲を作って「○○風」とかっていって売り出したほうが、よっぽど楽だし儲かる。つまり、多くのファンに受け容れられてしまう。特に、日本という国は英語の歌に対してかなり根深いレベルで抵抗がある国だから(日本語と英語が余りにも音声学的に違うせいだと思われる)、英語で歌われたオリジナルの音楽より、それを真似た「○○風」の楽曲に日本語詩を載せたもののほうが断然売れる。それだったら最初っから「日本語カバー」として売り出せばよいようなものなのだが、オリジナルに対してのリスペクトが希薄なため(もしかしたら音楽を金儲けのための手段だとしか思っていないのかもしれないが、よく知らない)、パクって自分たちの楽曲として売り出して作曲印税をせしめてしまう。結局、いつまでたっても「オリジナルの音楽」に対する尊敬は育まれず、邦楽シーンはどんどんどんどん永遠の自転車操業に追い込まれていくわけだ。
そんな中にいきなり風穴を開けたのが、1998年の宇多田ヒカルの出現だった。その非常に高度な技術に支えられた絶品の歌唱からはフィーリングやソウルがとくとくと溢れ出で尽きることがなく、その音楽はまさに本格派としかいいようのないオリジナルとしての輝きに満ち溢れていた。しかもそれまでの“本格派”たちとは違い、歌詞が日本語だったのだ。(日本人が居なかったのだから当たり前だ) もちろんメロディは誰からの拝借でもない彼女独特のものであった。つまり、J-Popシーンに殆ど初めて「世界に通用するオリジナリティの可能性をもった歌」が出現したのである。これが爆発的に売れた。唖然とするほど売れた。呆れ果てるほど売れた。当初、最初に出てきたときはアレンジャーとしての能力が皆無だったためサウンド自体は「和製R&B」として片付けられてしまっていた感があるが、それも以後自身でアレンジやプロデュースの能力を高め実践していくことにより、まだまだ未完成ではあるが、年々少しずつ「宇多田ヒカル&UtaDA独自のサウンド」を構築しつつある。それが今の現状である。いきなり物凄い高みに現れてひとを圧倒したかと思ったら、以後も急激な速度でさらにその上を狙い続けて、実際に階段を昇り続けている。このような「他多数を大きく引き離した上更に向上を続ける、というとんでもない才能と努力の結晶」の存在を、売上の減少とともに皆が忘れつつあるのは悲しいことだ。或いは最初から、去っていったひとたちというのは熱に浮かされていただけなのかもしれないか。であるならば、逆にいえば今ファンとして残ってくれているひとたちは、純粋にヒカルの音楽そのものを聴いてそのソウルやフィーリングを実際に感じ取ることができた、「まっとうなファン」ばかりなのかもしれないね。それなら、僕のようないちファンとしては実に居心地のいい話ではあるな。前言撤回。悲しくないや。とっても楽しい。(笑)
・・・話がそれた。閑話休題。ここから後半。てゆうか余談。
しかし、ここで困った問題がある。そう、もうおわかりだろう、ライヴでの歌唱力だ。彼女のライヴでの歌唱能力の評価は、甚だしく一定しない。UDUD2006だけに限っても、その評価の振れ幅は本当に同じ歌手のコンサートに行ったのか貴様ら!?と疑いたくなるほどにいろいろだ。それだけ彼女の歌の出来不出来にはバラつきがあるらしい。それが事実ならば、もっと安定してどのコンサートでも同程度の歌唱を披露してほしい、と期待する向きも出てきて当然だろう。ところが、ここで求められているその“歌唱力”というのは、さきほど私がさんざ貶しまくった(つもりはないんだけど、読み返すとそうとしか取れないからそう言っておきます(苦笑))「オリジナルをコピーする能力」の方なのである。もう既にヒカルの曲は総てCDの中に「お手本」として収まってしまっている。いうなれば、レシピは完璧なカタチでもう存在してしまっているわけだ。ファンのほうはというと、これをしこたま聞き込んで殆ど「模範的回答」として胸に秘めて会場に向かっていってしまう。ということはいきおい、その歌唱に対する評価は「減点法」にならざるを得ない。最高のレシピがあって、それをちょっとでも間違うと、ほぼ確実に味は落ちてしまう、という感覚・価値観だ。「100点」の歌唱が聞き手の心の中にあって、コンサートの2時間の中で、そこからハズれたことをするたびに「あ、ここが違った」「あそこも違った」と100点満点からどんどん減点されていく。結局、ライヴなりに歌っただけでは「CDのほうがよい」となるし、苦労して完璧に歌い切っても「CDとおんなじ」までの評価しか得られない。(ただ、先ほど僕も括弧書きでチラッと触れたようにそういう「(再現)技術を極めた」パフォーマンスも、かなり高度になれば人を感動させることはできるんだけどね。)
しかし宇多田ヒカルというひとは、そういう「オリジナルを忠実に再現するコピーヤーとしての能力」が、さほど高くないのである。本人に余り興味がない、というべきか。まず何より第一に彼女は、すばらしい楽曲(と歌詞と編曲)を無から生み出すことのできる、創造者、ベスト・クリエイターなのだ。次に第二に、その生まれ出てきたすばらしい楽曲の何たるかを理解し解釈することに長けた、ベスト・(ヴォーカル・)プロデューサーでもある。また、そのベスト・ヴォーカル・プロデューサとしての厳しい視点に耐えうるだけの技術を備えた、グレイト・シンガーでもある。しかし、そうやって最終的に生み出されレコードに記録された歌唱を、「どんな場所どんな時期どんな状況下においても、オリジナルに忠実に再現する」能力だけが、かなり欠けているのである。TV番組「トップランナー」において、ひとつだけ成長の遅れたペルソナがある、といっていたのは、まさにこの点であったのではないかと私は考えている。(※ あの番組で触れていた“3つのペルソナ”とは「普段の自分」「創る自分」「舞台の上の自分」のみっつだから、ちょっと解釈としては間違っているかもしれない)
しかしどうやら、彼女はその“オリジナルを忠実に再現する”という「ベスト・コピーヤー」の立場をあまり目指していないように思えるのだ。寧ろ、その場その場で感じたことを音楽に乗せて、その都度新しい何かを発見し表現する「クリエイター」としての立場で舞台上のパフォーマンスを成長させていきたい、とそう考えているようにみえる。しかしこれはもちろんリスクが大きい。もしその場で感じたことが何もなかったとすれば、そこに唄われる歌は感動させるものが何もない空虚な音の塊になってしまうだろう。フィーリングやソウルというのは、どの瞬間にどこから現れてくるものか前もっては誰にもわからないものなのである。(だからこそそれを音楽に封じ込めるのは殊更難しいし、それを音楽にすることができたときの感動は何物にも換え難いものがあるのだ。それくらいの何かがないと、彼女のように命がけで音楽に取り組んだりはしないでしょう?) 逆にそのときに大きな感情の昂ぶりがあり、更にそのフィーリングそのソウルを捕まえて歌に封じ込めることに成功したならば、それはレコードでは聴けない非常に特別なパフォーマンスとなるだろう。これは、「コピーヤー」としての立場を貫こうとすると、全く出会えないケースになる。こちらは既に「正しい答え」が決まっている中での頑張りということになるが、「クリエイター」としての立場というのは「新しい答え」を見出す頑張り、ということになるだろう。まだどこにも「100点満点の模範解答」がない中で、ひとを感動させる、人の感情を喚起する新しい何かを見つけ出す・・・これが非常に難しいことは想像に難くない。そして、それが失敗に終わったときに如何に無様になるのか、もな。
だから、(今後はどうなるかわからないけれども少なくとも今の段階では)もし貴方がまた宇多田ヒカルのコンサートに行くとするならば、CDの完全再現を期待するのは賢明ではないかもしれない。そして、もしかしたら、行ってみてそのあまりの無様さに落胆するかもしれない。しかしもしかしたら、レコードとは全く違った「新しい感動の創造の瞬間」に、立ち会えるかもしれない。これは、賭けである。まさにリスクだ。Wait&See、どうか彼女にチャンスをくれないか。一度行っただけでは、その“特別な瞬間”に立ち会えないかもしれない。どうなるかは、成功するか失敗するかは、事前には誰もわからない。落胆するか、レコードでは決して体験できない感動に巡り合えるか。そのスリルも含めて楽しめる性格のひとが、いちばん宇多田ヒカル&UtaDAのライヴを、楽しめるのではないかな~。
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追加分:
・・・といいつつも、やっぱりいろんなファンがいると思う。「コンサートには、自分のお気に入りの曲を演奏してもらうのを期待して行くんだ。ライブ独自の、とかは別にいいから、オリジナルを忠実に再現したライヴをやってほしい」という向きも、当然いるだろう。それならば、たくさん声をあげればいい。幸いなことに、WEBの発達した時代、門戸はたくさん開かれている。メールをレコード会社やアーティストに送ることも許されているし、ライヴ用のブログも開設されてコメント欄は(条件付ながら)開放されている。コンサートを見ればアンケート用紙も配られる。何だって好きなことを書けばよい。(不都合だったら向こうでちゃんと削除してくれるから、遠慮はいらないだろう(すまん、これは不適切発言だ)) そういう声を耳にすれば、Hikkiだって耳を傾けてくれるだろう。そして、全く違ったアプローチのライヴをやってみようと思ってくれるかもしれない。そこは、かなり流動的だと思う。ファンがいるから歌っている、ということは、彼女の中ではとても大きいだろうから。そういう“刺々しい進言”もまた、僕らが「UNITE(D)」するための大切な要素のひとつであることは間違いないだろうしね。そして、私の方から言わせてもらえるならば、ライヴならではの歌唱を発見しようとするクリエイター・アプローチを取ろうが、レコードのパフォーマンスを忠実に再現しようとするコピーヤー・アプローチを取ろうが、いずれにせよ彼女は、宇多田ヒカルは、必ずや全力で妥協することなくライヴに取り組んでくれる。これだけは、なぜか当人とは直接関係のない単なるいちファンの私から、自信を持っていえる。彼女は手を抜いたり適当なところで満足してしまような人間では断じてない。そこだけは、肝に銘じておいてほしい。
・・・しかし・・・もし、そういう「クリエイティヴ」な歌唱を目指すのであれば、あの「映像演出」は、音楽の首をしめ自由度を奪う、かなりの“邪魔モノ”であると僕は思う。映像の出来不出来、内容のよさ拙さを論じる前に、そもそもシステムとして、音楽に一定のテンポを要求するというのがあまりいいことではないように感じるからだ。今までも何度も書いてきたし、これからも何度も書くことをまたここでも書かせてもらうが、せっかくあれだけの一流、いや超一流のミュージシャンを集めたのだから、彼らのエモーションができるだけ表現できるだけの“自由なスペース”を、できるだけ確保したほうがいいと思うのだがどうだろうか。もしかしたら実は、Hikkiの目標はもっともっと高いところにあって、視覚的演出も一流、レコードのパフォーマンスの忠実な再現を希望する観客を納得させつつ、その上ライヴならではの特別な瞬間を観客に与えてしまうような、そんな“欲張り極まりない”目標を自らの内で掲げてしまっているのかもしれない。しかしもしそうだというなら私個人は大歓迎だ。目標は、高ければ高いほどいい。「足元を見ろ」と冷静なひとからは言われてしまうかもしれないが、まだ23歳。めちゃめちゃ若いじゃないか。老成した「無難な」パフォーマンスを目指すには、まだまだ早過ぎる。もっと高いところを見据えて、将来のため、今の自分のために、研鑚を無理強いするくらいの気概があったほうが、熱心なファンとしては面白いよ。・・・ただ、そんなExperimentalなAttitudeでライヴやるんなら、もっとチケット代安くしたほうが、いいかもしれないけどね・・・完成度自体は保証されていないんだから・・・。以上!
これって、今回のさいたま公演に通じる説得力のある要因の一つに思います。
今回は喉の調子が悪い。声が出ない。・・につきるのだけれど、本人が元来クリエーター志向であり、限りなくCDに完璧なものを求める一方で、パフォーマーとしての自分の未熟さに対して完璧にしようという情熱が少ないのではないかと思うのです。自分でも自覚していたことだけれど、公演前に自信をみせていた到達点も、他の「うたうことがその人の価値のすべてである『歌手』」に比べて、低いと思うし。(相変わらずMCはぎこちないし)まわりがつくりあげるアーティスト・歌手に比べて、本人の意思を重視して、とやかくいわない部分の大きい宇多田ヒカルチームだから、余計そこのところの未熟さがなかなか解決しない(それでもだいぶ成長したと思うが)。高い声が出ない部分のアレンジはかなり、想定はしていたがそんなに歌いこんで練習したものではなく、そのときの
つづき
・・・そのときのアドリブに近いんじゃないかと思っています。たぶん想定していた以上に声が出なかったんだと思う。MCもしゃべってると、さらに歌えなくなるという危機感で、しゃべれなかったんだと思う。まともにしゃべったの最後だけでしょ。ネット配信のときも歌えなくなるからってしゃべりを制限していたじゃない。
とにかく、歌いこんでる歌手とは、そりゃちがうのよ。宇多田ヒカルは。
それでいいのかっていう問題はあるけど、彼女は長いこと自分が歌うってことへの情熱はそれほどなかったでしょ。
それなのに、全国でこのスケジュールで喉と体力を酷使するのは、むしろファンサービスでしょう。
そしたら、今の「プロとして自覚が足りない」っていうのは、彼女には酷だわね。ただし、お金とってコンサートをしているからにはそんな言い訳が立たないのも事実で。これからは、ツアースケジュールの面で調整していくしかないのかなと思ったりします。
宇多田ヒカルの歌唱力について。読ませていただきました。
正直言いまして非常に面白かったです。
大部分で共感ていうか、うんうんと頷きながら関心して読みました。
とっても素晴らしい「宇多田ヒカル論」と言ったら怒られるかも…
何よりも宇多田ヒカルに対するiさんの愛情と
情熱がひしひしと伝わります。
宇多田の内面をiさんの文章で垣間見た気分になり、
冗談ではなく読んでいて涙腺がゆるんできたことを報告しておきます。
それでは失礼します。
このたびは、ありがとうございました。m(_ _)m
さいたま公演は、やっぱり見ておいて正解でしたわ。
2日目を見なかったこともね。不思議な取り合わせです。
> 公演前に自信をみせていた到達点も、
> 他の「うたうことがその人の価値のすべてである『歌手』」
> に比べて、低いと思うし。
この点については新しくエントリ上梓しといたので、
そちらを参照してください。「到達点」とは
少々違う視点で書いておきました。今回は短めにね。(笑)
> ネット配信のときも歌えなくなるからってしゃべりを制限していたじゃない。
これそうですよね。声を出す、っていうことについて、
「よいウォーミングアップになる」と捉える場合と、
「声が嗄れてしまうかもしれない」と捉える場合と、
両方あるんですが、彼女はなぜか後者。
スタミナに自信がないんでしょうね。
前者のように捉えられるようになれば、歌うのも楽しくなるのにな。
ツアースケジュールをどう組むか、は私はちぃとわかりません。
インターバルが長過ぎてもダメ、短過ぎてもダメ、でしょうね。
いろんな間隔で歌いながら、彼女に合ったスタイルを
研究していくことになるのかな。ただ、「歌手のプロ」に
なりたいのであれば、どんなスケジュールでも歌えるように
ならなければね。でも、その技術っていうのは、
「誤魔化し方の処方箋の結集」みたいなもんなので
(打たれ強い、ってことですからね。かわし方と守り方ですわ)
彼女の性格とは、ちぃとあわないかもしれません。
それ以前にもっとカンタンな曲選ばないとですけど。(苦笑)
> takaoさん
嬉しいおことばをどうもありがとうございますm(*_ _*)m
Hikkiが(UtaDAとして)ワシントン・ポストでインタビューを
受けたときのことばを思い出しました。
> But when someone's moved that much, it moves you.
> (でも、誰かがそんなにまで私に感動してくれてる、
> っていうその事実に、私は感動するわ。)
今、実感しています。(じーん) 特に、
「宇多田の内面をiさんの文章で垣間見た」と
言って頂けるのは、“冥利に尽き”ます。
至らないところは多々あるでしょうが、
これからもよろしくお願いしますね☆
ところで、takaoさんのコメントに感動していたら、
なぜか2年半前の「ヒカルの5」最終日のライヴレポを
読み返したくなりました。
http://www.utadarepublic.com/mtbbs/mtbbs.cgi?mode=view&no=48
今振り返ると、あたっているところもあり
見当違いなところもあり、といろいろな見方ができます。
あのときの約束を守って、こうして現在Hikkiが
ツアーしていることを考えると、感慨深くなりました。
今回僕はこのスタイルのライヴレポを書く予定はありませんが、
このときの気持ち(~Hikkiに初めて会ったときの気持ち~)を
忘れずに、文を綴っていきたいと思います。重ね重ね感謝です。m(_ _)m