名前で一番気になる点は、実は光をヒカリではなくヒカルと読む所。こんな事を気にして生きていても仕方がないのだがこちらとしては一生モンの問題なのである。一生の間に何回私がヒカルと書いたり読んだり呼んだりすると思うのか。これと同じ様な大問題にHikkiを果たしてヒッキーと読むべきかヒッキと短く切るべきかヒッキィと掻き毟る様に呼ぶべきかヒッキイと軋み鳴る様に叫ぶべきかという問題もあるがひとまずここでは立ち入らない事にする。
「ひかり」と云った時それは名詞、「ひかる」と云った時それは動詞だ。一応現在形と呼ばれる活用となるが、これはやや形容としてややこしい。元来どんな動詞も“そうでない状態からそうである状態に遷移する事”を控えめに含意する。過去の状態からの変化に対する表現に"現在形"とはいかにも片手落ちで座りが悪い。現在の状態を表現する場合は"光っている"と現在進行形にすることになるが、これも呼び方がどうにもイマイチだ。進行というと何か新しい状況が生まれるみたいだが寧ろ「光っている」というのは「(過去のある時点で)光って(現在もその状態で)いる」という意味だから進行というより停滞といった方がいい。英語で現在進行形と動名詞が同じ形(~ing)だと授業で聴いた時に「なんで?」と思ったものだが、現在停滞形と動名詞が同じ、といわれると(私に限っていえば)わかりやすい。名詞とはモノ、即ち時間的に定常で持続的な対象を指すのが基本で、時間的に変化する対象はコトと呼ぶ。
~ingが名詞化に値するのは現在進行形が状態の持続―定常な対象だからなのだ。
ひとりで勝手に納得する文章に無駄に字数を費やしたので話を大幅に元に戻すと、「ヒカリ」ならモノだった所を「ヒカル」コトを名に持っているのが宇多田光なのである。つまり、光のない状態から光のある状態への遷移、「光る」コトなのだ彼女の名前は。
ファン生活を振り返ってみると実にこれはしっくり来る。光に対する我々の印象は餅は餅屋的な「あそこに任せておけば大丈夫」「いつでも同じ品質ね」といった安定感や安心感からは程遠い、いつだって不安且つ不安定なものであり、だからこそ目が全く離せない。あの人はヒカリだからというよりあの人はヒカルから、という感じで常に変化や遷移を持つ。それが魅力なので「ヒカル」という名は実に似合っていると思う。
しかしそれ以上に示唆的なのは「光る」という言葉が前述の様に“光のない状態”を控えめに含意している点であろう。ただのヒカリという存在ではなく広大な『闇』の中から生まれてくる光、という”背景も網羅した名前“なのが何とも素晴らしい。悲しい哉、光の命とて時限有限であるから、いつかはこの光は消え去る。それまでは生きていようと思ってはいるが(どんだけ長生きする気や)、その点に自覚的であるからこそ今の光を目一杯愛せるのだ。光るが闇から帰還して又光る瞬間々々を存分にこれからも味わい尽くしていきたいと思う。
でもまぁ俺の場合お互い永遠に生きられたとしても光のコト選んで愛し続けているとは思いますがね。
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