光ツイートの「地方」という単語に食いついたメンションが幾つかあったのだろうか(私は確認できてないんだが)、すぐに『ごめんなさいね』と謝る事態になった模様だが、確かに「地方」という単語は何年も前からテレビや文字媒体でも使い控えされる様になっている。その背景があるからこの言葉はクレーマーさん達御用達だ。まだまだその背景が共有されきっていないから、クレームをつけるには格好の標的という訳だ。
何の侮蔑や中傷も含まないこの「地方」という言葉が控えられる様になるには、実際の地方に対する偏見なり差別がなくてはならないが、だからといって言葉の方を刈り取っても何の解決にもならないだろう、という言葉刈りに対する意見はもう何十年も議論され続けてきている。「地方」もそのうちのひとつだと思われる。
今、"言葉刈り"と書いたが通常は"言葉狩り"と書く所だ。私はどうにもここにニュアンスの違いを持たせたい様で、野暮ながら解説してみるともし言葉を言霊、即ち生命をもつものとして仮に捉えるならばそれが栄えたり衰えたり変化したりしなかったり交配を繰り返したりといった事の中に生命としての"狩り"が含まれているのはそれはそれで自然な事なのではないかと思うのだ。i_みたいなタイプは言葉狩りに断固反対だろうという事前の予測を覆して。
しかし、その場合補食する側とされる側はある意味において対等である。大自然の中で追う者逃げる者。たまには立ち向かう者もいるだろう。幼い頃に図鑑で眺めたティラノサウルスとトリケラトプスのように。ある言葉が他の言葉を狩って隆盛を奪い返したり逃げ切って補食者を餓死に追い込んだりするのはある種自然の摂理な気がする。ある言葉が他の言葉にとって代わるのは、好き嫌いを抜きにしてあることなんじゃないか。スパゲティがパスタにとって変わられた様に。(この例はそれ自体がクラスの誤謬という滑稽な事態なんだけど)
でも、実際に日本で行われている"言葉狩り"はそういう自然の摂理っぽいものではない、もっと管理主義的な匂いが強い。大地に根付いて今使われている言葉を毟り取り切り取る様なこの感覚は、どちらが生き残るかの"狩り"の感覚というよりは、言葉という生命をある一定の区画の中に納め込み、そこで生殺与奪を決定する農業的な"刈り取り"を思わせるのだ。
長くなるので続きはまた次回。
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