専修寺のある一身田は、「寺内町」という珍しい構造の町割がされている。室町期に専修寺がこの地に移ってきた際、寺院を中心に町づくりがされた。その際に近隣を流れる毛無川から水を引き、「環濠」という水路で町の周囲を取り囲んだのだ。その規模は東西500メートル・南北450メートル、幅は5メートルほど。当時は大寺院は町の自治権を持つことができ、戦乱期だったために寺院や町を防御するために設けられたとされる。
寺内町の出入口は3か所あり、いずれも石橋や太鼓橋がかけられ門が設けられていた。駅から専修寺へ向かってまず出くわす「桜門」は、京都方面からの玄関口。現在は赤い欄干が架けられ、「安楽橋」と名を変えている。黒門跡(右下写真)は伊勢側の入り口で、寺内町の総門になるため番所が設けられていた。もう一つの赤門は、寺内町の北東にあった。いずれも現存しないが、これとは別に専修寺の山門から続く釘貫門(上写真)は、木材を渡しただけの簡素な門と石橋が残っている。寺域と町人地を隔てる「結界」の役割を持っていたとされ、抜けると石畳の門前通りから門前町の商店街へと繋がっている。
門や環濠の史跡のほかにも、村界を示すための水路、江戸道や京道の参詣道が交わる場所の高札場と道標、聖徳太子立像を有し境内にレプリカの銅像が立つ厚源寺など、本山周辺にも見どころが多い。史跡めぐりだけでなく並行する町人地、いまの商店街も歩いてみましょう。
寺内町の出入口は3か所あり、いずれも石橋や太鼓橋がかけられ門が設けられていた。駅から専修寺へ向かってまず出くわす「桜門」は、京都方面からの玄関口。現在は赤い欄干が架けられ、「安楽橋」と名を変えている。黒門跡(右下写真)は伊勢側の入り口で、寺内町の総門になるため番所が設けられていた。もう一つの赤門は、寺内町の北東にあった。いずれも現存しないが、これとは別に専修寺の山門から続く釘貫門(上写真)は、木材を渡しただけの簡素な門と石橋が残っている。寺域と町人地を隔てる「結界」の役割を持っていたとされ、抜けると石畳の門前通りから門前町の商店街へと繋がっている。
門や環濠の史跡のほかにも、村界を示すための水路、江戸道や京道の参詣道が交わる場所の高札場と道標、聖徳太子立像を有し境内にレプリカの銅像が立つ厚源寺など、本山周辺にも見どころが多い。史跡めぐりだけでなく並行する町人地、いまの商店街も歩いてみましょう。