舞台が弘前の町外れにある食堂、60過ぎの老店主が店を開けるシーンから始まるとくれば、老舗の苦労話とか人間模様のようなストーリーを予想させる。さらに次の章では舞台は明治後期になり、この親父の先々代が屋台をやりながら、店を出す夢を描く頃の話に飛べばなおさら。
ところが本筋に入ると、舞台は現代に、しかも津軽でなく東京郊外ベッドタウンのショッピングモールへ。バルーンアートを続けつつ、将来に不安をもつ若者と、カメラマン大先生にしごかれる女の子アシスタントの偶然の出会いから、よくある「恋バナ」へ。バルーンアート君は冒頭の食堂の息子で、アシスタントの娘も津軽りんご農家の娘で、二人は何と同じ弘前の高校だった、と、なんだかお約束の展開でもある。
で、楽しい同棲生活を続ける二人に転機が。バルーンアート君は不明瞭な生き方にけじめをつけて、実家の食堂を継ぐ決心をしたところで、アシスタント娘が大先生に腕を認められて一本立ちできることに。さあ別れるのか、ついていくのか、遠距離恋愛か…? 最後はまあ、弘前さくらまつりの満開の花の下で、ほのぼの、ハッピーエンドにまとまるのだが。
面白いのは、この小説は章ごとに語り手が入れ替わる構造になっている。それもこの二人だけでなく、父親だったり、おせっかいの姉だったり、さらに時代を超えて明治期の先々代の話にもなったりする。最初は訳がわからないのが、終わりに向かうにつれてそれぞれの「代」の店主の生き方が、意外と一本につながっていくのが、なかなかうまい構造になっている。
そもそもこの話、完全フィクションではなく、青森県が定めた「百年食堂」に定義された10軒の店を筆者が取材、それぞれのドラマからストーリーを構築したという。百年食堂の定義が、3代、70年以上続けている食堂とのことで、この小説のように津軽そばを売りにしている店もある。出汁は代々、店のおかみさんがひくそうで、この話ではアシスタント娘が食堂で「お母さん、いつか私だけに出汁のひきかたを教えてください。そしてほかの女性には絶対教えないでください」というシーンが、逆プロポーズのせりふとなっている。
エピローグ前の最終話は、明治期に初代が店を開いた日の宴席。仲間の津軽塗師が祝いに、螺鈿細工の豪華抽き出しを持参。そのせりふが「これは百年はもついいもんだ。だからおめえ(初代)へやるんじゃねえ。おめえ(と嫁の大きな腹を指す)の子、つまり三代目へ贈るためのもんだ」。百年食堂、奥が深い。
ところが本筋に入ると、舞台は現代に、しかも津軽でなく東京郊外ベッドタウンのショッピングモールへ。バルーンアートを続けつつ、将来に不安をもつ若者と、カメラマン大先生にしごかれる女の子アシスタントの偶然の出会いから、よくある「恋バナ」へ。バルーンアート君は冒頭の食堂の息子で、アシスタントの娘も津軽りんご農家の娘で、二人は何と同じ弘前の高校だった、と、なんだかお約束の展開でもある。
で、楽しい同棲生活を続ける二人に転機が。バルーンアート君は不明瞭な生き方にけじめをつけて、実家の食堂を継ぐ決心をしたところで、アシスタント娘が大先生に腕を認められて一本立ちできることに。さあ別れるのか、ついていくのか、遠距離恋愛か…? 最後はまあ、弘前さくらまつりの満開の花の下で、ほのぼの、ハッピーエンドにまとまるのだが。
面白いのは、この小説は章ごとに語り手が入れ替わる構造になっている。それもこの二人だけでなく、父親だったり、おせっかいの姉だったり、さらに時代を超えて明治期の先々代の話にもなったりする。最初は訳がわからないのが、終わりに向かうにつれてそれぞれの「代」の店主の生き方が、意外と一本につながっていくのが、なかなかうまい構造になっている。
そもそもこの話、完全フィクションではなく、青森県が定めた「百年食堂」に定義された10軒の店を筆者が取材、それぞれのドラマからストーリーを構築したという。百年食堂の定義が、3代、70年以上続けている食堂とのことで、この小説のように津軽そばを売りにしている店もある。出汁は代々、店のおかみさんがひくそうで、この話ではアシスタント娘が食堂で「お母さん、いつか私だけに出汁のひきかたを教えてください。そしてほかの女性には絶対教えないでください」というシーンが、逆プロポーズのせりふとなっている。
エピローグ前の最終話は、明治期に初代が店を開いた日の宴席。仲間の津軽塗師が祝いに、螺鈿細工の豪華抽き出しを持参。そのせりふが「これは百年はもついいもんだ。だからおめえ(初代)へやるんじゃねえ。おめえ(と嫁の大きな腹を指す)の子、つまり三代目へ贈るためのもんだ」。百年食堂、奥が深い。