出雲市駅の目の前にある、日帰り温泉施設「らんぷの湯」
●まるで山中の一軒家のような秘湯、ここは一体どこでしょう?
総檜の浴槽に体を浸すと、含鉄泉の茶色の湯がひりひりと染みてくる。ランプがぼんやりと灯り、まるで秘湯の湯小屋のような雰囲気の中、浴槽の縁を枕に、高い屋根の立派な梁を見上げながらごろり。露天には竹林を望む箱風呂もあり、こちらでも足を伸ばしてゆっくりと長湯を楽しむ。真上に青空と雲が広がり、時折吹く風が竹林をざわざわと揺らしていく。
出雲大社を参拝して、昼食に出雲そばを賞味してしたところで、鳥取から松江、出雲と巡った4日にわたる食紀行も、全行程が終了となった。帰りの寝台特急は出雲市駅を夜の19時発だから、まだ半日以上時間があるけれど、もうどこも巡る気も、何も食べる気も起こらず、列車の発時刻までボーっとしていたい。
で、選択したのが半日に及ぶ「温泉浸け」だ。やってきたのはご覧のように、出雲市駅からはるばる山間に分け入った一軒家の秘湯、ではなく、何と出雲市駅のすぐ駅前。「出雲駅前温泉らんぷの湯」という日帰り温泉施設で、駅から徒歩1分、入浴料数百円で、こんなしっとりした風情の温泉を楽しめるのだ。ちなみに露天の竹林のすぐ裏は、JR山陰線の高架が走っており、湯船に浸っていると時折、ディーゼルカーのエンジン音や、「まもなく2番線に…」と出雲市駅のアナウンスも聞こえてくるのはご愛嬌である。
旅が終わりに近づき、あとは帰京するだけ、となると、何だか後ろ髪を引かれるような、あともう1泊したいな、と名残惜しくなるような、ちょっとダウナーな気分になりがちだ。自分も、最終日の夜にも勢いでもう一泊して、夜に最後の豪遊(?)を満喫、翌日朝イチの飛行機や新幹線で帰京して、そのまま仕事へ向かう、などと、往生際の悪い旅行をすることもしょっちゅうである。
特に、東京と夜行列車が結んでいる土地に旅行する際は、最終日の夜に夜行列車、しかも個室寝台車を利用することが、旅の締めくくりの秘かな楽しみである。札幌発の「北斗星」、青森や弘前からの「あけぼの」、高松からの「サンライズ瀬戸」あたりは、B寝台個室のヘビーユーザーを自認するほど。列車に揺られて窓を流れる夜景を眺めつつ、個室で気兼ねなくラストナイトの酒盛りに興じ、酔っ払ってそのまま寝てしまう… 旅を生業とするものとして、これに勝るものはない至福の一夜、とまで書くとおおげさだろうか。
●旅の最終イベントは、個室寝台車での酒宴
近頃はシャワーつきの寝台特急も増えてきたけれど、夜行列車に乗る前にひとっ風呂浴びて、駅弁と酒と肴を買い込んで、いざ乗車、というのが、私の流儀(笑)。2時間以上ものんびりと温泉に浸ったおかげで、旅の疲れがすっかりとれたどころか、かなりゆだり気味になってしまった。即座に風呂上がりの缶ビールをグッといきたいところを我慢して、ちょっと早いけれど夜行列車の酒宴の仕込みを、始めるとしよう。
駅周辺を見た感じ、構内には物産店と駅弁売り場、あと駅前に1軒コンビニがある、といった具合。下見がてらぐるりと一巡してみると、それぞれで扱っているものが若干違うようで、うまいこと組み合わせて手ごろな出費でまとめたい。
まずは弁当から。改札口前の駅弁売り場に「名物・出雲そば弁当」があるけれど、出雲そばは本日2食頂いたので、もう充分だ。ほかには幕の内ぐらいしかなく、地元ならではの物が見当たらない。
ご飯ものはコンビニの弁当かおにぎりでいいか、と後回しにして、先に酒の肴を求めて物産店へと移動。ここは郷土の土産物の売店がずらりと並んでおり、地元の名物には事欠かない。ただし基本的に持ち帰り用の土産のため、瓶詰めとか真空パックとか、量が多い上に列車の中で空けて食べるのには向かないのが難点。佃煮3種の箱詰めセットとか、瓶入りの珍味詰め合わせとか、魅力的だけれど中途半端に開封したら、残った分の扱いに難儀しそうだ。
するとうまいことに、様々な珍味の瓶詰めを、1本売りしている乾物屋を発見。何と、シジミの甘露煮の瓶詰めがある。そしてその隣には、10本ほど入ったアマサギの佃煮まで。どちらもちょうど、夜行列車の旅の晩酌の肴に食べ切りサイズといった、適当な量がうれしい。しかもシジミもアマサギも、宍道湖でとれる名物魚介「宍道湖七珍」だから、実に地元ならではの酒の肴だ。もちろん両方とも買い求め、さらに図々しく「寝台車の中で食べたいんで…」と、紙皿と割り箸までつけてもらう。
先に肴が揃ったところで、お次は酒の入手だ。長旅お疲れ様に乾杯用の缶ビールは、乗車する直前に冷えたのを買うとして、じっくり腰をすえて呑む地酒を選ぼう。駅前のコンビニは酒も扱っており、大手メーカーの日本酒に並び、小ぢんまりながら出雲の地酒コーナーがあるのはさすが。市内の旭日酒造の「十(じゅうじ)旭日」冷酒が、程良く冷えて買い手を待っているので、これを指名。もちろん、レジでの支払いの際に、「寝台車の中で飲みたいんで…」と、プラカップもしっかり頂いた。
このコンビニ、よく見かける大手チェーンなのだが、地酒のほかにもこの地方の名物を、いくらか揃えているのがありがたい。おにぎりか牛丼弁当あたりを買うつもりで、弁当のコーナーを覗いてみると、それらに混じり境港の焼きサバ寿司なんてのが。境港で屈指の水揚げ量を誇る、脂がほどよくのった地サバを焼き、ご飯の上にのせたもので、米子空港の「空弁」として有名になった、隠れた名物である。もちろん、おにぎりは回避して、締めご飯にこれを1本、購入。
さらに練り物がいっぱい並べられた出口近くのワゴンでは、これまた山陰の特産の「あごちくわ」を見つけた。「あご」とはトビウオのことで、弾力があり甘みも豊かな、この地方独特の練り物。かむほどに味が出るため、酒の肴にはもってこいで、ついでに2本買ったところで酒宴の仕込みは無事、完了となった。これですっかり、今宵の陣容が整った。
●流れる景色を見つつ、オールナイトで盛り上がるつもりが…
コンパクトだが居心地がいい、「サンライズ出雲」のB寝台個室
両手に酒宴のための大荷物をぶら下げているため、もう歩き回るのは億劫だ。早めにホームに上がってベンチで待っていると、日がすっかり暮れた頃にようやく、「サンライズ出雲」号が進入してきた。指定券を片手に車内へと入り、進行方向日本海側の2階の個室寝台に腰を据えて、旅装を解くと同時に「巣作り」開始。ベッドメークを自分で行い、旅の荷物の置き位置を決め、窓枠にドリンクを並べ、小テーブルに肴を広げて、と、発車までの数分間は大忙しである。発車ベルが鳴る頃には、狭い個室寝台の中は小粋なバーに早替わり、とまではいかないものの、手の届く範囲に酒に肴、新聞も雑誌もすべて配置され、なかなか機能的な酒盛りスペースが完成した。ベルが鳴り終わり、ガクンとひと揺れして列車がホームをすべり出して、車内検札にやってきた車掌に切符を見せたら、明日の朝東京駅に到着するまで、もう部屋から一歩も出るものか。
サンライズ出雲は比較的新しい寝台列車で、個室は木調の内装が落ち着いた雰囲気である。個室、といっても横になって寝る程度のスペースしかないけれど、曲面ガラスが大きくとられた窓は開放的で、意外に圧迫感がない。窓際に進行方向に向いて縦に横になっていると、しばらくして車窓に闇の宍道湖が見えてきた。まずはビールとあごちくわで、長旅お疲れ様の乾杯。宍道湖が見えていることだし、と、同時にシジミの甘露煮にアマサギの佃煮も開けて、「十旭日」もプラカップに注いでしまおう。
闇に流れる明かりを追いながら、窓にもたれて酒を呑む。酔いが廻ったらそのままゴロンと転がると、曲面ガラスの向こうに今度は星が流れていく。そんな具合に、個室寝台車の至福の時を楽しんでいると、列車の揺れに合わせて時折、ガクンと転落するような睡魔が襲ってくる。宍道駅で山陰に別れを告げ、伯備線で山間部へ入っていったあたりで、十旭日を空にしたようだが、あまりよく覚えていない-。
左から十朝日、アマサギの佃煮、シジミの甘露煮、焼き鯖寿司
-長旅の疲労もあるし、半日近く温泉に浸かっていたのだから、酔いの回りがいいのは当然のこと。岡山到着は夢うつつで、その次に気がつくと、車窓には朝日にきらめく相模湾! すでに夜は明け熱海を過ぎており、楽しみにしていた個室寝台列車での酒宴は、期せずしてわずか1時間ちょっとでお開き(となってしまっていたらしい)。小テーブルには半分ほど残ったシジミの甘露煮の瓶に、手付かずのままの焼きサバ寿司が。焼きサバ寿司は仕事場で朝食代わりに、残ったシジミは今夜、自宅に帰ってから旅の余韻に浸りながら頂くとするか。洗面所で顔を洗い、荷物を片付けて個室に戻ると、列車は小田原を過ぎたところ。2階の寝台個室から通過する駅を見下ろしていると、どこもスーツ姿のサラリーマンであふれんばかりだ。すっかり東京の通勤圏、ちょうど通勤ラッシュの時間帯で、ゆったり特急列車からささやかな優越感を感じつつ、否が応でも旅の終わりを痛感する。東京駅に到着するまでにしっかり切り替えて、今日からまた、がんばって働いていこう。(2006年9月26日食記)