大西巨人といえば、あまりにも長い小説「神聖喜劇」が有名です。
これは第二次大戦中の対馬守備隊を舞台に、驚異的な記憶力を持つインテリの新兵が、その記憶力と法的知識を武器に、上官らと対決する姿をとおして、旧日本軍、ひいては組織全般が持つ非人間性を提示してみせたもので、長く緻密な描写と神学論争とも言うべきディスカッションが延々と続き、正直、面白くありません。
私はそもそも理屈が勝った小説を好みませんので、辛抱たまらず途中で投げ出し、幻冬舎から出ている漫画版でどうにか読みとおした記憶があります。
しかしこの作者が「神聖喜劇」を発表する以前、俗情との結託を排する文学論を唱えていたことを思えば、その面白みのなさも納得できるところです。
俗情とは、人情、あらゆる欲望、社会世相など、人間が生きる要素すべてと言っていいでしょう。
すなわち文学とは俗情を描くものであるとも言え、俗情との結託はいわば文学の必然というべきものです。
しかし大西巨人は、俗情との結託である文学・芸術を批判しています。
その結果現れるのが、俗情と乖離しながら俗情らしきものを客観的に提示し、なんらの解釈も加えず、面白そうでもなく、感動的でもなく、ユーモラスでもない、というアンチ文学のような文学であると言わざるを得ません。
通常の物語愛好者がこのような作品を好むわけもなく、この作者は一部マニアから神のように崇められながら、一般読者を得られずにいました。
それが数年前、漫画化され、さらにNHKでこの作品に関するドキュメンタリーが放送されるや、にわかにその名が轟き、若者を中心に多くの読者を得るにいたりました。
じつは私も、その高名は知りながら敬遠していたところ、多くの人が興味を持つくらいのものには念のため接してみようと、ゆっくりと読み始めたのです。
私には、俗情との結託を批判する気持ちというのは、単なるひねくれ者の屁理屈としか思えません。
仮にそれが文学論として一定の価値を持っているのだとしても、そもそも読むことが苦痛であっては意味がありません。
俗情との結託から離れたければ、一人山中に籠って修行でもすればよろしいでしょう。
しかし山中には山中の、孤独には孤独の俗情があり、どこまで行っても人間が俗情から離れることなどできようはずもなく、だからこそフィクションくらいは俗情から離れたい、といっても、そこには一見俗情から離れたらしく見える、しかし俗情との結託でしかない中途半端な作品が生まれざるを得ないでしょう。
最後は好みの問題になってしまうので、私のように擬古典調の浪漫文学や幻想文学を好む者には、どうしても受け付けない、ということしか言えません。
ただし、長い間一部マニアのものだったこの大作が、ここ数年ばかり多くの人にもてはやされるようになったことに、時代の変化を感じずにはいられません。
神聖喜劇〈第1巻〉 (光文社文庫) | |
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