今朝は5時半に目覚めてしまいました。
折角の土曜日、朝寝を楽しみたかったのですが、目が冴えてしまったので起きました。
まずは朝風呂。
その後朝飯を食らって、内科に行きました。
3週間に一度、コレステロールを下げる薬をもらうためです。
近頃数値が安定しているので、3分診療です。
帰宅して新聞をじっくり読みました。
米国のバイデン大統領、自爆テロに対する報復を宣言していましたが、結局、米軍がいなければアフガニスタンの平和は保たれないということがいみじくも証明されてしまいました。
人間なんて愚かな生き物ですね。
殺したり殺されたり。
同じ種類の動物で、互いに殺しあうのは人間くらいではないでしょうか。
しかもはるか昔から今にいたるまで、戦争が絶えたことなどありません。
これからもそうなんでしょうねぇ。
しかし、大国同士がガチンコで戦うということは起こらなくなりました。
二つの世界大戦から学んだというより、核兵器の開発により、簡単に戦争を始めることが出来なくなったのだと思います。
核兵器を無くしてしまったら、また昔のように大国同士が戦うことになるのかもしれません。
核兵器は使えない兵器ですが、それを敵対する国同士が互いに所有することによって、平和が保たれるなら、あったほうが良いのかもしれません。
たとえ恐怖による平和であっても、実際に戦うよりははるかにマシです。
最近、中国が台湾を武力によって奪うのではないか、という記事をよく見かけます。
そうなったら、米国はわが国の米軍基地を拠点にして中国軍に相対することになるはずで、わが国も無傷ではいられません。
中国もそこまで馬鹿だとは思いませんが、独裁国家であるがゆえ、独裁者がやれと言えばやるんでしょうね。
独裁者は段々狂っていくものですから。
その時、わが国はどういう態度を取れば良いのでしょう?
米国と一緒になって戦うのか、後方支援のみにするのか、あるいは我関せずと、何もしないのか。
何もしないという選択肢はないでしょうね。
わが国に所在する米軍基地にミサイルが飛んでくるかもしれませんから。
そうすると米軍に協力せざるを得ないでしょう。
中国が領土的野心を捨てるとは思えませんし、米軍が人民解放軍よりも圧倒的に強いわけではありますまい。
そうなると、わが国や東南アジアやインドなどが、中国包囲網を作り上げるしか手はないように思います。
こういうことを考えるのも、私が戦いを好む人間という種だからで、狂気に満ちた人々の中にあって、一人正気ではいられません。
狂人が圧倒的多数を占めるなら、それがまともということになります。
そうやって、連合国も枢軸国も、狂気の沙汰に陥って、愚かな世界大戦を繰り広げたのでしょう。
もし有事が起こるなら、狂気に陥ることなく、平和的に問題を解決してほしいものです。
今日で5日間の休みも終わり。
少し、落ちています。
今日は終戦記念日もしくは敗戦記念日。
76年前のこの日、大日本帝國は敗戦の憂き目にあいました。
誠に悔しい日、屈辱を忘れず、必ずや復興してみせると、新たな気概に燃える者も多かったでしょうが、平和教に転向した愚か者も数多くいました。
特に国防婦人会などで頑張っていた女性ほど、時代の流行りにあわせて、突如として平和を言い立てる姿は醜かったと、戦争協力を断固拒んだ文化人たちの多くは、簡単にお宗旨替えをした人たちを嫌いました。
戦争協力を拒んだ多くの文化人たちを昨日まで非国民と呼んでいたのが、一夜にして戦争反対を貫いた信念の人、などと同じ人物が言うのですから気色悪いというものです。
多くの文化人が戦争協力を反省する声明を発表するなか、小林秀雄は、「私は馬鹿だから反省などしない」と一言だけ
残しています。
総力戦を戦う以上、どこの国でも自国の勝利を信じて突き進むのは当然のことです。
より多く殺し、より多く破壊した国が勝つのですから。
平和教はおかしげな宗教のごとく、わが国を蝕み、一時は非武装中立なとという、実現不可能な夢をおいかける政党もありました。
さすがに今はやや理性的になったのか、そういう人はごくわずかになりました。
私は平和教に毒されることはありませんでした。
それよりも、外国相手に負けたことのなかったわが国が敗れたことは、誠に残念に思います。
米英相手に総力戦をしかけても勝てないことぐらい、時の政治家や官僚、軍人は分かっていたと思うのですが、米英の苛烈な要求に耐えられなかったのでしょうね。
それにわが国が屈辱的な要求を飲んだとしても、米国は太平洋をわが物にせんと決意していたわけで、太平洋で最も邪魔で、敵対する大日本帝國を完膚なきまでに叩き潰すことを決意していたのですから、和平交渉が決裂するのは当然だったと言えましょう。
そしてそれは成功し、わが国が独立を果たしてなお、軍事的には支配し続けるという、恥知らずな行為にでて、それは今も続いています。
だらしないことにわが国もそれを仕方ないこととして、受け入れています。
私は夢想します。
わが国が真の独立を果たすことを。
米軍が完全に日本から撤退し、わが国は自存自衛の国となることを。
そして誰にも手が出せないほどの強力な軍隊を持ち、誰も手がだせないゆえに平和が続くことを。
書生論と笑われそうですが、それでもかまいません。
理想を失ったら、人間は誠実に生きることがなくなるのですから。
今日は広島に原爆が落とされた日。
もう76年になるんだとか。
じつは、私は原爆、火事場泥棒的なソ連の参戦、敗戦と続く8月の報道が大嫌いです。
なにやら感傷的に、平和が大切です、みたいなことをオウムのように繰り返す、その思考停止ぶりが。
平和を維持するには、利害が複雑に絡まりあった国際社会において、互いをけん制しあい、脅したりすかしたりして、危うい均衡の元に不断の努力を永久に続けるより他ありません。
非常に面倒くさいことです。
面倒くさいことを続けるしか、平和の維持はあり得ません、
平和平和と阿保陀羅経のように繰り返すのは、馬鹿げているというか、滑稽ですらあります。
それは自己満足でしかありませんし、平和の維持には1ミリも役に立ちません。
私は母が5歳の時に長崎で被爆した被爆2世です。
母は80歳を超えてなお元気ですが、被爆者手帳を持ち、都営バスや都営地下鉄は無料で乗れるそうです。
しかも実家の最寄り駅は都営新宿線なので、被爆者手帳が多いに役立ちます。
母は爆心地から離れた場所で被爆したと聞きました。
そういう人になぜ被爆者手帳が交付されるのでしょうね。
母からは、被爆者団体が発言力を持つためには、被爆者はなるべく多いほうが良いからだ、と聞きました。
一種の圧力団体ですな。
しかし当然のことながら、被爆者は高齢化し、年々亡くなっていきます。
私が生きているうちに、最後の被爆者が亡くなりました、なんていうニュースを見ることになるかもしれません。
それなのに、被爆者団体の発言力を維持しようなんて、無理なことです。
国家のために犠牲になったことは間違いありませんが、原爆被害者は、他の通常兵器で亡くなった方々よりも、不当に手厚く処遇されているような気がしてなりません。
戦争被害者のなかのエリートみたいな。
原爆だろうと、鉄砲の弾だろうと、焼夷弾だろうと、戦争で亡くなったことに違いはないのに。
義母は東京大空襲で実母と妹を亡くしており、義母が生き残ったのは、奇跡的なことだったようです。
義母も、原爆で亡くなった人と、東京大空襲で亡くなった人の扱いが違い過ぎる、と言って憤慨しています。
人は自分の経験と、自分の考えでしか、物事をとらえることはできません。
それは戦時下という非常事態でも同じこと、いや、非常事態だからこそ、余計にそうなのだとも言えるでしょう。
同じ戦争で亡くなった人の遺族同士が、こっちのほうが悲惨だったとか、向こうは楽だったとか、そんなことを言うのはなんだか悲しいことですね。
私たちの世代は、親が幼い頃戦争体験をしている人が多いことと思います。
親や祖父母の話を聞くことで、戦争を追体験してきたと言っても良いかもしれません。
しかし、いくら語り継ごうが、必ず記憶は風化します。
風化させない、と頑張ってみても、ただの歴史的出来事になってしまいます。
そうでなければ、過去の記憶に囚われて、にっちもさっちも行かなくなるでしょう。
やがて学校の歴史の授業で学ぶとか、ドラマを見るとか、戦記文学を読むとか、その程度になっていくでしょう。
風化するのも悪くありません。
それが、時間が経つということですから。
今日は昨日と打って変わって自宅でのんびり過ごしました。
お休みの日の昼食は外食が多いのですが、今日は珍しく、出前をとりました。
チャーハンとシウマイです。
まずは休日恒例の昼酒。
シウマイでビールのロング缶を一本やりました。
暑い日に冷房の効いた部屋で飲むビールは格別です。
ビールで腹が張ったのと、チャーハンが多めだったので、チャーハンは同居人と半分づつ食しました。
さらに、沖縄の友人から送られてきたマンゴーをいただきました。
食後は眠くなり、昼寝。
こんなことを続けていたら、太ってしまいますね。
コロナ太りという現象が、自分にも起きているようです。
今夜は東京オリンピックの開会式だそうですが、今回の大運動会、大丈夫ですかねぇ。
コロナもそうですが、暑さも。
コロナ前は、もっぱら東京の暑さを問題視する声が多かったように思いますが、コロナでかき消された感じです。
選手が一人でもコロナで亡くなったり、暑さで体調に異変を来したりしたら、それでもう東京大会は失敗と言わざるを得ないでしょうね。
復興五輪だのウィズコロナの五輪だのと言われていますが、後世、東京大会は暗黒のオリンピックとして語り継がれるのではないかと心配です。
マスク、手洗い、手指の消毒。
今や日常生活で必須のこと。
これが効くと思ったのは、1年以上風邪をひいていないこと。
今までは、風邪をひいたりインフルエンザに罹患したりして、年に2回くらいは寝込んでいたのですが、コロナ騒ぎが起きてから、1年以上、健康です。
コロナが流行って健康になるなんて、皮肉なものですね。
この時期に発熱を起こしてはいけない、という気合みたいなものも大きいのかもしれません。
高熱でも出そうものなら、職場からは出勤停止を命じられ、それはPCR検査で陰性が証明されても、しばらくは続くでしょう。
今、東京では何度目かの緊急事態宣言が発令されていますが、最初の緊急事態宣言の時に比べて、都民の行動はずいぶん緩くなりました。
渋谷のスクランブル交差点も、浅草寺の雷門前も、閑古鳥が鳴いていたのが、今では結構な人出です。
慣れというのは怖ろしいですね。
私たちの職場でも、緊急事態宣言が出たときは、全員在宅勤務を命じられたものです。
それが今では、出勤するのが当たり前になりました。
そして、オリンピック。
緊急事態宣言を発出して、酒は飲むな、外で飯食うな、外出するな、人込みを作るな、なんて言っておきながら、世界大運動会は開催するのですね。
どういう理屈だかよく分かりません。
選手、報道陣を含め、何万人もの人が東京をはじめとする競技場各地に続々と入って来ています。
これでコロナは爆発的に広がるものと私は思っています。
おそらく、日本株、もしくは東京オリンピック株とでも言うべきものが発生し、猛威を振るうのではないでしょうか。
そうなれば、東京オリンピックは大失敗ということになり、オリンピックの歴史で暗黒大会と呼ばれることでしょう。
そうならなければ良いですが、過去、人が集まれば必ずコロナが爆発的に増えるということは分かり切っています。
政治指導者は何が何でもでもオリンピックを開催したいようですが、さらなる延長、もしくは中止を考えるべきでしょうね。
今さら遅いかもしれませんが。
英国はまだまだコロナ患者が大勢いるにも関わらず、あらゆる規制を撤廃したとか。
ワクチンで重症化を抑え込み、例えばインフルエンザのように、人類と共生する社会を目指そうということのようです。
意図は分かりますが、時期尚早のような気がします。
コロナ疲れが国民の間に広がり、飲食店やそれに連なる酒屋や魚屋などが、悲鳴を上げているどころか、バタバタと廃業に追い込まれていると聞きます。
私はそれが一番恐ろしい。
わが国の豊かな食文化が、死んでしまいます。
わが国民は食については冒険家。
多くの国が、自国由来の食事ばかりを摂っている、保守的な舌を持っているそうですが、わが国は中華やフレンチは言うにおよばず、イタリア料理、スペイン料理、トルコ料理、インド料理、広い意味での東南アジア料理が人気で、都会にはそういった店がたくさんあります。
もちろん、寿司屋、天ぷら屋、懐石料理店などなど、日本料理の店も。
それらが軒並み廃業に追い込まれたら、私の愉しみの7割くらいは失われてしまいます。
世界大運動会、どうか中止してください。
それが無理ならもう一年延期を。
今オリンピックを開くことがどれだけ危険か、政府のみなさんは国民よりもはるかに多くの情報を持っているわけですから、よくご存知なのではないですか。
今朝、新聞を読んでいたら、信じられないお粗末というか、外交的非礼というかを、お隣、韓国がしでかしたという記事を見つけました。
なんでも韓国の文大統領、英国で行われたサミットの帰りに、オーストリアに寄って、かの地の大統領と会談したそうなのですが、それを広報するため、インスタグラムに写真をアップしたのはよいとして、なんと韓国国旗とオーストリア国旗を掲載すべきところ、間違えてドイツ国旗を並べてしまったとか。
オーストリア政府は呆れるばかりだとか。
オーストリアは第二次大戦の少し前にナチス・ドイツに併合されて、終戦までドイツの一員でした。
オーストリア人の多くが、ナチの親衛隊(SS)に入隊したりして、大いにドイツ国民としての務めを果たしたと言います。
いつだったか、元SSの隊員がオーストリア大統領に就き、諸外国から批判を受けながら、オーストリア政府はそれら批判になびくことはありませんでした。
で、韓国。
韓国は第二次大戦のはるか前にわが国に併合され、半島の人々は日本人ということになりました。
第二次大戦においても、当然、大日本帝國臣民として働きました。
無理やり働かされたという半島人もいますが、それならなぜ、戦後何十年も黙っていたのでしょうね。
不思議です。
ドイツに併合されたオーストリアと、大日本帝國に併合された朝鮮。
どちらも敗戦国なのですが、韓国人はどういう理屈か知りませんが、自らを戦勝国の一員と自称しているそうですね。
もちろん、英米支ソ等の、我が国とガチンコで、血で血を洗う戦闘を繰り広げた本当の戦勝国は、韓国は戦勝国の一員などという馬鹿げた主張を、無視しているだけです。
大日本帝國に属していた地方が、なぜ戦勝国なのでしょうか。
解せません。
オーストリア国旗を掲げるべきところ、ドイツ国旗を掲げるということは、韓国国旗を掲げるべきところ、間違えて日の丸を掲げるようなもの。
もしオーストリア政府がそのような写真をSNSにアップしたならば、韓国の人々はどういう反応を示すでしょうね。
これまでの態度から、推して知るべしといったところです。
そもそも同じ大日本帝國に支配された台湾は、なぜそのことをもってわが国を責めないのでしょうね。
李元総統などは、京都帝国大学を卒業し、かつて日本人であったことを誇りにし、日本人が失ってしまった日本精神は、台湾でこそ生き残っている、と述べたそうです。
韓国と台湾、同じ国の統治を受けたとは思えません。
韓国はわが国のお隣。
面倒ですが、良好な関係を築くに越したことはありません。
それには、かつて大日本帝國に併合されたことを、いつまでも恨みがましく言い立てるのを止めるのが前提でしょうね。
西洋列強に国土を蹂躙された、アジア・アフリカの国々は、今さら旧宗主国を責め立てたりしていません。
そんなことをしても何の得にもならないし、なんだか馬鹿げているからでしょうね。
韓国はもはや先進国並みの国家に育ったと言ってよいと思います。
振る舞いを改めないと、国際社会から、先進国としての待遇は受けられないと思います。
もったいない話です。
頑張れ、韓国人。
私は高脂血症のため、3週間に1度、内科に通っています。
今朝がそうでした。
ワクチンの接種券が届いたなら、真っ先に打ってくれるとのこと。
理由は基礎疾患があるから、だそうです。
高脂血症というのは基礎疾患にあたるんですねぇ。
あまり意識したことはありませんでしたが。
で、ついでに同居人にも同じ時期に接種してほしい、とお願いしたところ、渋い顔。
同居人は風邪で数回診てもらっただけで、掛りつけとは言えないからだそうです。
医師は掛りつけの患者以外、接種する気はないそうで、代わりに集団接種会場を紹介してくれました。
近所にもう一軒内科があるのですが、こちらは正反対。
接種券がなくても、掛りつけでなくても、年齢に関係なく、接種してくれるとあって、若者からお年寄りまで、毎日病院のまわり、とぐろを巻いています。
外で立ったまま何時間も。
それを我が掛りつけ医はさんざんディスッテいました。
患者一人一人を大事にすれば、雨が降ろうと外で立ったまま待たせるなんてことは出来ないし、そもそも接種券もないのにワクチンを打つなんてあり得ないことだと。
多分近所の内科にも言い分があるでしょう。
望む人には誰でもいつでも打ってあげる、みたいな。
しかしそれでは、何のための接種券かということになります。
小さなクリニックでもこんなに対応に差があるのでは、公平な接種なんて望むべくもないでしょう。
小さな町のどたばた劇。
私はそれを笑いながら見るしかありません。
近頃、多様性ということがよく語られます。
人間というのはとても多様なものだと。
また、格差ということも言われます。
経済的な面、学力などの面、様々な格差があって、容易には変化できないものです。
それに、看過できない差別。
多様性とか格差、差別とかいうのは、違いを強調した物言いです。
一方で、ある社会、民族に強く根付いている風俗、習慣もあります。
宗教だったり道徳律だったり。
それらを文化と呼ぶのだと思います。
我が国では、宗教と言えば仏教と神道のちゃんぽん。
ちゃんぽんと言えども、多くの日本人は神社に行けば二礼二拍手一礼の作法を守り、寺に行けば手を合わせます。
これらは、違いではなく、文化の同質性を表しています。
もっと分かりやすい例で言えば、我が国では家に上がるとき、靴を脱ぐということ。
かつては役場や会社でも靴を脱いで執務していたと言いますし、百貨店でも初期は靴を脱いでいたそうです。
今でも、病院などでは靴を脱ぐことが多いですね。
現在では職場では大方靴を履いていますし、百貨店もそうです。
しかし、住まいでは、圧倒的多数の日本人が、靴を脱いで生活していると思います。
家に土足で上がるということは、日本人の感覚で言えば、とても不潔で、気持ちの悪いことです。
太平洋の島国など、常夏の国では、靴を脱ぐもしくは履かないということが見られますが、そこそこ寒い我が国で靴を脱ぐというのは、欧米人からは奇妙に見えるようですね。
靴を脱ぐという行為、また脱がなければ気持ち悪いという感覚、これは文化による同質性という縛りだと思われます。
お金持ちも貧乏人も、ゲイもストレートも、右翼も左翼も、日本人は靴を脱いで家に上がります。
文化の同質性ということは、侮れない強い力をもって、私たちを縛っています。
あまりに強いので、日本にいるかぎり、意識することすらありません。
しかし私は、同質性のぶつかり合いが、多様性を呼び、それはとてつもなく大きな力を持ち、人々を新たに律するのだと思います。
であるならば、人々はそれぞれの社会や民族が持つ同質性を重視し、守らなければなりません。
そうでなければ、文化の多様性の一角を担うことは出来ず、文化的に滅んでしまうでしょう。
自国や民族、さらには自分自身に強い誇りを持って、自国の同質性を守ってこそ、国際化に繋がると思います。
かつて石原慎太郎は、「真にNationalなものしか、Internationalには成り得ない」と喝破しました。
慧眼だと思います。
我ら、靴を脱ぐ民族だと、高らかに宣言いたしましょう。
昨夜、テレビを見ていたら、近頃テレビニュースに出ずっぱりの尾身さんと、若手?お笑い芸人との対談というのをやっていました。
若手と言っても35歳というので、微妙な年齢ではあります。
そこで70代前半と思われる尾身さんを驚愕させたのが、「若者は新聞も読まないしテレビも見ないから、緊急事態宣言が発出されていることを知らない人が多いと思う」という発言。
私もびっくりです。
テレビでニュースを見なくても、新聞を読まなくても、ネットで緊急事態宣言が出されていることくらい知るのではないか、という疑問がわきました。
某お笑い若手芸人が言うことが本当だとしたら、1つコロナに限らず、多くの重大ニュースを知らない可能性が高いですね。
インターネットで得られる情報は膨大で、その中から自分が見たいものだけ見ていれば、世間で重要とみられている事実にあえて触れないということが起こり得るということでしょうか。
私が小学生の頃は、子供はテレビを見すぎるといって問題にされていました。
中学生くらいから、今度はテレビゲーム(ファミコンと言っていました)のやり過ぎが問題視されました。
今、ネットの見過ぎはさほど問題にされていないように感じます。
私もネットは見るし、情報量が膨大で、便利なものだと思います。
その情報量の膨大さから、一部の人にとって有意、もしくは面白いものと、重大ニュースが一致しなくなったのでしょうね。
そうすると、テレビや新聞にとって弊害とも言えた、ニュースを取捨選択する時点で、すでに報道の公平性は失われているという特徴が、逆に強みになってきたと言えるかもしれません
今、例え15分のニュース番組でも、コロナに触れない日はありません。
新聞もまた然り。
見る者読む者に対し、強制的にある限られたニュースを提供すること。
これがマスコミの恐ろしさで、第四権力と言われる所以です。
しかし、ニュースを享受する者が、いわゆるマスコミではない、個人発信みたいなものばかりを見ていたとし、それが多数を占めるとき、第四権力は崩壊してしまうでしょう。
それ自体は結構なことです。
私も職場で時折接するマスコミ関係者は横柄な人が多く、要求ばかりで、不快な思いをしたこと1度や2度ではありません。
しかし、マスコミが力を失うことで、大政党などの本当の権力が暴走することはないでしょうか。
私は大のマスコミ嫌いですが、それなりの役割はあると思っています。
そのうち、読書をする子供を褒めるように、テレビを見るなんて偉いね、と褒められる時代がやってくるかもしれませんね。
いや、すでにやってきているのかもしれません。
上記の若手お笑い芸人が言うことが本当だとすれば。
家に閉じ籠っているのもいい加減飽きて、繁華街に出かけなければよいのだろうと、ご近所を2時間あまりも散歩しました。
散歩の途中、喫茶店に寄って、パンケーキと珈琲の昼食をとりました。
私としてはかなり珍しい昼食です。
まぁ、たまにはよいでしょう。
昼食をとって元気になり、さらに歩き回りました。
歩くと言ってもただの住宅街。
しかし、近くても普段歩くことのない所ですから、なかなかに興味深いものでした。
連休も明日で終わり。
寂しいですねぇ。
帰宅して新聞を広げたら、中国の空母群が第一列島線を航行したとかで、それに危機感を覚えた日米は、それぞれ駆逐艦と護衛艦で空母をはさむようにして進んだと書かれています。
中国は遅れてやってきた帝国主義国家のようで、なりふり構わぬ乱暴ぶりは、滑稽ですらあります。
しかし滑稽だと笑ってみたところで、かの国には痛くもかゆくもないわけで、だからこそ日米は軍艦を並走させたのでしょう。
中国は台湾を力づくで奪う腹だという説があって、それは信憑性が高い分析だと聞きましたが、そこまでやったら主要先進国すべてを敵にまわすことになりますから、そんな馬鹿げたことをやるだろうかという気もあります。
それにしても人間というもの、どこまでいっても争いごとが好きなようで、猿より毛が3本多いだけの愚かな生き物なのだと、実感させられます。
台湾を支配下に置き、尖閣諸島をうばい、太平洋の覇権を狙って、米国の海を中国の海にするという野望がかなったとして、それが何だというのでしょうね。
わが国もかつて太平洋を挟んで敵対した米国とことを構え、多くの犠牲者をだし、善戦空しく敗れてしまい、屈辱的な戦後を過ごしてきたという苦い経験があります。
わが国には未だに多くの米軍基地があり、軍事的には米国の属国でしかありはしません。
自国の防衛を自国ではできず、かつての敵国に守られているとは情けないことです。
それに有事の際、米国が自国の兵隊の命を危険にさらし、わが国を守ってくれるかどうかは分かりません。
米国は何もおせっかいでわが国を守るわけではありますまい。
自国に利益があるからわが国に多くの基地を保っているのでしょう。
自国の利益にならないと思えば、とっとと米国に帰ってしまうでしょう。
当たり前です。
日本人が日本を守らずして、誰が守るというのでしょう。
パンケーキなどという舶来の食い物を食って喜んでいる場合ではありませんね。
今日は憲法記念日。
わが国自慢の平和憲法制定を寿ぐ日です。
米国製の憲法で、なぜか何十年にも渡って改正がなされず、すっかり時代遅れの遺物と化してしまいました。
永井荷風は憲法発布の日、米国の作りたる憲法発布のよし、嗤うべし、と、短くその日のことを書いています。
この憲法の問題点は、解釈の変更を重ねて、少なくとも9条については、有名無実化してしまったこと。
当初は一切の武装を否定していたのが、警察予備隊、保安隊、自衛隊と名前を変えながら軍隊を整備し、重武装をなし遂げてしまいました。
もう自衛隊なんていう嘘くさい名前は止めて、堂々と日本陸軍・海軍・空軍を名乗ったほうが、実状に合っているような気がします。
通常兵器に限って言えば、我が国は世界有数の軍事大国です。
核武装こそしていないことになっていますが、もしかしたら密かに核兵器を保有しているかもしれません。
実状に合っていない憲法を護持し、嘘の上塗りを重ねた憲法を後生大事に守り続けることは、日本人の倫理観を破壊する作用が働いている気がします。
国家の最高法規が実状に即していないのでは、我が国は法治国家たるの資格を失ってしまい、なんだかもやもやします。
かつて、我が国では、多くの国民が憲法改正に反対していましたが、今となっては憲法改正を支持する人のほうが護憲派よりも多くなりました。
憲法の嘘というか、矛盾というか、そういうものが噴き出してきたのでしょうね。
ことは9条に限らず、1条の天皇条項、憲法改正の手続きを定めた条項なども時代錯誤な代物になってしまいました。
両院の三分の二以上の議員が発議し、国民投票を経なければ憲法改正はなりません。
事実上、改正は出来ない仕組みになっています。
しかし、最近の憲法に対する国民の意識の変化は、憲法改正が成るのではないかという予感を感じさせます。
かつて養老律令という法律がありました。
西暦757年に制定された法律で、平安時代には形骸化してしまい、ほとんど省みられないまま、明治維新まで国の最高法規ということになっていました。
日本国憲法、そうなるような気がしてなりません。
そうなる前に、時代に合ったものに改正し、また、改正の要件を緩和し、時代の変化に柔軟に対応できるものにしなければならないと強く思います。
今日は昭和の日の日で仕事はお休み。
お休みの日によく昼飯を食いに行くイタリア料理店を訪れました。
もちもちのパスタが売りの、小さな店です。
ここに来ると、ちょっとした肉料理とサラダで食前の生ビールを楽しみ、しかる後、パスタを食すのが恒例です。
しかし、今日は違いました。
いつものように生ビールを頼んだら、馴染みのお姉さんが、昨日から酒類を出すことが禁じられた、というのです。
お姉さん、申し訳なさそうな表情を浮かべています。
やむを得ず、水を飲みながらいつものように肉料理とサラダ、それにジェノベーゼを頼みました。
っそれぞれ美味なのおですが、生ビールがないと、なんだか物足りません。
コロナ禍では致し方ないのかもしれませんが、ささやかな贅沢さえも許されない時代なのですね。
禁酒法という愚かな法律を発したかつての米国のようです。
違うのは、家で呑む分にはお咎めなしということ。
それにしても禁酒令などが発せられたら、世間にあまたある居酒屋やバー、鮨屋は上がったりでしょうね。
上がったりどころか、店を畳まなければならないという事態も続出するでしょう。
行きつけの鮨屋や居酒屋、バーが軒並みなくなったのでは、楽しみがなくなるというものです。
嫌な時代です。
千葉県勝浦産の新鮮な鰹と、蛸ぶつを仕入れたので、昼間の恨みを晴らすごとく、今夜は呑んでしまいそうです。
東京等の都市部に、またもや緊急事態宣言が発出されました。
最初の時は職場も大騒ぎで、仕事は全部自宅で、リモートワークでやれというお達しが出て、原則出勤を禁じられました。
しかし2回目の時も今回も、またか、という程度の認識で、出勤禁止というお触れもでていません。
普通に出勤して普通に働いて良い、ということのようです。
コロナ疲れというべきか、あるいはコロナ慣れというべきか。
ワクチンが出たということですが、コロナ終息にどれだけの効果を発揮するのやら。
私は懐疑的に見ています。
飲食店や観光業などは商売あがったりでしょうけれど、一方、アクリル板の会社などは大儲けしているんではないでしょうか。
実態は知りませんが。
私が生きるお役所の世界は、コロナにより左前になるということはまずありません。
そこらへんのぬるさが、よろしくないことでしょうね。
もっとも、コロナ対策を行う省庁に出向でもしていたら、これは大変なことになったでしょう。
今の私にできることは、マスク着用を守り、手指の消毒をし、あとはひたすら眺める人になるだけです。
この世界がどう変わるのか、変わらないのか、それを観察したいと思います。
でも変わらないということはないでしょうね。
オンラインの会議やイベントが当たり前の世界になってしまった以上、無理やり対面で、ということにはならないでしょう。
急激に普及したオンライン会議のシステム。
ZOOMだとかWEBexだとか。
これらは非常に便利で、会議のために出社するとか出張するとかいうことがなくなりました。
しかし慣れない者には、操作が難しく、ストレスであることも事実。
どうにかこうにか付いて行っているつもりですが、これ以上難しいシステムが標準になったら、もうダメなような気がします。
3月末に58歳で早期退職した職場の先輩、彼も新しい技術の導入には苦しめられているようでした。
先輩の家は土地持ちだかなんだか知りませんが、完全引退して一切働くつもりはない、と言い切っていました。
完全引退して食っていけるのなら、私も明日には退職しているでしょう。
労働という苦役をせざるを得ないのは、日々の糧を手に入れるため。
なかには自己実現だとか、仕事が好きとか、社会とのつながりのため、なんていうことを言う人がいますが、それは二番目か三番目の理由に過ぎない筈。
金を貰えて、ついでに自己実現なんてほざいているだけです。
でなければ、ボランティアでもすればよいのです。
今も厳しいコロナ禍の最中にいるのは自明のことです。
しかし、私たちはコロナに慣れ、飽きてしまいました。
この人間の態度というか心境こそが、真に怖ろしいと言えるような気がします。
今日は今上陛下の誕生日だとか。
私が天皇制廃止を望んでいることは、何度もこのブログで記事にしてきたところです。
しかしそうは言っても、天皇の地位は日本国憲法の第一条に規定されており、しかも国民の8割が支持しているとあっては、天皇の存在はまだまだ続くに違いありません。
それに私はべつに天皇個人を攻撃する気はありません。
一個人としては、篭の鳥のような一生を送らざるを得ないことに、同情を禁じ得ないだけです。
今上陛下、61歳に御なりあそばしたんだそうですね。
意外とお年だったのですね。
三島由紀夫は、天皇こそ、わが国の文化や国民性の源泉だと主張していましたね。
あのようにシニカルなあ人が、こと天皇のことになると、狂気じみた発言をすることがどうしても解せません。
私は天皇には、静かに引退していただくことを望んでいます。
今日は日差しは強いながら、強風が吹いて、好きな散歩にも行けませんでした。
残念。
年度末に向かって狂気じみた忙しさのなか、わずかな楽しみすら享楽できないとは、寂しいかぎりです。
明日は日曜日ですが、サービス出勤する予定です。
2月24日の会議の準備が全然できていないのです。
23日が休みのため、22日に資料をそろえて議長にレクチャーしなければなりません。
23日がお休みでなければ、22日に資料をそろえて23日にレクチャーという手もありなのですが、こればかりは仕方ありません。
なかなか仕事というのはうまい具合に進みません。
若いころは、50歳を過ぎれば、仕事にも慣れ、何も恐れることなく、心穏やかに仕事ができるようになるだろうと思っていました。
あにはからんや。
全然そんなことはありません。
むしろ苦しみは増すばかり。
若いころは責任もないし、手さえ動かしていればよかったので、結構楽でした。
今は手を動かしつつ、下の者からの相談や、他の部署との折衝などがあって、疲れます。
そもそも手を動かすのが億劫でなりません。
2月23日は天皇誕生日。
今上陛下の誕生を祝う日ですが、そんなにめでたいことなんでしょうかねぇ。
しょせんお飾りのような存在なのに。
それでも、お休みというのは嬉しいものです。
楽しまなければ損というものですね。