たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

能力主義と社会的弱者

2016-07-31 04:25:04 | Weblog
 不安定な期間には、今までの価値観や体制をそのまま成り立たせようとする力が働くから、どうしてもその場限りの対応が多くなり、表面的な成果主義や能力主義に毒されがちだ。

 実はこういう時こそ、次の時代を先読みして、そこに合わせた長期的な取り組みを考究すべきなのだが、多くの必死に生きている気になっている人たちは、考えていそうな定説や、その符号を単純にひっくり返した説にしがみつき、自らのレゾンデートルを守ることに忙しい。
 「生きていくためには!」「利益を得るためには!」とドヤ顔で語りながら、自分や真実にウソをつきつづけることが社会で上手く振る舞うコツであるということを正当化してゆく。だから、多くの理系が、一度も真面目に誤差論を学ばない。誤差論を学んでも、自らの業績項目を増やすことにはならず、むしろ業績を遅らせることになり、きちんとした統計解析を知ることは損であると直感しているからだ。

 利益には、長期的な継続を考慮した利益もあるし、短期的なとにかくいま利益を得るためのものもある。カントによれば、長期的な利益を考慮した道徳的規範は、定言命法に反するから道徳的であるとは言えないらしいが、いまの社会では、その長期的な利益に気を払うことさえ、社会人としておかしいと揶揄される。
 実は、このような感情が、みんなのそれぞれの心に住み着くことこそが全体としての混乱期の要因である。なぜなら、このようなスタイルを大人だと再定義しながら、少しずつ自分と社会を乖離させていく思考に慣れてしまうことは、集団形成を崩壊させるからである。

 そもそも、集団形成の根源的な目的とは何であろうか?それは、その集団が長期的に継続することによって、思ってもみなかった価値を創出したり、その出現の可能性をとどめることにある。「集団にとって、誰が必要なのか?誰が不要なのか?」「波風を立てたりするめんどくさい厄介な人間は、不要だから排除せよ」という短絡的な功利主義的価値観を軸に集団を語ることはナチズムに直結し、結果的に障害者などの権威社会的に弱い立場の人間やマイノリティを殺すことを正当化するようになってしまうだろう。
 短期的な利潤ばかりを追求すればするほど、本来的な意味を取りこぼした集団形成になってしまい、そこに気がついた勘の鋭い人間から、その場所を去っていくことになる。そう、その場限りの対応こそが社会で生きていく基本なのだ、と心の底で考えている拙さは、人を排除し、結果として集団を崩壊させる。これが、混乱期の要因である。

 よく、安定期には集団のトップは無能であっても機能する、という。これは、長期的な集団の繁栄を考えたときに最悪の定説であることが、不安定期である今、よくわかる。
 黒字のときにこそ赤字のときのような思考が本来的には求められる。しかし、それを言ってももう遅い。多くのリーダーシップのない権威者達が、理想を語ったフォロワーシップに「そんなカネはどこにあるんだ?」と聞き返してしまったことのリスクを、現在、享受しているのである。安定期にこそ、理想を語らせるだけ語らせ、誰もが想像していない未来へと先導できるチャンスだったのだが、後の祭りである。

 とりあえず、符号を逆にして、少しだけアレンジした説を説いてみよう。「赤字のときにこそ黒字のときのような振る舞いが本来的に求められる」
 少ない選択肢の中でも、余裕があるフリをして、まずは何が何でもトライを繰り返してみて、そのなかで当たりそうなことに注力していくしかないのかもしれない。

 第一、この国は実力によって繁栄したわけではない。
 偶然による成功が高度成長なのだ。リツイートされまくっているツイートを一生懸命リツイートしているだけのアカウントでフォロワーが一時的に増えただけのこと。

 だから、何かの日本的な成功例を真似するのではなく、まったく新しい取り組みにチャレンジしていこう!まるで余裕があるかのように。
 大丈夫、任意の人生において、失敗は原理的にありえない。一度失敗してしまうとおしまい、という戦後の日本が抱えてきた定説は、とうの昔に滅び去っているのだから。
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