たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

科学と政治とお金

2014-07-31 02:27:49 | 自然科学の研究
 今日は「科学と政治とお金」について話します。頭文字とって「KSO(クソ)」です。
 あ、一部の方へ、、パクってごめなさい。。笑

 何をするんでも、まず必要になるのは予算、つまりは「お金」だ。それが理学の研究ともなればお金はめちゃくちゃかかる。
 研究室を廻すのに、最低いくらかかるのか、なんて、分野によるし研究機関にもよるので、わからないが、まぁキリの良いところで1000万円/年くらいだと考えてくれればいい。どんなに小さいことをするんでも、かなりの額が必要になってくる。文系でも20万円/年が最低でも必要だとか言ってるし、いくら理論研で、まったくお金要らないって言っても、あらゆる原著論文をフリーで読むために、大学はおそらく数十億円かけているはずなので、本質的にはお金が必要だということは例外では無い(これから話すことや図からは例外になってしまう部分があるけど)。



 つまり、殆どの場合、税金を使って研究をしていることになる。
 ここで上の図1を観て欲しい。これは理想的な状態での、自然科学におけるお金の使われ方だ。国民は、本質的な自然科学の進捗や教育発展を願って、研究従事者に(強制的に)投資をしている(させられてる?)。ならば、お金をかけただけ自然科学が進捗したら良いわけで、その理想が図1というシンプルな形だ。

 しかし実際には違う。なぜなら、研究は必ず人を介して行うものだからだ。
 だから、現実的には以下の図2のようになる。



 予算はまず研究従事者に分配されるようになっている。その分配の仕方を決めるのは、カネを払っている国民ではなく(国民は研究の価値や実力が判断できないと見做されている)、研究者同士、相互評価しあうことで決まる。だから、政治力学が発生するのだ。そして、そんなことをしているから、いつまでも本質的な自然科学の進捗が成されない。

 例えばこの図を大きなプロジェクトの予算配分だと考えてみよう。新学術でも「さきがけ」でもその他ビッグプロジェクトの共同・連携研究者同士の組織図でも何でもいい。
 そのプロジェクトの中には、必ず領域代表者やプロジェクトリーダーが存在している(図では研究者A)。よーするに一番偉い人で、そのプロジェクトの最高責任者で、音頭をとる人だ。その人からさらに別の何人かの研究者に分配することを考えてみよう。すると、図にあるような政治力学的作用反作用が成り立ってしまうので、政治力学の中で予算が分散してしまう。しかもここに実験装置を売る「業者」が入ってくるので、むしろ予算が有ればあるほど、ただ単純に政治に使われるだけで、まったくもって必要な実験装置やシステム作り、自然科学(理学)の本質的な進捗にカネが回っていかないのだ(最近、俺はこの現象を、政治力学ぐるぐる、と名付けた笑)。
 大学には一定数、必ず、何のために使ってるの?、っというくらい、これまでにまったく使われていない実験装置やハイスペックすぎる技術や(それだけなら"まだ"いいが)無駄に高級なソファーや生活品や部屋そのものなどが存在する。もちろん、ある程度は仕方ないし、意味の無いことに埋もれたカタチで研究進捗がされるわけだが、それにしても数が多いのが目立つことも多々あると俺は想っている。
 そして、みんな、予算をとってきてる先生が偉いと思ってしまっている。いやいや、それを言うんなら、偉いのはポケットマネーから税金を容赦なく支払わされている国民1人ひとりであり、学費を払っている学生であるのに、そんな社会の常識、市場の論理は、研究世界では通じない。とにかく、権威がもっとも大事で、不正があれば若手研究者や学生の責任。

 まぁ、この論理が間違っているなら本当に幸せで、むしろ間違いを正確に正して欲しい。そんな嘘をブログに書くな!もっと純粋に自然科学がちゃんと進捗するように研究社会は成り立っているぞ!、と考えられる考え方があるなら、本当に本当に幸せだと想う(ので俺に教えて欲しい)。この記事が完全に間違っている方が希望が持てるのだから。

 みんな心のどこかで、そんなん「普通」だよ、どこの世界でもそうだよ、っとなるんじゃないだろうか、と残念ながら思う。
 確かに「普通」なのだが、それを「普通」として対応しておこう、「普通」だと思おうとしてしまうことこそが、健常ではないかもしれない、と少しは考えてみないのだろうか?
 本当にこれほど腐っていて、クソで、それを持続させようとするのなら、日本の科学は一度、さっさと凋落してしまった方が良い。

 だけどね、俺らの世代が創るであろう未来では、この状態は保持されない。それは、今の段階でもすでに、本当に素晴らしい研究者が僅かながらも、日々邁進している姿を、俺は良く知っているからだ。世界に、じゃなくて、日本だけでもね。

 環境や業績やお金の算段は関係無い。本当に本当に能力があれば、ほんのちょっとのお金で、新しい分野を切り開き、自分のできることを精一杯やることで、論文を書き続けることだって、原理的にはできるのだ。
 すべての研究従事者が、その点を、少しだけでも想い出せてもらえれば、わざわざ図を作ってまでこの記事を書いた意味があるもんだ笑
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