たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

この理不尽な世界へようこそ

2023-06-12 00:34:07 | Weblog
 自分自身が人生をかけて取り組む仕事について「これだ」と決めて、それを分かりやすく説明しようとする過程で、承認欲求に負けて何かの虚偽が入ってしまえば、たちどころに「心でっかち」になる。

 分かりやすく説明するということは、どうしてもそこに不正確さが介在してしまう。この世は誰にとっても分かりやすいわけではないから、分かりやすさを最も重視してしまえば、真実から言葉を収束させる精度が落ちていき、「自分がしたいこと」が「自分が他者を納得させて承認を得る上で必要なこと」に還元されてしまうのだ。それは常に、虚偽と表裏一体となる。

 進化を研究したいのに情報理論やエントロピーを理解しようとしないとか、カナダのブームを起こしたいのにカナダに行ったことがない状態を継続してしまうとか、一度も話したことがないのにその人を愛してしまうとか、医療系のビジネスを興そうとするのに安全性について殆ど考えていないとか、救済したいと言っているのに修行と称して多くの人を殺すとか、、よーするに、自分の能力と自分の能力でできる範囲を一切考慮せずに、上の人や大衆から称賛されるからと気持ちだけが先行してしまう状態に、俺たちは十二分に注意しなければいけない。

 そうしないと、誰かを傷つける可能性が高いからだ。
 そうしないと、あなたが思い描いている、その価値観のなかでも、達成されない可能性が高くなるからだ。

 たとえば、こういうことを当人に俺が言ったとする。そうすると返ってくる応えは決まっていて、「価値観が違う」というようなことを必ず言う。
 理論ではなく実験系を構築することを重要視しているんだとか、現地に行ったことが無くても自分なりのカナダを伝えられるだとか、直観ですべてがわかると嘯くだろうし、ビジネスとしてお金を稼いで早く利潤を得ることが重要だと言うだろうし、救済するためには死をも厭わないなどと言うだろう。
 しかし、価値観が違うんだ!という反論は、まったくもって的を射ていない。なぜなら、俺はそもそも、進化に興味がないし、カナダに興味がないし、あなたが誰を好きでもどうでもいいし、君らの集団が大きくなることそのものなどどうでも良いし、世界中の人を助けるなんてことにそもそも関心がない。そうではなく、あなたがそれをしたいのであれば、まずは情報理論を知らねば、まずはカナダに行ってみなければ、まずは相手と話してみなければ、まずは安全性を担保せねば、まずは何が誰にとっての救済かを定義しなければ、あなたのその価値観のなかでも達成できないのだけど、それは良いの?と思っているわけで、価値観が違うことなど100も承知なのだ。

 そう。。変な回帰から脱さないと、いつまで経っても人生はスタートしないだろう。

 安全性の問題点について認識したがそれをどうでもよいことだと見做した→何もわかっていない大衆or上の人から承認を得て立場が上がった→立場が上がったことでさらに重要な問題に気が付くがそれをどうでも良いことと見做した→さらに立場が上がった

 こういったループから抜け出すためには、「重要そうなことをどうでも良いことと見做さないできちんと追求する」というようなことをしても無意味だ。むしろループを早めることで、その首の締り方を実感するしかない。そうすれば自然と「このままではまずい」と思える。

 そういう意味では、自分が「これだ」と思うものを信じて、突き進んでみるしかない。とことん、ね。
 けど、その過程で傷つく人が出ることを看過することはできないよなぁ、と思うのよね。そして、傷つけた人を認識することで人生を棒に振るその人を、そのままにしておくのは、俺の倫理観に反すると思うのだ。

 だから、その時にその場では伝わらなかったとしても、俺はきちんと総体的に見たときの「当たり前」を伝える必要があると思う。それを、「多角的」ではなく「他角的」と揶揄されても、それが傲慢だと言われても、自分の倫理観について自信を持っていなければいけないんじゃないかと思うのだ。
 「相手のことを尊重する」と言ってしまえば、それは簡単だ。だけど、尊重するがゆえに、当たり前のことを当たり前に思いつくだけの思考力を鍛錬しながら、主張すべきことを主張できなければ、この世の中で安全に楽しく生きていくことが難しいのではないかと思っている。

 ・・・あなたがやってくるこの世界は、こんな不条理に満ちている。弱いことは悪いことじゃないはずなのに、弱いままで心だけを大きくしても、他の誰かが傷ついてしまうような理不尽さに溢れてしまっている。それは、この時代特有なのではなく、ユニバーサルにそうなのではないかと思っている。けど、だからこそ、価値観なんかよりも倫理観をまずはきちんと磨いて欲しいと願っているのだ。優しくあって欲しいし、何が優しいのかを考究し続けて欲しい。その想いを、ここに記しておく。それはきっと、あなたがこれを読める頃には、何かの助けになっているはずだ。
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