たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

賢さを超えた賢さをさらに超えた賢さは幸せか?

2017-03-16 02:39:03 | Weblog
 自分が何を信仰しているかわかっていない人たちがとる行動が圧倒的に気持ち悪く見えてしまうことがある。
 彼らは自分が当たり前にやっている行動の奇妙さに気がついていない。不安定なモノを妄信しているようにしか見えない行為に、辟易してしまうだろう。

 まったく目に見えないものを中心にストーリー構成してそれを権威にしていたり、一過性の美しさに感嘆の声をあげることで忠誠心を示したりと様々ではあるが、コミュニティが信仰そのものを推奨している点では共通な部分は多い。
 少し不思議なのは、理論物理(や数学)を中心としたコミュニティだ。彼らは批判的精神を主張に変換し続けることで、その信仰心を証明しようとする。心の底では誰かを師として崇めながらも、その師が織り成すロジックを時に否定し、時に師その人までをも愚弄することについて(何かを否定することに関する前提の公理として)「意見の否定であって人格の否定ではない」を設置してまで正当化し、ロジックそのもの、コミュニティそのものをも批判的に解釈することが、そのコミュニティに対する信仰心の証明になる。この不思議さゆえに、まるでこのような場が一番正統派に見えることすらあるが、それは誤解である(それこそ批判的精神を完遂する上で怠惰である)。彼らに関して、なんでもかんでも否定から入る、友達にしにくいヤツら、というオフェンスは、それなりに的を射ているのだ。もちろん、少数の妄信していない多角的な価値観を保持している人間はいるにはいるが(その率は他の集団と大してカワラナイし)、ほとんどの人間はいちゃもんをつけてれば良いというお祈りの仕方を身に付けただけだ。よーするにバカが考えているフリするのが上手くなっているのとあまりカワラナイのである。だから、(多くのケースで)理論は理論で固まることしかできていないでしょ?(だからこそ素晴らしい仕事、というのもあったりするけどね。という意味で、俺はこの不思議さには、他の一般的な集団に比べれば、よほどに価値があるとは思う)

 一つの価値観に凝り固まれば、そのコミュニティから一歩外へ出たときに、異様な目で見られる。
 じゃあ、多角的な価値観を持つようにすれば善いかと言えば、そうでもない。それをやればやるほど、自分が失われていってしまう。一見、たった一つの価値観を自分の中に取り入れて生活するほうが自己が消え去りそうであるが、まったくの逆である。たった一つの価値観を軸に行為することは、その集団のなかでありふれていない存在になりやすいからである。むしろ、あらゆる価値観の存在を認め続けることは、常にあらゆる他者と薄い壁越しに話すことと同義であり、自分が見失われていく。様々な問題にいちいち同じ公式を当てはめているとオリジナリティを出さざるを得なくなるが、あらゆる公式をすでに持った状態でいると解がでてしまう分、自分の好き嫌いが露に見えにくくなっていってしまうのだ。

 確かに、ある一定のところまでは、賢さというのは個性の存在証明になりうる。一般に、バカほど個性が無い。同じところでわかんねーと言いながら、三大欲求とわかりやすさに従順なのだから。
 だが、自分の信仰を自覚した後、ある価値観を軸にすることで得られる賢さを複数持つことで初めて得られる賢さについては(超サイヤ人を超えた超サイヤ人みたいな笑)、それを適応させればさせるほど、どんな摂動に対しても達観視してしまい、反応がメカニカルになっていくことを避けられない状態へとシフトすることを手助けする。

 そして、優秀であればあるほど、もしくはエリートであればあるほど、この自己喪失が当たり前になる世の中にシフトしつつあることを感じる。もう少し詳しく言えば、先導できる人間の無個性さについて、ひとつの価値観を貫ぬくことでの賢さを有している人たちが先導者の価値観を後天的に解釈して見出し続ける様子が、沢山観られる社会である。
 先導者の好き嫌いの感情が存在することは保持しつつも、あくまで表現型としての価値観は多様にならざるをえない。これは単に一貫性が無いのではなく(ただ単に一貫性が無い様子は駒場によくみられる笑)、レベルと価値観に応じて正しい出力ができてしまうことによる弊害で、もっともっと深刻なのだ。
 先導してくれる個人に対して、「本当はどう思っているのか?」などと訊いても無駄である。それは全体の空気によって返ってくるものだからだ。煙が火をつけるのだから、火そのものに出火原因を訊いてみても分かるわけがないし、喩えるなら、数字をまったく知らない民族に積分値の結果を伝えるようなものであるからだ(どの数字を言っても同じでしょ)。

 このような先導者が極少数だったこれまでの社会に対して、これからは先導者多数の社会になるだろう。
 誰でも複数の価値観を所有でき、より高次元の賢さを手にすることができる。

 それはあまり幸せとは呼べない気がするのだが、、どうだろう?
 それとも、複数の価値観を軸とすることで初めて得られる賢さを有する先導者を複数人、師として仰ぐことで、初めて得られる賢さは(超サイヤ人3みたいな笑)、それをも打破してくれるのだろうか?
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