たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

大人の世界にもいじめはある、、けど?

2017-03-19 04:04:26 | Weblog
 大人になってもいじめはある。子供時代にそんな噂を伝え聞くと、いじめられる側の人は、この先も一生いじめられなくてはいけないのかと思い悩み、死にたくなるだろうと思う。

 自分は弱い人間だからいじめられるのだと思える瞬間はまだマシだ。だって強くなれば良いと思えるのだから。強くなりさえすれば、いじめられなくなるのだと思えるのなら、死にたいとはなかなか思わないだろうと思う。
 本当に問題なのは、あらゆる人間が弱者から搾取しているのが常態化していて、弱者から搾取しない限りは自分が生きてはいけないのではないだろうか?と思い悩むことである。自分は自分よりも弱い人間から何かを搾取できるような鈍感さは有しておらず、当たり前のように弱い立場の人をいじめることで自分自身を成立させようとしている世界に絶望するのである。なるべくなら、そんなのがマジョリティである人間関係という概念そのものから距離をとっていたいと思う。それが正常な思考回路だと信じている自分がいるからこそ、この世界そのものから距離を置きたくなるのだ。

 残念ながら、子供時代というのは尤も残酷で、人間関係という概念そのものから距離を置くことを許してくれないことが多い。子供は一人では生きていけないからだ。社会に参加するための人間の条件を満たしていないからだ。
 だが、それだけで諦めないで欲しい。大人にさえなれば、それは改善されるぞ。

 俺は大人を「孤独でいることを許される権利を有する存在」と定義している。
 大人になれば、たとえ暴力を振るわれても、子供時代のように蔑ろにされることは少なく、加害者がいくら悪ふざけだと主張しても警察が来て自分の主張に相手してくれる。そして、何より、そういう場にそもそも行かないという自由を与えられているのだ。この時間に絶対にこの場所にいなくてはいけないということは、基本的には無い。いやな職場を自分から退職することができる。そして、能力さえあれば、自分一人で稼ぎながら生きていくことも可能なのだ。
 大人になった今、「孤独でいても良い」という自由が、俺はラクで仕方ない。厭になれば自分から出て行けば良いし、暴力を振るわれたら警察に言えば良いし、大人だからという理由だけで主張を聴いてくれる人が山ほどいる。弱者を迫害してまで自分を成り立たせようとするクズとは、"大人の対応"として広い距離をとりながらも、深く関わらなくても自分がいじめられることはない。そして、いじめを目撃すれば、公的な場や外部委託機関に主張することもでき、その行為は誰からも咎められないし、子供時代と比べて、話もきちんと聴いてくれる。なんとラクなのだろう。

 いじめ発生の可能性の高い場から離れることは構わないが、"見て観ぬフリ"はクズだと俺は考えているので、通常、いじめを見てしまった以上は何かをする必要はあるだろうと思う。
 しかし、これには"大人は"という強いエクスキューズがつく。子供の場合は、そうとも限らない。もちろん、その様子を誰か大人の人に言うだけでもいじめられている子は助かるのだが、何らかの理由で言えないということは(ある程度は)仕方が無い。だって、子供は「孤独でいることの権利を有していない」のだから。

 それほどに、孤独でいても構わない、というのは大きい。そして、世間では、孤独の楽園の中で、あらゆる素晴らしいものづくりが行われている。

 結局のところ、孤独を許すからこそ、集中して良いものづくりができるようになり、結果的に本当に信頼できる仲間もできる。
 とりあえず繋がっていられるから、という理由で繋がっている、クズな繋がりから距離をとることを、俺は真っ先に肯定したい。

 そう、、確かに、大人の世界にも、いじめはある。子供よりも巧妙な仕掛けを使いながら、弱者から搾取して自分の肥やしにし、それで平然としているクズが圧倒的多数だという事実に、泣きそうになることもある。だけど、任意の集団における孤独の状態が許されているので、交友関係を広くとることができ、極少数派の非クズと出会える確率も高めることができる。そいつらと素晴らしいものづくりにチャレンジすることもできる。
 だから、長く地獄な子供時代を、どうにか生き抜いて欲しいと思う。その先には、それなりの楽園が待っているのだから。
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