たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

社会人は死を強要する

2020-12-13 04:22:17 | Weblog
 「世の中をナメていなければ、もっと成功できるのに」
 という言葉を自らよりも明らかに有能な人にかけたくなる時、自分自身の立場が危ぶまれているのを直観しているのだ。そして、自分の立場を死守するために、(文字通り)とうの昔に死んでしまっており、長い時間自分の人生を無駄にしてきたことを、自ら発見したくないのだ。

 世の中は、できる人からできない人まで、楽しい人からつまらない人まで、勝つことが好きな人から理想を追究することが好きな人まで、様々な人間がいる。それらには当然ながら平均値や中央値が存在しており、その意味において「普通」や「無難」ということに最適化した人が勝利するシステムである民主主義を遂行する限りにおいては、「普通であること」が権威化される。
 一方で、インターネットの登場により、そのような「普通であること」の価値がすっかりと破壊されてしまった。自分が関わりたい人と誰でもすぐに繋がれる社会では、ストレスフリーになるように最適化していくことが唯一の生き残る道であり、コミュニティ内での極少数の独自ルールさえ守っていればそれで良く、「普通であること」よりもむしろ、個人としての特技・特性を磨き、それを使ってどの程度サービスをしているか?こそが絶対的指標となる。いわゆるGood-natured personの度合いが重要になる。

 民主主義のシステムに年功序列システムを並行に走らせている経済活動においては、旧世代の大多数(しかも少子高齢化が進んだゆえに旧世代の数は多く、民主主義では数が多いことは勝利を意味することに留意)がその価値観に順応していないがゆえにネットワーク化されてしまった村社会のクラスターを一切拒絶しているために、いまだに「普通」であることがものすごく重宝される。よって、”普通の社会人”であることに誇りを持っているかのように見せかける若者はおじさん等の権威層には好かれるが、特定のコミュニティーには忌み嫌われてしまうことも少なくない。
 勝利している個人は表面上は好かれている体を成すが、「普通であること」に頑張ることと「特技や特性を活かして他者を喜ばせること」を頑張ることはお互いに拮抗してしまうことが多い。ゆえに、勝っていた個人に何か小さな問題が発見されれば、それを一斉に全員で叩く、という構造になりがちなのだ。

 旧来成り立たせてきた社会構造には、
 「普通でいなさい。我慢しなさい」
 「みんな、こうしているでしょ?あなただけ・・・よね?」
 「社会人として、そんな言葉遣いをして良いのですか?社会人として、常識的に、そんな姿勢をして仕事して良いのですか?」
 「言い訳をするな!屁理屈を言うな!」
 という、くだらなく、非常に気持ちの悪い、本質を外した要求を個人に対して強要するような背景があるのだが、これは、つまり「自らの意思を持たないロボットになれ」と言っており、もっと言ってしまえば「死ね」と言っているのである(→経済的に生きていきたければ精神的に死ね、の意)。そして、死んだ自分達を"社会人"と総称し、崇め奉るのである。そして、死んでいない他者を「アイツは世の中をナメている」と侮蔑する。

 その一方で、近年は、インターネット社会の影響から、
 「個人のスキルを伸ばせ」
 「個人の時代だ」
 「情報が重要だ!重要な情報を収集できる本当の意味で信頼できる人脈を持て!」
 との要求もあり、本質的にはいかに他者に貢献していくかが重要になる。

 つまりは、これらの板挟みである。
 この板挟み状態の捻れた社会において、まともな立場を与えられていない若者の中で本当の意味で死にたくない人がいるのであれば、それはただ鈍感なだけである。

 特に高学歴層は、多かれ少なかれ、学校生活の間、個人的なスキルを伸ばし、他者に対してより良い奉仕を行うことを目的に、鍛錬を積んできている。(もちろん人によっては”勝利”の一心で取り組むor取り組まされてきた者もいるだろうが)
 にも拘らず、それが社会構造の中に接続する際には、「意思を持つな」と「死」を宣告されるのである。これまでの鍛錬が完全に無意味化され、「普通さ」によって評価される。この気持ち悪さを何も考えずに受け入れ、問題を後回しにしながら、そのままにしてきてしまった旧世代の責任は重いのだが、彼ら彼女らは、技術的なところや本質的なことは有能な人材や理系等の他者に(民主主義から肯定化される程度の)極少額の金銭を支払うことで依存し、その有能な人や理系は実際に数が少ないので(民主主義から肯定化されるので)立場をも与えないままにし、「社会は厳しいから」「俺らも我慢してきているから」と一喝するのみの父性の無さは、怒りを通り越し、絶望も通り越し、「勝手にすれば?」という無関心をも通り越して、自らの本当の死によってクロニクルに何らかの意義を与えることで精算しようとうすることが、最も生産的であると決心させる。

 今の若者は、すぐに「死にたい」と口にする。それは若者が軟弱になったのではなく、我慢弱いのではなく、「どうせ死んでいる(orこれから社会に殺される)のだから、本当に死んでも大差ない」と思っているからだ。
 旧世代は、"社会人"になることで「精神的に自ら死ねば、経済的には生きていける」が成り立つからこそ我先にと率先して精神的に死んできたのだが、今の若者は「精神的に自ら死んだとしても、経済的に生きていけるとは限らない」ので、確かに死んでも大差ない。

 現在、コロナウィルスによって、日本だけでなく国際的にも、社会は変革を迎えている。
 今現在はこのウィルスが直接手を下して特に旧世代に罰を与えているように見えるかもしれないが、、きっとこの先の未来には、それが故に、もっと残酷な線引きが敷かれてしまうだろう。

 若者の自殺は増え続け、児童の虐待も増え続けていた近年、それを見て観ぬフリをして「なかったこと」にしてきた世代が、やっと自分たちも同じ死の危険に晒されているのである。
 戦争では絶対に死んではいけない人から先に死んでいく。とすれば、終戦は意外と近いのかもしれないよね。

 終戦後には、全く違った社会構造になるだろうと思う。そして、その時までは、ゆっくりと寝ているのが賢いだろう。余った時間は、自分の好きなことをやっているのが良い。
 だって、1945年7月を迎えている日本人に、あなたはなんて声をかけるだろうか?飛行機乗りになって、特攻して神様になるように頑張れ!そのために、あらゆることを我慢しろ!、などと言うだろうか?
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2 コメント

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いいね (ぷんすか)
2020-12-13 16:11:02
とても価値のある文章だと思いました。
従うふりしてお金もらうのが最適解なのでしょうか。
Unknown (takahashikei0309)
2020-12-13 23:59:15
ぷんすかさんへ

読んでくださって、ありがとうございます。
まぁわかりやすいモデルとして成り立ちそうなものを無矛盾に書いてみただけなので、色々なケースはあるかと思います。

本心はやりたくないと思いながら生活のためにお金を戴くのも正解ですし、本心の通りに生きてそこそこのお金を戴こうとするのももちろん正解ですし、その結果、野垂れ死ぬのも良いかと思いますよ。

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