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スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

大山名人杯倉敷藤花戦&スピノザの注意

2016-11-18 18:59:17 | 将棋
 8日に指された第24期倉敷藤花戦三番勝負第一局。対戦成績は里見香奈倉敷藤花が3勝,室谷由紀女流二段が0勝。
 振駒で里見倉敷藤花の先手。室谷二段のノーマル中飛車の出だし。飛車はあちこちに動き回りましたが相銀冠の持久戦になりました。
                                     
 後手が桂馬を跳ねた局面。先手はすぐに▲3七桂とぶつけて△同桂成▲同銀の交換になりました。後手ばかりが動かしての交換ですから先手は手得。ただし銀が引かなければならない分は損。捌けたとみれば後手にも不満はないでしょう。引かせた銀を使わせないために△4五歩と突きました。これは好手だったと思います。
 ▲2四歩△同歩▲同角と2筋を交換。後手は角交換は避けて△7三角。これはただ逃げただけでなく△6五歩という狙いもあります。。先手は▲6八角と引いて飛車成りをみせました。
 ここで△6五歩と突いてしまう手はあったようです。ですが▲2三飛成が金取りである以上は指しにくく△2二歩と受けたのは自然なのではないでしょうか。
 先手は銀を使うために▲4六歩と突いています。コメントでは▲7七桂が優ったとされていますが,ただ△4四金なら千日手とあります。千日手は先手としては不満な筈で,その方が優るというならすでに後手の方がうまくやっているということでしょう。
 後手は△6五歩を決行。先手が▲4五歩と取ったときに△5四金とただのところに出ていきました。
                                     
 ここでは▲4四桂△5一飛▲2四角としてとにかく飛車を5筋から逸らせなければならなかったようです。ですが▲7七金寄と固めたために△5五金と出られ,これ以降は先手にチャンスらしいチャンスがなくなってしまいました。
 室谷二段が先勝。第二局は明日です。

 神Deusの本性natura,essentiaの必然性necessitasを,たとえば神の意志voluntasと表現することを許容するとしましょう。ですがその場合には神の意志と人間の意志は,本物の犬と星座の犬くらいの相違がなければなりません。いい換えれば同じように意志といわれるとしても,同じような思惟作用であると解することはできません。これがスピノザの考え方です。なぜそうでなければならないのでしょうか。
 第一部定理一六は,神の本性の必然性から無限に多くのものが産出されるとされています。ここでは仮にこの必然性を意志と名指しているのですから,神の意志から無限に多くのものが産出されると理解する必要があります。すると人間の意志というのも,神の意志から産出されなければならないということになります。要するに神の意志は人間の意志の起成原因causa efficiensでなければならないのです。そしてスピノザの哲学では原因というのが一義的に起成原因を意味するのですから,神の意志と人間の意志の関係は,前者が原因で後者は結果であることになります。そして第一部定理一七備考にあるように,結果の本性や存在の原因であるものは,本性についても存在についても結果とは異なっていなければなりません。したがって神の意志が原因で人間の意志が結果なら,神の意志と人間の意志は存在についても本性についても異なっていなければならないことになります。これが本物の犬と星座の犬ほどの相違があるということの真意です。僕はここでは意志について説明し,スピノザは当該部分では知性intellectusについて説明していますが,別にそれだけに限らず,神の本性の必然性をどう名指そうと,同じことが帰結します。
 スピノザが書簡五十四で,神的本性と人間的本性を混同しないために人間的属性を神には帰さないといっているのは,このことを踏まえていると解するべきです。意志の例でいえば,もし神の意志によって無限に多くのものが産出されるというなら,人間は人間の意志によって神の意志を想像することになり,人間的本性を神的本性に帰することになるだろう,いい換えれば結果によって原因を想像することになり,星座の犬を本物の犬と思い込むようになるだろうと注意したかったのでしょう。
コメント
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