スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

阿波おどり杯争覇戦&不変の見解

2016-07-10 19:08:44 | 競輪
 被災地支援競輪として実施された小松島記念の決勝。並びは小松崎‐岡部‐有坂の北日本,平原‐神山の関東に高木,松岡‐小倉の西国で市田は単騎。
 平原も出ていったのですが内から小倉が前に出て松岡の前受けに。3番手に平原,6番手に市田,7番手から小松崎の周回に。残り3周のバックの出口から小松崎が上昇開始。ホームで松岡を叩いて前に。平原が続いて4番手。引いた松岡が7番手で市田が最後尾の一列棒状に。このまま小松崎があまり緩めずしかし本格的には駆けずという走行で打鐘。ここから踏み込んで小松崎の抑え先行のようなレースに。最後尾の市田が内から追い上げ高木の後ろに入り,松岡が8番手の一列棒状に変化。バックから平原が発進。あっという間に捲り切って前に。岡部が高木を大きく牽制したため,神山にはだれも続けずふたりの優勝争い。ただ少し詰め寄ったというだけで平原の優勝。マークの神山が半車身差の2着で関東のワンツー。岡部の後ろから開いたところを伸びた有坂が5車身差で3着。
                                     
 優勝した埼玉の平原康多選手は昨年の小松島記念以来の記念競輪優勝で通算15勝目。当地は2013年にも優勝していて連覇で3勝目。昨年は競走得点はトップだったのですが,後半は苦しんでいた印象で,今年に入ってからもそれが続いているという感じでした。ただここはさすがにメンバー的に有利。小松崎がうまく駆けたので松岡は何もできず,多少は脚を使ったかもしれませんが一列棒状の4番手を確保できましたから,力量的に順当な優勝といえるでしょう。もっと強いメンバーを相手としたときに優勝するのでないと,このクラスの選手では復活とはいい難いのではないかと思えます。

 僕はスピノザにとって重要であったのは,人が神Deusが存在するということを知るということよりも,人が神を十全に認識することであったと考えています。このことはすでに何度かこのブログの中でいっています。その理由の最も大きな点が,神の十全な認識こそが確実な認識の基礎になるという点にあるのです。そして神の十全な認識という観点からも,スピノザはデカルトによる神の定義Definitio,いい換えればデカルト自身が有していたと推測される神の観念に同意することはありませんでした。デカルトは神を最高に完全と定義しています。確かに神は最高に完全なのですが,スピノザからすればそれは神の特質proprietasです。神の本性essentiaは絶対に無限なのであって,だから神はそのように定義されなければならないのです。
 スピノザが神からの人格の剥奪を強調するのも同様の理由によっていると考えられるでしょう。いわゆる人格神なるものは,人間による表象imaginatioにすぎないのであって,十全な認識とは程遠いものです。もっといえばそれは人間だけが表象し得るような神であるといえるでしょう。そういう観念を認識の基礎としては,確実な事柄は何も帰結してきません。このゆえにスピノザは,最高に完全と定義される神を否定するのよりも強い口調で神から人格は排除されなければならないと主張するのです。
 絶対に無限と定義される神の観念が確実な認識の基礎にならなければならないということは,すでに『知性改善論Tractatus de Intellectus Emendatione』にみられる考え方といえます。実際に『知性改善論』が目指しているのは,確実な認識の基礎としての神の認識に至るための方法論以外の何ものでもないといえるからです。スピノザがいつからこのような考え方を有するに至ったのかを確定するのは難しいのですが,少なくともレインスブルフRijnsburgで初めてオルデンブルクHeinrich Ordenburgに会ったときには,こういう考え方を有していたと結論して間違いないと考えます。ですからこのことは,思想家ないしは哲学者としてのスピノザの,初期から晩年に至るまで変ずることがなかった見解であると僕は考えます。したがってロバート・ボイルRobert Boyleと論争をしていたときのスピノザは,すでにこの見解の下にあったといえるでしょう。
コメント
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