スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

兵庫ジュニアグランプリ&フェルトホイゼンの見解

2016-11-23 19:20:43 | 地方競馬
 第18回兵庫ジュニアグランプリ
 大外から押してネコワールドがハナへ。2番手にはローズジュレップ。3番手がアズールムーンとハングリーベンで併走。5番手もナチュラリーとゲキリンで併走。単独の7番手にバリスコア。ミドルペースだったと思われます。
 3コーナーを回るとローズジュレップの外にハングリーベン,さらにその外にゲキリン。直線に入るとローズジュレップがネコワールドを交わして先頭に立ち,追ってきた馬たちとの差を広げて快勝。交わされたネコワールドは一杯で,ハングリーベン,ゲキリン,さらに外から差しこんできたバリスコアの3頭で2馬身差の2着争い。激戦でしたが,直線の入口あたりでは一旦はゲキリンに前に出られたかにみえた最内のハングリーベンが差し返して2着。大外のバリスコアがハナ差で3着。真中のゲキリンはアタマ差の4着。
 優勝した北海道のローズジュレップはここまで北海道で3勝。北海道重賞も勝っておらず,格は下。ただ,2勝目のときの1200mで1分11秒8というのは,不良馬場であったとはいえ門別で2歳馬が出すようなタイムではなく,相当の素質がある馬ということは分かっていました。JRAの500万を標準クラスで勝ち負けする馬よりは強かったということだと思います。現状は距離が伸びるのはプラスではないかもしれません。タイムが早くなる馬場状態の方が力を発揮できるタイプなのではないでしょうか。祖母の半弟にタニノギムレット
 騎乗した兵庫の川原正一騎手と管理している北海道の田中淳司調教師は兵庫ジュニアグランプリ初勝利。

 書簡四十二を検討します。
                                     
 フェルトホイゼンLambert van Velthuysenが,『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』の著者が,人間には畏敬することができない神を作り上げることによって無神論への道を切り開こうとしているという見解を示すとき,その前提には神Deusは人間にとって畏敬できる存在でなければならないという見識があるといえます。僕はこれは神は人間にとっての神である,あるいは人間のための神であるという思い込みと同じであると解します。スピノザは書簡五十六では三角形が話すことができたとしたらという仮定をしているので,ここでも同じ仮定を用いるなら,もし三角形にとって畏敬することができる神があるとすれば,その神を人間が畏敬することは不可能であろうと僕には思えるからです。他面からいうなら人間が畏敬できる神を三角形も畏敬するということは困難だと僕は思います。したがってこの神は人間にとっての,人間のための神であると判断するのです。
 ただし,この点については聖書と理性の関係をどう評価するべきかということからスピノザは反論するでしょう。優越性も含めた哲学的要素を排し,フェルトホイゼンが聖書を必要とする人びとのためにこのことを主張しているのだと仮定するなら,スピノザの神学に関する考え方の中には,受け入れることができる内容も含まれていると僕は解します。ですがこのことについては後回しにします。
 神を運命に従属させているという主張は,僕は誤解にすぎないと考えます。神が運命に従属するとは,神の外部に神のなすべき目的を立てるということであると僕は解します。したがって神を人間のために働くagereものとして規定するなら,それこそが神を運命に従属させることであると僕は考えます。これでみれば神を運命に従属させているのはフェルトホイゼンの方であり,むしろスピノザの考え方は神をそうした運命から解放させるものであるというのが僕の考えです。
 神が人間に対して賞罰を与えることができなくなっているという見解の裏に,人間的本性による神的本性の理解があると僕は判断します。ここでフェルトホイゼンは,神の力potentiaというものを,人間的な力,権力と混同しているのだと僕は考えるのです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする