スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

霧島酒造杯女流王将戦&主張の骨子

2016-11-16 19:09:49 | 将棋
 5日に放映された第38期女流王将戦挑戦者決定戦。対局日は8月30日。その時点での対戦成績は上田初美女流三段が2勝,香川愛生女流三段が4勝。
 上田三段の振り歩先で上田三段の先手。後手の角道オープン三間飛車から角交換。先手が角を打って飛車を押さえ込み,後手も動きましたが明確な成果はなかったので,先手が指しやすい中盤戦ではなかったかと思います。
                                     
 後手が馬を作った局面。先手は☗9五歩☖同歩☗9三歩☖同香☗7五角の端攻めを敢行。☖8四歩☗同角は手筋の受け。
 ここで☖8三銀☗7五角☖8四歩と端を受けなければならなかったのですが☖7四銀と打ったために☗9三角成☖同玉☗9五飛☖8二玉の端攻めが炸裂。一遍に先手が優勢になりました。
                                     
 ここでは☗9一飛成☖7一玉☗9二香成も有力な攻め筋。ただしこれは先手も端ががら空きになり後で反撃を食らうおそれがあります。☗9二飛成☖7一玉☗8二銀☖6二玉☗8一銀不成の方を選択したのはそうした理由からだったと思います。後手も☖8三銀引☗7二銀成☖同銀で打った銀を使うことはできました。
 ここで☗6四桂と打って順に剥がしていけば先手が勝ったろうと思います。しかしそれではぬるいとばかりに☗6五香☖6三歩☗5五桂と攻めていきました。後手は☖5四銀と受けることに。
                                     
 こうがっちり受けられると早い攻めはないので☗8三銀と打っていくことに。これでも先手がいいですが,少し差が詰まったのではないでしょうか。後手は☖5一玉と早逃げし☗7二銀成☖同飛と飛車も受けに使えました。☗8一龍☖7一飛のときに先手は☗6三桂不成を敢行。☖同銀に☗7一龍☖同金と飛車を交換して☗6三香成と攻めていきました。これは詰めろではありません。後手は☖8六歩と反撃し難しくなりました。
                                     
 ここは先手の最後のチャンスで,☗3二銀が最善手だったのだろうと思われます。しかし☗5二銀と王手し☖4二玉。☗3四銀が詰めろですが☖8七歩成~☖8四飛で抜かれてしまいます。なので☗5一飛と打ちましたがこれは詰めろでなかったために逆転。☖8七歩成以下詰めろを掛けた後手が勝っています。
 準決勝はこれ以上の大逆転で勝ち上がっていた香川三段がここも逆転勝利で前期に失陥したタイトル戦の挑戦者に。第一局は12日に放映されました。

 書簡五十五フーゴー・ボクセルHugo Boxelの主張をもう少し念入りに検討します。
 まずボクセルは,神Deusに人間的属性を認めないというスピノザの主張,つまり神からの人格の剥奪という主張については同感だといっています。ただしそれは,神の本性essentiaと人間の本性を混同しないようにするためという条件の下で同感だと解せるようないい方にもなっています。したがって神から人格を排除することについて,ボクセルが寸分の違いもなくスピノザと同じ考えを有していたとは理解しない方がよいと思われます。
 さらにその後で,なぜ神に人間的属性が認められないのかということの理由をボクセルは説明しています。それによれば,神がいかなる仕方で行動し,意志し,認識し,考慮し,見聞するのかということは,人間的属性によっては知ることができないからだとしています。要するにそれらのことを人間は知ることができないから,人間的属性は神には認められないのだと主張しているのです。
 これでボクセルがスピノザとはかけ離れた仕方で神を認識しているということが分かります。なぜなら,ボクセルが示した行動をはじめとする諸々の現象そのものが,人間的属性であるというのがスピノザの考え方だからです。ボクセルがいわんとしているのは,それらの現象は人間的属性によっては知り得ないけれども,神的属性によっては知り得るということでなければなりません。そしてその部分に,人間的属性は神のうちに優越的にeminenter含まれているというボクセルの主張の骨子が含まれているといえるでしょう。
 神的属性によってならそれらの現象を知り得るのがなぜかといえば,それらの現象が神によって実際になされるからだといわなければなりません。つまりボクセルはそれは当然のことと思っているのです。しかしスピノザがいっているのは,神が行動するとか意志するとか認識するとか考慮するとか見聞するとかいったことは,人間が行動し意志し認識し考慮し見聞するから神についてもそれと同じように想像しているにすぎないのであり,神はそんなことはしない,少なくとも人間がするのと同じ意味でそんなことをするのはあり得ないということなのです。

コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 大楠賞争奪戦&排除の要因 | トップ | ハイセイコー記念&書簡五十四 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

将棋」カテゴリの最新記事