スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

大山名人杯倉敷藤花戦&神の力と支配者の力

2016-11-24 19:20:50 | 将棋
 19日に倉敷市芸文館で指された第24期倉敷藤花戦三番勝負第二局。
 室谷由紀女流二段の先手でノーマル四間飛車。里見香奈倉敷藤花は居飛車穴熊に。
                                     
 後手が飛車の小鬢を開けたところで▲5五歩と仕掛けていきました。機敏だったといわれていますが,後手は真直ぐに穴熊に組めているので,この程度の仕掛けは甘受しなければならないように思います。
 △8六歩▲同歩と突き捨てておくのは絶対手。これは先手の角が5五に出たら飛車を走るため。後手が△5五歩と取った局面は手が広かったようですが▲2五桂△2四角としてから▲5五角と取りました。当然△8六飛です。
 先手は大駒を成り合っての駒の取り合いは避け▲8八歩。後手も△8二歩と受けました。ここで▲6四歩△同銀▲4四角と進んでいますが,この進行では先手が不満のように思います。後手は△5六歩と打ちました。
 取ると△7六飛で飛車を成られるので▲4八銀は仕方ないところ。後手は△4三金と金を穴熊に近付けつつ角取りとしました。先手は▲6二角成。
                                     
 この手は悪手で,▲7七角として手番だけは握っておかねばならなかったようです。ここで△4六角と出られてからは先手にチャンスはありませんでした。
 里見倉敷藤花が勝って1勝1敗。第三局は20日に指されました。

 人に対しときに褒賞を与え,またときに刑罰を与えることを,僕は人間的な営み,あるいは人間的なpotentiaであると考えます。最も分かりやすくいうなら,これは支配者の力,王侯の力であると解するのです。たとえば『走れメロス』のディオニスが有していた力がそれに該当しているというようにです。
 人間的本性によって神Deusの本性を人が認識するとき,もっとも陥りやすい誤りはこの種の誤りであるかもしれません。人は支配者の力,王侯の権力というものを,力としては最も容易に表象します。だから神にもその種の力を帰し,当然ながら神には王侯よりもっと大きな権力があるというように想像してしまうのです。
 しかしスピノザの考え方は違います。第一部定理三四にあるように,神の力というのは神の本性そのもののことです。いい換えれば神の本性の必然性それ自体が神の力なのです。第一部定理一六から明瞭なように,神の本性の必然性からは無限に多くのことが無限に多くの仕方で生じます。この本性の必然性が神の力と同じなのですから,第一部定理三五にあるように,神の力のうちにある事柄はすべて存在することになります。いい換えるなら神の力は永遠aeterunusから永遠にわたって十全に発揮されるのであり,発揮されたりされなかったりするものではありません。しかしどんなに強大な人間の王であっても,人間の王の力には限界というものが必ずあります。ですからそうした力によって神の力を想像することは,神に不完全性を与えることになります。その力を必然的に十全に発揮するものと,発揮したりしなかったりするものとを比較すれば,前者が完全であるということは自明であるからです。
 書簡四十二フェルトホイゼンLambert van Velthuysenが,『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』の著者の神からは人間に対する賞罰の配分が排除されていると主張するとき,もしかしたらそれはもっともな主張だと思えるかもしれません。しかしそれは人間の王が賞罰を与えることを連想しているからそのように思えるだけです。神の力のうちに王侯の力が優越的にeminenter含まれるのではありません。したがってフェルトホイゼンのこの部分の主張は,スピノザの哲学からは全面的に否定されるといえます。
コメント
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