スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

大山名人杯倉敷藤花戦&派生

2012-11-23 18:31:28 | 将棋
 岡山県の倉敷市芸文館で指された第20期倉敷藤花戦三番勝負第二局。
 矢内理絵子女流四段の先手で里見香奈倉敷藤花の一手損角換り4からのダイレクト向飛車。先手が片矢倉,後手が片美濃で早い段階から戦いに。馬を作って飛車を成り込んだ後手がリードしたように思える展開でした。
                         
 攻め合ってもよさそうに思えるのですが,△3三龍と引いて受けきり勝ちを目指しました。と金を取られてはいけませんから先手は何らかの処置が必要。おそらく▲4四銀と打つべきではなかったかと思うのですが,▲5四銀。このために△4四銀と打たれて窮してしまいました。
 実戦の指し手から分かるようにこれで大差だったようです。最後は後手がしっかりと決めに出て勝ちました。
 連勝で里見倉敷藤花の防衛。タイトル戦の防衛記録はどこまで続いていくでしょうか。

 人間の精神は現実的に存在する個物の十全な観念を有することはできないということと,人間の精神は第三種の認識によって個物を十全に認識することができるということが,少しも矛盾を来さない,いい換えれば両立可能なふたつの言明であるということは,これで明らかにすることができたと考えます。この部分の論考の冒頭でもいったように,このこと自体は現在のテーマの考察とはほとんどといっていいほど無関係な事柄ですが,『エチカ』の全体という観点からいうならば,非常に重要な内容ですから,少し時間を掛けて僕の見解を説明したものです。
 それでは続いて,第二部定理一二の意味第二部定理一二の新しい意味へと変容する過程で,あるいは第二部定理九系の意味第二部定理九系の消極的意味へと変容していく過程で生じた事柄から,別の部分へと波及していく事柄の方の説明へと移行します。
 このときに問題となってくるのは第二部定理一一系の意味です。すでに説明したように,これまではこの系の意味というのを,ある人間の精神の本性を構成する限りで神のうちにXの観念があるといわれるなら,これはこの人間の精神のうちにXの十全な観念があるという意味であり,ある人間の精神の本性を構成するとともにほかのものの観念を有する限りで神のうちにXの観念があるといわれるならば,その人間の精神のうちにXの混乱した観念があるというように理解してきました。しかしこれだと問題が生じてしまうのです。
 なぜそうなるのかというと,スピノザは第二部定理一二を論証する過程において,第二部定理一一系の援用というのを行っているからです。このときに,その論証過程においてスピノザが用いている文言と,第二部定理一一系においてスピノザが用いている文言とを比較するなら,これまでの第二部定理一一系の意味というのを利用すれば,人間の精神はその精神を構成する観念の対象ideatum,要するにこれはその人間の身体ですが,その身体の中に起こることを,十全に認識すると理解しなければならなくなるからです。これについては詳しく説明しませんが,各々の文言を比較してみれば一目瞭然です。
コメント
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