スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

加古川青流戦&考察の位置

2011-10-27 19:06:02 | 将棋
 四段と奨励会三段を中心とした新棋戦となる第1回加古川青流戦。船江恒平四段と宮本広志三段が決勝へと駒を進め,三番勝負の第一局が指されました。
 振駒で船江四段の先手。宮本三段は4手目△3三角戦法。角交換から後手の四間飛車でしたが,先手が早めの戦いを挑み,後手は中飛車に振り直して乱戦となりました。そして中盤,ド派手な手が連続しました。
                         
 ここで後手は△5七角と打ち込みました。先手はと金を作られるのは勘弁と▲3五歩と突いたのですが,このため△4五桂が発生。▲同歩に△3五角成と馬を作りました。歩成りが残っているので先手は▲5六飛。△4五馬は当然で,飛車は逃げられないので▲5七銀。玉頭方面が薄くなりましたから今度は△7七飛成と切っていき,▲同桂に△4七角。▲2六飛打というのも凄い受けですが△5六馬と馬の方で取り,▲同銀に△6九馬と切って▲同王に△8九飛。▲7九歩に△9九飛成と龍を作ってようやく局面が一時的に落ち着きました。
                         
 ここで先手は▲2八飛と受けの手を指しましたが,▲6五桂と攻め合いを目指す方がよかったよう。実戦もまだ難しかったのですが,後手の勝ちになっています。
 宮本三段が先勝。場所を加古川に移して第二局は明後日。船江四段が勝ちますと同日のうちに第三局も指されるという日程になっています。

 こうした実践という側面から,能動と受動の何たるかに関しては多大なる関心を寄せていたと思われるスピノザですが,一方で,ある思惟作用というのを単独でみた場合に,それがその思惟作用をなす知性の純粋な思惟作用であるのか否かということについては,もしもそのことが,その知性が十全な原因となっているのかそれとも部分的原因であるにすぎないのかを分かつという意味であるのならば,第三部定義二によりそれがそのままその知性の能動であるか受動であるかを分節することになりますから,同じような関心を寄せたと考えられます。しかし今回の考察のように,それを単純にその意味から離れて,その知性のうちで自己完結するような思惟作用であるのかそうでないのかという観点から問題にするのであれば,そのこと自体にはスピノザ自身はさほどの興味をそそられることはなかったかもしれないと僕は考えています。よって,今回の考察自体のスピノザの哲学の全体の中に占めるような位置というのは,非常に重要であると考えられるような部分と,それほどではない,あえていってしまうならスピノザの哲学の全体からしてみればほとんど問題とはならないような部分とが混在していたということになるでしょう。また,僕が精神の能動というのを,その精神の内部で自己完結するような思惟作用であるのか否かという点ではなく,むしろそれが十全な観念であるのか混乱した観念であるのかという観点から峻別する理由のひとつも,この部分に存在します。後者をその判断の基準とする方が,スピノザの哲学を正しく理解していると僕が考えているというのももちろんそうですが,そもそもその方が,スピノザの哲学の全体からみて,より意味のある分節の仕方であると考えるからです。
 ではなぜそれがある知性の純粋な思惟作用であるかそうでないかということにスピノザはさほどの関心を寄せなかったであろうと僕が考えるのかといえば,それは,スピノザが,知性がある事物を認識するということをどのような現象として考えていたのかということに関連します。しかしこれは能動と受動をテーマとした今回の考察からは大きく離れますので,改めてテーマとして据えて考察することにします。
 今回のテーマはここまで。次回から簡単なまとめに入ります。
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