スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

新人王戦&自己完結

2011-10-24 19:06:27 | 将棋
 互いに敵地で勝利し1勝1敗となった第42回新人王戦決勝三番勝負第三局。
 振駒で豊島将之六段の先手。佐藤天彦六段が横歩取りに誘導したのを拒絶し,相掛り先手浮き飛車後手引き飛車に。先手の縦歩取りに対して後手の方から動き,うまく主導権を握る将棋になりました。
                         
 ここで△7七角成と後手の方から角交換。一見すると▲同桂が銀当たりですから損に思えるのですが△7六銀とぶつけて▲同銀△同歩で銀も交換した手が桂当たり。▲同飛は仕方ないですがそこで△7五歩と叩きました。
                         
 ここは強く▲同飛と取ってしまう手もあったのではないかと思うのですが,▲2六飛。これには△9六歩の端攻めが絶好の狙いで▲同歩△9八歩▲同香に△5四角。受けのない先手は▲2二歩△同銀としてから▲7一歩成ですが△7六歩と突き出して後手の優勢がはっきりしました。
                         
 それにしても第1図から第3図へと至る後手の流れるような手順は見事としかいいようがありません。第3図以下,先手はほとんど粘ることができず,後手の快勝となりました。
 2勝1敗で佐藤天彦六段が今年度の新人王に。第39回に続いて2度目です。

 この齟齬解消の可能性の第三の場合というのが,そっくりそのまま現状の考察のヒントになります。
 第二部定理九系で示されている観念の対象の中に起こることというのを,この対象の中で自己完結的に生じることであると仮定してみます。そこで示されているのは,その起こることの観念が,その対象の観念を有する限りで神のうちにあるということです。そしてこれはいい換えれば,その起こることの観念が,その対象の精神mensのうちに十全な観念として発生するということです。第二部定理七から理解できるように,この場合,その起こることと起こることの観念は,同一個体であるということになります。そして最初の仮定では,この起こることというのが,対象の内部で自己完結するということになっていますから,平行論の帰結として,その対象の精神のうちで,起こることの観念も自己完結的に生じているということになるでしょう。実際にこうしたことが生じるということは,スピノザは第二部定義七において,多数の個物によって構成されるひとつの個物res singularesがあるということを認めていますので,明らかであるといえるでしょう。とくに現状の考察では人間の精神による能動actioと受動passioを探求しているわけで,第二部定理一三により,人間の精神を構成する観念idea, humanam Mentem constitutensの対象というのはその人間の身体です。よって岩波文庫版117ページの第二部自然学②要請一から,なおのことこうしたことが現実的に発生するといえます。
 そこでこのことを,人間の身体corpusの方を考慮に入れず人間の精神だけを対象として考えるなら,別のいい方をすれば,延長の属性Extensionis attributumの下での説明というのを排除して思惟の属性Cogitationis attributumの下における説明だけに注目すれば,これがまさに僕が理解するマシュレがいっているところの人間の精神の純粋な思惟作用であるということになるでしょう。というよりも,一般的に考えて,人間の精神の純粋な思惟作用の実例として,それに該当するような代表的なものが,こうした思惟作用であるということになるのではないかと僕には思えます。そしてこうして発生するのが十全な観念ですから,僕もこれをおそらくマシュレもそう結論するのと同様に,人間の精神の能動であると結論します。
コメント
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