スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

加古川青流戦&第三部定義二まとめ①

2011-10-29 19:12:50 | 将棋
 戦いの舞台を棋戦のタイトルにもなっている加古川市へと移して争われた第1期加古川青流戦決勝三番勝負第二局。
 宮本広志奨励会三段の先手で▲7六歩△3四歩に▲7五歩。船江恒平四段はいきなり△8八角成として▲同銀に△5四歩と突き▲7七銀に△6五角と打っていきました。先手が▲5六角と合わせると△8七角成。
                          
 ここで▲7八金で馬の行き場がありませんが,もちろんうっかりなどではなく△5五歩。馬と角ですがこのまま交換すると先手が損でしょうから▲3四角。これで△5四馬と生還。以下,▲2三角成△2二銀までは実戦例があり,▲3四馬と引いたのが新手とのこと。△3三銀▲1六馬となりました。
                          
 この局面は馬の働きでは後手が優位。ただし先手の一歩得なので,ゆっくりした展開になれば先手が指せるような分かれになりそうです。△2二飛以下,後手の向飛車,先手の居飛車に進みましたが,落ち着いた将棋にはならず,難しい将棋ではありましたが,第2図の時点では少し先手の方が指しにくかったのではないかと感じました。
 難解な力将棋を船江四段が制して1勝1敗。第三局は午後に指されましたが,その将棋については明後日にでも。

 今回は第三部定義二をテーマに設定しました。考察の主題はふたつです。ひとつは,スピノザの哲学における能動ということ,そしてまた受動ということを僕がどのように考えているのかということ,そしてまたなぜそのように考えているのかという理由を明示することです。そしてもうひとつの主題は,マシュレと僕との間にあると考えられる,この能動と受動,とくに人間の精神の能動と受動についての考え方の相違を,どこまで埋めることができるのかを検討してみるということです。
 第一の点に関していえば,僕は存在論的にいうならば,あるものが十全な原因として何らかの結果を産出するという場合には,その結果に対して十全な原因となっているものの能動であると理解します。そしてこれを認識論的に記述するならば,もしもAの観念を有する限りで神のうちにXの観念があるならば,これをAのXに対する能動であると理解することになります。ところで,Aの観念を有する限りでの神というのは,スピノザの哲学においてはAの精神ということを意味しますので,この認識論的記述は同時に,Aの精神のうちにXの十全な観念があるということを意味していることになります。これらみっつの事柄は,各々を単独でみるならば,すべて異なることを記述しているということができると僕は認めますが,実際には能動という観点から,同じ事柄を別々の観点から述べているのだと考えます。
 受動はこれの逆です。すなわちあるものがその結果に対して部分的原因である場合,僕はその結果に対して部分的原因となるすべてのものの受動であると解します。認識論的にいうなら,Aとほかのものの観念を有する限りで神のうちにXの観念があるなら,これは受動一般の説明ではありませんが,Aの受動であると解することになります。そしてこのときは,Aの精神のうちにはXの混乱した観念があるということになります。これらみっつも,それぞれは別の事柄の記述であると考えることが可能ですが,受動という観点からみれば,同一の事柄を異なった側面から説明しているということになります。
 そして僕は,あらゆるもののあらゆる作用というのは,能動と受動のどちらかに分節することが可能であると考えます。
コメント
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