スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

凱旋門賞&転倒

2011-10-03 18:57:24 | 海外競馬
 現地時間で昨日午後4時過ぎ,日本時間だと夜の11時過ぎに行われた凱旋門賞
 ヒルノダムールが最内,ナカヤマフェスタが大外と日本馬2頭は対照的な枠順。ナカヤマフェスタは発馬が少し悪かったように僕には感じられました。レース前半は1頭が離して逃げ,あとは縦2列に馬が並ぶというような形のレース。ヒルノダムールは内側の4,5番手,ナカヤマフェスタは後方の外からのレース。
 レースが後半に入ると馬群が逃げ馬を追い掛け始め,そのまま直線に。ヒルノダムールは非常に手応えがよさそうに見え,包まれることなくうまく外目に出してきたのですが,そこからは追われても特別の伸びをみせることなく馬群に沈んでいき,かなり離されての10着。ナカヤマフェスタの方は特段の見せ場なく,11着でした。
 ナカヤマフェスタの方は中間もかなり気難しさを出しているように伝えられていて,本調子に戻れなかったのでしょう。切れ味で勝負するタイプでもありませんので,位置取りが悪くなったのも致命的でした。ヒルノダムールの方はかなりスムーズなレースをしての結果で,結果に対しては斤量が最も応えているように思えます。また,レース前の入れ込みが激しく,そこで消耗してしまっていたのかもしれません。

 自然的実在的有ということばをスピノザがこの部分において用いている理由は,ひとつはそれを理性の有ないしは表象の有と比較するためであり,もうひとつは,これは僕の造語ですが,いわば名目的有と比較対象するためではなかったかというのが,僕自身の考え方になります。
 ところで,自然的実在的有の場合には,その特質によって事物を認識することが大きな混乱を惹起する理由については,スピノザは,その方法は自然の連結を再現するべきである知性の連結を転倒しているからだと述べています。次にこのことの意味を考えてみます。
 まず,一読してこの文章が,『エチカ』でいえば第二部定理七と関連しているということは自明だと思います。すなわち観念の連結はものの連結と同一でなければなりませんから,ものの連結と同じ連結で認識される場合にのみ,観念というのは十全であり得るわけです。
 そしてスピノザによる第二部定理七証明は,単に第一部公理四に訴えているだけです。つまり,ものの連結というときの連結は原因と結果の連結のことですから,観念が十全であるためにはその観念の対象ideatumの原因である事物の認識が必然的に含まれていなければならないというわけです。
 ここに事物の特質と本性の関係を導入すれば,特質というのは本性に対する結果としてあるのです。したがって,特質によって事物を認識するということは,第二部定義二により,スピノザの哲学における事物の本性というのは実はその事物そのもののことなのですから,特質によって本性を認識しているということになるのです。すなわち,本来は結果であるものによってその原因を認識しているということになります。スピノザがここで転倒といっていることの具体的な意味は,たぶんこういうことなのだろうと僕は考えます。
 このことは,スピノザの哲学の方法論と関係します。すなわちスピノザは方法論として演繹法を用いるのですが,それはまさに第一部公理三にあるように原因が先立って結果が生じるからです。これに対して結果から原因を導くような手法が帰納法であるといえるでしょう。つまり帰納法は主客転倒の方法であり,特質によって事物を認識するのは,その帰納法にほかならないということが,ここでいわれていることの主旨だと思います。
コメント
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